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夕方、運用棟の奥にある小部屋の扉がノックもそこそこに開いた。
顔を上げたライリーは、照合作業の途中で立ち上がろうとしたが、入ってきた支配人オーベルが手のひらで制した。
「座っていい。……忙しそうだな」
「いえ。ちょうど区切りです」
小部屋には港から上がったばかりの書式と、黒板に描かれた簡単な流れ図。日中の喧噪が引いて、外はもう夕暮れの気配がある。
「今朝のこと、少し耳に入った」
オーベルがそう切り出すと、ライリーはわずかに目を伏せた。
「……もう届きましたか」
「まあな。君は目立つから」
支配人は椅子の背に片手を置き、眉をひとつ上げる。
「君の対応は間違っていない。現場で本人を正し、その場を仕事に戻した。そこまではきれいだ。……だが、廊下で拾われた“断片”だけが社内を回っている」
「申し訳ありません。静かな場所へ呼び出してから注意すべきでした」
「そこまでは要求しないよ」
オーベルは淡々としていた。
「人の口は完全には塞げない。必要な場で必要な指摘をしたのは正しい。問題は、君の名前が出ると、些細なことでも“話題”になってしまう時期にきているってことだ」
指先で机をこん、と一度だけ叩き、支配人は続ける。
「……ここ最近、王都のほうで“君に頼りすぎている”場面も出てきている。君が悪いわけじゃないが、若いのが“主任の私事”まで話題にするほどには、中心にいる。
中心に立つ人間にはつきものだ。……だから、一度抜いてやるのも手だと思っていたところだ」
「抜く、というのは」
「ちょうど来季の話がきている。隣国の商会から、監査と運用の指導をしてほしいと依頼があった。君が一度そこへ入り、向こうの手順を整えてくれれば、向こうの役所もこちらも助かる。期間は一年を予定しているが、先方の事情次第では二年、もしくは三年になる」
ライリーの表情が一瞬だけ引き締まる。
「……承知しました。必要とあれば向かいます」
「そう言うと思った」
オーベルは口元だけで笑った。
「だが、その前に私情を確かめておきたかった。君には――特別な人がいるだろう?」
的確な一言に、ライリーは小さく息を吐き、素直に頷いた。
「はい。おります」
「ならば出立は一か月後に延ばす。引き継ぎも多いし、“特別な人”に話しておく時間もいる。……いいものは壊さなくていい」
「恐縮です」
支配人は扉に手をかけ、ふと振り返った。
「こういう噂は、若い者には深く刺さる。帳場まで届く前に、君の口から“仕事の話”として伝えておきなさい」
「……わかりました」
扉が閉まると、小部屋には紙の擦れる音だけが戻った。
*
その夜。
商会通りから一本入った、白い壁の小さなレストラン。雨上がりの石畳が窓の外で淡く光り、店内にはパンと煮込みのやわらかな匂いが満ちていた。
ジャンヌは薄青のスカーフをほどきながら、向かいに座るライリーを見た。
「今日、支配人のお部屋に呼ばれたんだ」
「え……何かあった?」
胸の奥がちくりとする。今朝のミナのことが、どうしてもかすめる。
「大したことじゃない」
ライリーは安心させるように声を和らげる。
「今朝、運用で部下の口を止めただろう。その前半だけが別の部署に渡っていたから、“先にこちらでも釘を打っておく”って。それだけだ。君の名前は出てない」
「……そう。よかった」
ジャンヌの肩の力が、目に見えて抜けた。
それを確かめてから、ライリーはもうひとつ、少し表情を改める。
「それと……隣国に行く話が正式になった。来月の終わりか、再来月の初めには出る。監査と指導で、少し長くなる」
「隣国に……」
声がほんの少し落ちる。さみしさが先に立つ前に、彼の言葉が重なった。
「戻ってくる前提だ。支配人もそこは強く言っていた。だから、離れる前に君といる時間を意識して作りたい。これからの週末は――可能な限り全部、君と一緒に過ごしたい」
「……ええ、もちろん。私もそうしたい」
さっきまであった、名もないざわつきが、別の温度に変わっていく。離れるのは寂しい。けれど、わざわざ「一緒に過ごしたい」と言葉にしてくれる人がいる。
ジャンヌはマグを両手で包み、あたたかさを掌に広げた。
「それでね」
ライリーは少しだけ照れくさそうに、けれど真面目な顔で続けた。
「離れる前に、君のところに“俺はここにいる”って印を置いておきたい。君が見ればわかるような、そんな印を」
「印……?」
「そこは、出発までのお楽しみでいい?」
わざとらしく肩をすくめるものだから、ジャンヌはくすっと笑ってしまう。
「ふふ……大きすぎる印だと、ケイシーさんに見つかるかも?」
「そのときは帳場流の三行で守るさ。“私事につき閲覧不要。問合せは運用主任まで”ってね」
二人で笑う。笑い声が、雨上がりの夜にやさしく溶けた。
さっき感じた小さな棘――ミナの「特別なんですね」が残したざわつきは、もうほとんど形を失っていた。
目の前にいる人が、きちんとこちらを向いて「離れるけれど、戻ってくる」と言ってくれたからだ。
