言の葉デリバリー

粟生深泥

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エピローグ

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 普段雪乃さんが使っているノートパソコンを今日はテレビ代わりに使わせてもらっている。そのパソコンの画面には駅伝の中継が流れていて、一号車の映像、つまりは先頭集団の中で見慣れた人物が額に汗をにじませながら走っている。

「ねえねえ、道尾さん大丈夫かな?」
「大丈夫、だと思います。恭太がいうにはこんな感じのときの道尾さんが一番強いそうです」

 道尾さんや恭太が出場する駅伝の中継を言の葉デリバリーの事務所で見守っていた。夏希さんは食い入るように、雪乃さんもじっとレースの行く末を見つめている。さっきスタートして多くの選手が飛び出していった思っていけたど、あっという間に一区の最終局面に差し掛かっていた。画面に映るのは、道尾さんを含め三人のランナー。

「さあ、先頭を行く三人ですが、長部田大学は三位以内で襷を繋ぐと過去最高の順位となります。そして、恐らくそれはもう間違いないでしょう!」

 実況の解説の通り後続は一号車の映像からはかなり遠く離れている。あとは、道尾さんが一つでも前の順位で襷を繋げるよう祈り続ける。
 しかし、中継地点まであと一キロというところで道尾さんが一歩二歩と遅れ始めた。どうにか食らいついてはいるけど、他の二人に比べると余裕はなさそうだった。そのままじりじりと引き離されていく。道尾さんの顎が苦しそうに持ち上がった。

「翔っ!」

 中継越しにも聞こえる沿道からの歓声に聞きなれた声が混じる。
 沿道に長部田大学の陸上部のジャージを着て大きく手を振る木下さんの姿が見えた。

「待ってるから! 駆け抜けろっ!」

 木下さんの声が響き、道尾さんの視線がじっと木下さんを見据えてその前を駆け抜けていく。ぐっと道尾さんの口が一文字に結ばれた。ペースが上がり、それまで離されていた距離を少しずつ詰めていく。
 苦しそうだった眼にはいつの間にか光が宿っていた。

「なんということでしょう! 一度は離された長部田大学の道尾翔が前を追います! 襷を握りしめて加速していく! まもなく並びます! 今、並んだっ!」

 道尾さんは肩から掛けていた襷を外すと右手に巻き込むようにして握りしめる。そこからはもう混戦だった。抜かれては抜き返しを繰り返しながら中継所へと向かっていく。あ、一人遅れた!
 そこで映像は第一中継地点に切り替わった。コース上に三人のランナーが立っている。そのうちの一人は恭太だった。恭太は道尾さんに向かって両手を振る。

「翔さん! ラスト!」

 夏の駅伝の給水時、道尾さんは恭太に冬は一緒に走ると言った。その言葉は襷リレーという形で果たされようとしている。中継地点に二人の選手が駆けこんでくる。ラストスパート、10km以上走ってきたとは思えない猛ダッシュ。

「行ってこい! 恭太!」

 道尾さんから恭太への襷が、一位から一歩だけ遅れてつながる。襷が力強く手渡され、恭太は前を追って駆け出していく。襷を渡した道尾さんは力を使い果たしたようにフラフラと脇へと逸れていった。

――プルルルルル。

 そこで着信音。夏希さんのスマホだった。夏希さんは小さく首をすくめるとスマホを持って事務所の外に出る。中継を見ている僕らに気をつかってくれたようだ。
 パソコンの画面では映像が倒れ込んだ道尾さんを追っていた。道尾さんのタイムには一位の大学と並んで区間新の文字が付されている。そんな翔さんの元へ長部田大学のジャージを着た女性が駆け寄ってきたところで、映像は他の大学の中継に切り替わった。
 これなら道尾さんが言っていた「もう一つ」も上手くいくんじゃないかな、と願いながら息をついて肩の力を抜く。

「いつの間にか、息止めて見てた」
「私も」

 じっとパソコン画面を見つめていた雪乃さんと顔を見合わせて、ふっと笑い合う。
 結婚式が終わってから一週間、その間言の葉デリバリーは休みをもらっていたから雪乃さんと直接会うのは久しぶりだった。
 結婚式が終わってすぐ電話をしたい気持ちもあったけど、やっぱり直接伝えたくて今日まで連絡もとっていなかった。

「ありがとう。おかげでちゃんと伝えられたよ」

 雪乃さんが書いてくれたのは僕自身の物語だったけど、僕は初めて雪乃さんの物語に納得のいく色を付けられた気がする。

「そう」

 いつものように簡潔に答えてから、雪乃さんは視線をさ迷わせる。それは何か言葉を探しているようで。だけど、すぐに諦めたように息をついた。

「それから、どうなったの?」

 不安そうに尋ねる雪乃さんに僕は親指を立ててみせる。雪乃さんの口から今度はホッとした息が漏れた。

「結婚式の次の日、家族四人で食事に行ってさ。冗談交じりに『碧も家庭を持ったんだから、今後は一切気遣い無用だな』って話になって」

 兄の希望で近所のファミレスでの食事だった。せっかくだからちょっといい店にでも行けばいいのにと思ったけど、ファミレスで四人向き合って話すのは随分と久しぶりで、何だか昔に戻ったみたいだった。物心がつくかどうかの頃、まだ歪なんてなかった時に。

