【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 夕方、運用棟の奥にある小部屋の扉がノックもそこそこに開いた。

 顔を上げたライリーは、照合作業の途中で立ち上がろうとしたが、入ってきた支配人オーベルが手のひらで制した。

「座っていい。……忙しそうだな」

「いえ。ちょうど区切りです」

 小部屋には港から上がったばかりの書式と、黒板に描かれた簡単な流れ図。日中の喧噪が引いて、外はもう夕暮れの気配がある。

「今朝のこと、少し耳に入った」

 オーベルがそう切り出すと、ライリーはわずかに目を伏せた。

「……もう届きましたか」

「まあな。君は目立つから」

 支配人は椅子の背に片手を置き、眉をひとつ上げる。

「君の対応は間違っていない。現場で本人を正し、その場を仕事に戻した。そこまではきれいだ。……だが、廊下で拾われた“断片”だけが社内を回っている」

「申し訳ありません。静かな場所へ呼び出してから注意すべきでした」

「そこまでは要求しないよ」
 オーベルは淡々としていた。

「人の口は完全には塞げない。必要な場で必要な指摘をしたのは正しい。問題は、君の名前が出ると、些細なことでも“話題”になってしまう時期にきているってことだ」

 指先で机をこん、と一度だけ叩き、支配人は続ける。

「……ここ最近、王都のほうで“君に頼りすぎている”場面も出てきている。君が悪いわけじゃないが、若いのが“主任の私事”まで話題にするほどには、中心にいる。
中心に立つ人間にはつきものだ。……だから、一度抜いてやるのも手だと思っていたところだ」

「抜く、というのは」

「ちょうど来季の話がきている。隣国の商会から、監査と運用の指導をしてほしいと依頼があった。君が一度そこへ入り、向こうの手順を整えてくれれば、向こうの役所もこちらも助かる。期間は一年を予定しているが、先方の事情次第では二年、もしくは三年になる」

 ライリーの表情が一瞬だけ引き締まる。

「……承知しました。必要とあれば向かいます」

「そう言うと思った」
 オーベルは口元だけで笑った。

「だが、その前に私情を確かめておきたかった。君には――特別な人がいるだろう?」

 的確な一言に、ライリーは小さく息を吐き、素直に頷いた。

「はい。おります」

「ならば出立は一か月後に延ばす。引き継ぎも多いし、“特別な人”に話しておく時間もいる。……いいものは壊さなくていい」

「恐縮です」

 支配人は扉に手をかけ、ふと振り返った。

「こういう噂は、若い者には深く刺さる。帳場まで届く前に、君の口から“仕事の話”として伝えておきなさい」

「……わかりました」

 扉が閉まると、小部屋には紙の擦れる音だけが戻った。



 その夜。

 商会通りから一本入った、白い壁の小さなレストラン。雨上がりの石畳が窓の外で淡く光り、店内にはパンと煮込みのやわらかな匂いが満ちていた。

 ジャンヌは薄青のスカーフをほどきながら、向かいに座るライリーを見た。

「今日、支配人のお部屋に呼ばれたんだ」

「え……何かあった?」

 胸の奥がちくりとする。今朝のミナのことが、どうしてもかすめる。

「大したことじゃない」
 ライリーは安心させるように声を和らげる。

「今朝、運用で部下の口を止めただろう。その前半だけが別の部署に渡っていたから、“先にこちらでも釘を打っておく”って。それだけだ。君の名前は出てない」

「……そう。よかった」

 ジャンヌの肩の力が、目に見えて抜けた。
 それを確かめてから、ライリーはもうひとつ、少し表情を改める。

「それと……隣国に行く話が正式になった。来月の終わりか、再来月の初めには出る。監査と指導で、少し長くなる」

「隣国に……」

 声がほんの少し落ちる。さみしさが先に立つ前に、彼の言葉が重なった。

「戻ってくる前提だ。支配人もそこは強く言っていた。だから、離れる前に君といる時間を意識して作りたい。これからの週末は――可能な限り全部、君と一緒に過ごしたい」

「……ええ、もちろん。私もそうしたい」

 さっきまであった、名もないざわつきが、別の温度に変わっていく。離れるのは寂しい。けれど、わざわざ「一緒に過ごしたい」と言葉にしてくれる人がいる。

 ジャンヌはマグを両手で包み、あたたかさを掌に広げた。

「それでね」
 ライリーは少しだけ照れくさそうに、けれど真面目な顔で続けた。

「離れる前に、君のところに“俺はここにいる”って印を置いておきたい。君が見ればわかるような、そんな印を」
「印……?」
「そこは、出発までのお楽しみでいい?」

 わざとらしく肩をすくめるものだから、ジャンヌはくすっと笑ってしまう。

「ふふ……大きすぎる印だと、ケイシーさんに見つかるかも?」
「そのときは帳場流の三行で守るさ。“私事につき閲覧不要。問合せは運用主任まで”ってね」

 二人で笑う。笑い声が、雨上がりの夜にやさしく溶けた。

 さっき感じた小さな棘――ミナの「特別なんですね」が残したざわつきは、もうほとんど形を失っていた。

 目の前にいる人が、きちんとこちらを向いて「離れるけれど、戻ってくる」と言ってくれたからだ。





 
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