【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 金曜の朝、空気がすこし軽かった。
 ジャンヌは寮の部屋で支度をしながら、白いリボンを結び直す。今日は終業後、そのままライリーの部屋に泊まる約束だ。薄青のスカーフも、きれいにたたんで鞄に入れた。

(もうすぐ隣国へ行く準備で忙しくなるって言ってたし……今日はちゃんと一緒にいたい)

 胸の奥がふわっとあたたかくなる。



 帳場はいつもどおりに始まった。

 回覧札は滞りなく流れ、受領印の上に並んだ時刻がすっと目を導く。
 ケイシーもマイルズも、もうジャンヌには細かい指示をしない。ただ「午後の分が来たら見ておいて」で済むようになっていた。

(……一年前は、こんなふうに任されるなんて思わなかったな)

 そんなことを思いながら羽根ペンを走らせていると、運用棟からの伝票が届いた。今日の担当はミナだ。

「おはようございまーす。港、午前便の分でーす」

 声はいつも通り愛想が良いが、ジャンヌはもう“その奥にひと匙なにか入ってる”ことを学んでいる。にこやかに受け取って、時刻を置いた。

「助かります。午後便もお願いしますね」
「はいっ。主任にも、『帳場の方、いつも助かってるって』伝えときますね~」

 一見ただの伝言だったが「」という言葉にだけ、ほんのすこしだけ力がこもった。帳場の若手がちらっとこちらを見る。

 ジャンヌは、表情を崩さない。

「よろしくお願いします」

 ミナは踵を返しながら、視線だけでジャンヌのスカーフを確認するように流し、ふわっと去っていった。



 その日の終業の鐘が鳴った。

 封印紙に日付を押し、机を整える。
 外はうっすら夕焼けで、穏やかな風が吹き、ライリーとの約束まで、ちょうどいい時間だった。

「お疲れ様、ジャンヌ。今日は早いのね」
 ケイシーが声をかける。
「はい。今夜は寮に戻らず、知人のところに行きます」
「そう。気をつけてね」

 あえて深くは聞かない、ケイシーの大人の距離に、胸が少しあたたかくなる。

 外套を羽織り、回廊へ出る。角を曲がったところで、運用棟へ続く階段から長身が降りてくるのが見えた。

 ライリーだ。いつも通り、背筋はまっすぐで書類の束を片手にしている。目が合うと、灰青の瞳がやわらいだ。

「待たせたかな」
「いえ。今、終わったところです」

「じゃあ、荷物、持つよ。——今日はそのまま、うちへ行こう」

 と、声を落としたその時。

「主任~!」

 階段の上から、少し鼻にかけた甘い声が追いかけてきた。蜂蜜色の巻き髪、赤いリボンのミナだった。

「主任、ごめんなさい。今いいですかぁ? 例の、港の午後便の件で……」

 ライリーは、わずかに視線を時計へ送る。ちょうど終業直後だったが、仕事は無碍にもできない。

「ああ、今から出るところだから、要点だけを言ってほしい」

「はいっ。明日の朝の便が気象で一時間ずれそうなので、点呼の前に掲示を——」

「わかった。掲示の原案だけ俺に回しておいてくれ。清書は明日の朝でいい」

「……はぁい」

 ほんの少しだけ、ミナの笑顔に陰が差す。その時、彼女の視線がジャンヌにすべって、ほんの一瞬止まった。

 何も言わないまま、ミナは「お疲れさまでした~」と音を立てて踵を返す。

 ミナの足音が遠ざかるのを待って、ライリーはジャンヌのほうへ身体を向け直した。

「……待たせてごめん」
「大丈夫です。仕事ですもの。それより、掲示は大丈夫ですか?」

「明日、朝一番に対応するさ。今日は、仕事より君を優先する日と決めてるからね」

 さらっと言われて、胸が甘くなる。
 ジャンヌは外套の裾を握り、少しだけ自分から近づいた。

「……うれしいです」

「じゃあ、行こう」

 彼はいつものように寮のほうへ歩き出す——ふりをして、途中でさりげなく路地を曲がった。

 寮に直接向かわない。そのまま彼のアパートのある裏通りへ、手を繋いで向かった。

「今日は、その、泊まりの荷物も持ってきてるの」
「えらい。準備がいいな」

「だって……隣国に行く前に、たくさん思い出を作りたいから」

「俺もだ」

 石畳を二つ角を曲がるたび、通りの人影が薄くなっていく。肩が自然と触れて、繋がれた手が熱を持つ。

「ミナさん、一生懸命よね……仕事ができるようになったら、ライリーの右腕になりそう」

 さりげなく言ってみる。
 ライリーはそれが“さりげない”のではないことをすぐに察して、苦笑した。

「そうだな…彼女は頭の回転は速い。仕事をしっかり覚えてくれれば良いと思ってる。右腕になるかは未知数だな。彼女に関しての感情は、それ以上でも以下でもない」

 言い切られて、頬が熱くなる。

「……はい」

「それに、ああいう元気な子は、元気な男のほうが絶対に扱いが上手いはずだ」

「ふふっ」

 冗談めかした一言が、さっきのモヤッとしたものをすーっと消してくれた。

 アパートの外階段を上がる。木の扉が列にならぶ静かな裏通り。三階の踊り場で鍵が鳴ると、乾いた木と石鹸の匂いがふわっと漏れた。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」

 中に入ると、机にはすでにパンとスープの用意がされている。

「今日は簡単なので許して」
 と笑う彼の、その準備してくれていた気持ちが嬉しくて、ジャンヌは胸のところで手をぎゅっと握った。

(ミナさんが何を言っても、私にはこの人がいる)

 そう思えたら、昼間のあの含みのある笑顔も、もう怖くなかった。

「先に手を洗っておいで。……そのあとは、君を独り占めする」

「ふふ、わかった」

 二人の甘い週末のつづきが、静かに始まった。
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