顔を上げたライリーは、照合作業の途中で立ち上がろうとしたが、入ってきた支配人オーベルが手のひらで制した。
「座っていい。……忙しそうだな」
「いえ。ちょうど区切りです」
小部屋には港から上がったばかりの書式と、黒板に描かれた簡単な流れ図。日中の喧噪が引いて、外はもう夕暮れの気配がある。
「今朝のこと、少し耳に入った」
オーベルがそう切り出すと、ライリーはわずかに目を伏せた。
「……もう届きましたか」
「まあな。君は目立つから」
支配人は椅子の背に片手を置き、眉をひとつ上げる。
「君の対応は間違っていない。現場で本人を正し、その場を仕事に戻した。そこまではきれいだ。……だが、廊下で拾われた“断片”だけが社内を回っている」
「申し訳ありません。静かな場所へ呼び出してから注意すべきでした」
「そこまでは要求しないよ」
オーベルは淡々としていた。
「人の口は完全には塞げない。必要な場で必要な指摘をしたのは正しい。問題は、君の名前が出ると、些細なことでも“話題”になってしまう時期にきているってことだ」
指先で机をこん、と一度だけ叩き、支配人は続ける。
「……ここ最近、王都のほうで“君に頼りすぎている”場面も出てきている。君が悪いわけじゃないが、若いのが“主任の私事”まで話題にするほどには、中心にいる。
中心に立つ人間にはつきものだ。……だから、一度抜いてやるのも手だと思っていたところだ」
「抜く、というのは」
「ちょうど来季の話がきている。隣国の商会から、監査と運用の指導をしてほしいと依頼があった。君が一度そこへ入り、向こうの手順を整えてくれれば、向こうの役所もこちらも助かる。期間は一年を予定しているが、先方の事情次第では二年、もしくは三年になる」
ライリーの表情が一瞬だけ引き締まる。
「……承知しました。必要とあれば向かいます」
「そう言うと思った」
オーベルは口元だけで笑った。
「だが、その前に私情を確かめておきたかった。君には――特別な人がいるだろう?」
的確な一言に、ライリーは小さく息を吐き、素直に頷いた。
「はい。おります」
「ならば出立は一か月後に延ばす。引き継ぎも多いし、“特別な人”に話しておく時間もいる。……いいものは壊さなくていい」
「恐縮です」
支配人は扉に手をかけ、ふと振り返った。
「こういう噂は、若い者には深く刺さる。帳場まで届く前に、君の口から“仕事の話”として伝えておきなさい」
「……わかりました」
扉が閉まると、小部屋には紙の擦れる音だけが戻った。
*
その夜。
商会通りから一本入った、白い壁の小さなレストラン。雨上がりの石畳が窓の外で淡く光り、店内にはパンと煮込みのやわらかな匂いが満ちていた。
ジャンヌは薄青のスカーフをほどきながら、向かいに座るライリーを見た。
「今日、支配人のお部屋に呼ばれたんだ」
「え……何かあった?」
胸の奥がちくりとする。今朝のミナのことが、どうしてもかすめる。
「大したことじゃない」
ライリーは安心させるように声を和らげる。
「今朝、運用で部下の口を止めただろう。その前半だけが別の部署に渡っていたから、“先にこちらでも釘を打っておく”って。それだけだ。君の名前は出てない」
「……そう。よかった」
ジャンヌの肩の力が、目に見えて抜けた。
それを確かめてから、ライリーはもうひとつ、少し表情を改める。
「それと……隣国に行く話が正式になった。来月の終わりか、再来月の初めには出る。監査と指導で、少し長くなる」
「隣国に……」
声がほんの少し落ちる。さみしさが先に立つ前に、彼の言葉が重なった。
「戻ってくる前提だ。支配人もそこは強く言っていた。だから、離れる前に君といる時間を意識して作りたい。これからの週末は――可能な限り全部、君と一緒に過ごしたい」
「……ええ、もちろん。私もそうしたい」
さっきまであった、名もないざわつきが、別の温度に変わっていく。離れるのは寂しい。けれど、わざわざ「一緒に過ごしたい」と言葉にしてくれる人がいる。
ジャンヌはマグを両手で包み、あたたかさを掌に広げた。
「それでね」
ライリーは少しだけ照れくさそうに、けれど真面目な顔で続けた。
「離れる前に、君のところに“俺はここにいる”って印を置いておきたい。君が見ればわかるような、そんな印を」
「印……?」
「そこは、出発までのお楽しみでいい?」
わざとらしく肩をすくめるものだから、ジャンヌはくすっと笑ってしまう。
「ふふ……大きすぎる印だと、ケイシーさんに見つかるかも?」
「そのときは帳場流の三行で守るさ。“私事につき閲覧不要。問合せは運用主任まで”ってね」
二人で笑う。笑い声が、雨上がりの夜にやさしく溶けた。
さっき感じた小さな棘――ミナの「特別なんですね」が残したざわつきは、もうほとんど形を失っていた。
目の前にいる人が、きちんとこちらを向いて「離れるけれど、戻ってくる」と言ってくれたからだ。
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