【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 甘い週末が終わり、新しい週が動き出した。

 午前の帳場。回覧札はいつものように流れ、受領印の「上」にそろえた時刻がまっすぐ並んでいる。

 ジャンヌがそれを確認していると、運用棟から伝票束を抱えたミナが、必要以上に華やかな声で入ってきた。

「帳場にお届けでーす。いつもお世話になってます、ジャンヌさん」

「ありがとうございます。こちらにどうぞ」

 ジャンヌが落ち着いた手つきで受け取り、時刻を書き込もうとした瞬間、ミナがわざと距離を詰めた。香水がふっと混ざる。

「やっぱり、きれいですね、そのリボン。主任がよく見つめているのがわかる気がします」

 ペン先がほんの一瞬だけ止まる。
 声は柔らかいのに、「主任が見つめている」のところだけ、甘い膜の下に“特別扱いされてるんですよね、あなた”というとげがあった。

「私、見たんです。お二人が仲睦まじく帰っている姿を。主任は、ジャンヌさんを女子寮まで送ってましたよね?」

「……ええ…まぁ、」
 ジャンヌは淡く笑って済ませ、またペンを滑らせる。

 ミナは机の縁に手を置き、さらに続けた。

「主任、女の人を送るなんてめったにしないんですよ?私、配属されてから一度も見たことなくて。――だから、すごいなって。ジャンヌさんがって感じですよね」

 声量は控えめなのに、帳場の近くにいた若手がちらりとこちらを見た。

 その言い方に、近くで帳面をまとめていた若手がちらっとこちらを見る。噂の火種には十分な音量だった。
 ジャンヌはその様子を横目でとらえ、すぐに話題を戻す。

「…ミナさん……港の分、午前は青で合っていますね。午後の分が届いたら、もう一度こちらへお願いします」
 
「了解でーす。あ、それと主任にも伝えておきますね。“私情は仕事に持ち込まないようにって、帳場でも言ってました”って」

「……そんなこと、言ってませんよ」
 ジャンヌはやわらかく否定したが、ミナは「あ、そっか。わたしの聞き間違いかなぁ」と口先だけ謝って、くるりと踵を返す。

 後ろ姿だけがご機嫌で、その場の空気は“ジャンヌと主任は付き合っているらしい”という匂いが残った。

 ほんの少しでいい、あとで人がふくらませるのに足りるくらいの量を滲ませていた。

 
 *

 運用棟へ戻ったミナは、さっきのしたたかさを消して、いつもの愛想のいい新人に戻る。

「ライリー主任、帳場に届けてきました。“午前の色は合ってます、午後便が遅れそうなら先に知らせてほしい”そうです」

「わかった。伝えてくれて助かる」

 ライリーは相変わらず仕事の声色だった。ミナは“そこ”を崩したくて、さらに一歩だけ踏み込む。

「主任って、人を送るときはちゃんと送るんですね。女子寮まで……えへ、なんか素敵だなって」

「何の話だ」

 灰青の瞳がわずかに細くなった。怒りではなく、境界を引く時の目だった。

「ミナ。仕事に関係のないところは触れなくていい。君に悪気がないのはわかってる。ただ、他部署の人の様子をここに持ち込むのはやめよう。君自身が困ることになる」

「……はあい。すみません、主任」

 返事は素直だった。でも胸の奥では別の声がくすぶる。

(そんなに……あの帳場の人がいいんだ。別に大した美人でもないのに)

(じゃあ仕事で抜けば、こっちも見てくれる?――どうせ“特別”なら、つついたら崩れるかもしれないし)

 外に出るミナの笑顔は完璧だった。

 *

 渡り廊下では、帳場の若手が書類を抱えたまま、行き交う人の波をよけていた。ちょうど前方で、ミナがライリーを呼び止めているのが見えたのだ。

 距離があるので言葉までは聞こえない。けれど、新人が何かを食い下がり、主任が静かに首を横に振っているのは一目でわかる。あれは仕事じゃない、個人的な話をしたんだろう――そう想像するには十分な絵面だった。

 その程度の断片が昼の休憩でこぼれる。

「運用の新人の子、今朝ライリー主任に“ここではそういう話はするな”って穏やかに止められてたよ」

 わずかな話が、相手の名前がないまま広がる。

「誰のことを話してたんだろうね」

――名前の空白に、人の好奇心がするりと入りこんでいった。




 廊下の曲がり角でそれを耳にしたケイシーは、すぐに声を落として注意する。

「仕事の場で私語はしないで。人の名前が出る前にやめておきなさい」

 ケイシーから射抜くように見つめられた若手は慌てふためき、その場は解散になった。

* 

「どうした、ケイシー」

 支配人室に入ってきたケイシーの表情がいつもより硬いのを見て、オーベルが声をかけた。

「噂になる前に、先に押さえておこうと思いまして」

 オーベルは眼鏡を外し、書類から視線を上げる。

「誰の件だ」
「運用のライリー主任です。今朝、部下の子の軽口を止めたそうなんですが、その“前の部分”だけが別部署に伝わってしまったようで」
「ふむ……」

 オーベルは小さく喉を鳴らし、机の端を指で一度だけとんとんと叩いた。

「いい仕事をする者には、余計な注目もついて回る。だがうちは私生活を詮索して回す職場じゃない。――私のほうからも言っておこう。本人にも、先に知らせておく」

「お願いします。彼は部署をまたいで動くことが多いので、尾ひれが付く前に」
「わかっている」

 オーベルは再び眼鏡をかけ、書類に視線を戻す前にひとことだけ付け加えた。

「……人の口は完全には塞げん。だからこそ、こちらの線だけははっきり引いておこう」

 ケイシーは小さく頷き、静かに部屋を出ていった。




 
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