「そんなにすぐには変われないと思うけど。でも、今度の正月はゆっくり返ってもう一度ちゃんと向き合ってみようと思う」

 こくりと雪乃さんが頷く。言葉はないけど、雪乃さんのその仕草でようやく全部やり切ったんだなって実感がわいてきた。
 
「雪乃さんが物語書いてくれて、初めて一人で朗読しにいった時みたいに頑張れって書いてくれて。それで背中を押してもらって動くことができた。今度なんかお礼しないとだね」
「……それなら」

 雪乃さんがおもむろに立ち上がると僕に向かって両手を広げた。
 雪乃さんの視線が促すように僕を見る。それはまるでハグを求めるようにも見えるけど、えっと、つまり。

「違うから」

 どうすべきか迷っている間にいきなり否定された。

「これはあくまで……えっと、その、資料だから。執筆の幅を広げるための経験値を拡げるための。余計なことは考えなくていい」

 珍しい早口でまくし立てるように言い切ると、雪乃さんはうつむいてしまう。
 そんな雪乃さんに両手を回し、そっと抱き寄せる。雪乃さんがハッと息を吸う音が聞こえた。その顔が僕の胸にうずめられる。
 雪乃さんの体は細くて小さくて、でもずっとこうしていたくなるほど温かい。

「ありがとう」

 他にどんな言葉も浮かんでこなくて、一言伝えて腕に少し力を込める。
 雪乃さんが僕の背中に回した手がギュッと僕の服を握りしめた。

「この前の夏希の気持ちが……痛いほどわかった」
「えっ?」

「たった一週間のはずなのに、段々と心細くなって。そんなことないと思ってるのに、このまま戻ってこなかったらどうしようって考えてて」

 もう一度雪乃さんの手に力が込められてから、雪乃さんが顔をあげる。
 雪乃さんの透明な瞳はどこか熱っぽさを帯びていて、僕をじっと見てからゆっくりと閉じられる。

「おかえり。悠人君」

 いつも魔法の言葉を紡ぐ口元にそっと顔を近寄せる。

「ただいま。雪乃さん」

 僕も目を閉じたところで、バアンと事務所のドアが開く音。

「悠人君! 休み明け早々だけど、さっそくお仕事の依頼! 『自分を変える物語』っていう今の悠人君に、ピッタリの……依頼、だから?」
 
 事務所内に勢いよく戻ってきた夏希さんの声がどんどんとしぼんでいく。突然のことに今どうするべきか思考が追い付かない。ただ口をパクパクしている夏希さんを見ながら顔に熱が昇っていく感覚。

「あー、そう思ったけど。私届けてくるから、気にしないで。うん、じゃあ、ごゆっくり……」
「ち、違いますんで! これは今度雪乃さんが書く物語の再現なので! 宅配、宅配は僕が行きます! いやー、久しぶりで腕が鳴るなー!」

 再び事務所の外に姿を消そうとした夏希さんを必死に呼び止める。このまま雪乃さんといたい気持ちはあったけど、流石に夏希さんを宅配に行かせた状態でもう一度続きをってことにはならないし、罪悪感が凄いことになりそうだし。

「悠人君、これ。ちょうど昨日書き上がった」

 雪乃さんは僕の腕からするりと抜け出すと、目を合わせる事無くノートパソコンの横に置いてあった冊子を差し出す。さっそく目を通したかったけど、今は一刻も早くこの場から離れよう。

「いいよいいよ、ごゆっくりー。私に気をつかわないで」
「家族に気をつかう必要がなくなったんで、そういうの余ってますから!」

 夏希さんの手から仕事の内容が書き込まれた伝票をひったくるように受け取る。まだ時間はあるから近くまで行ったところで雪乃さんの物語を確認することはできるだろう。

――さあ、二区も中盤。先ほど歴代最高順位で襷をつないだ長部田大学の月代恭太が懸命に食らいつきます!

 雪乃さんのパソコンから実況の音声が響いてくる。その様子を見守っていたい気持ちもあったけど、あいつならきっと大丈夫。少しだけ目を閉じて、全力で走る恭太に頑張れの言の葉を送る。

「じゃあ、行ってきます!」
「いってらっしゃい」
「気をつけて」

 夏希さんと雪乃さんの声に見送られて、僕は駐車場のバイクの元へと向かう。
 再開した弁当屋は店頭販売だけでも盛況らしく、宅配はまず年が明けたら土日から再開するということになった。宅配スタッフは僕以外にもいるから、週に一回程度弁当屋をかけ持つ予定だ。
 バイクのアクセルを握りしめると、十二月にしては珍しく温かな陽だまりの中をゆっくりと走り出す。

――これからまた、物語を必要とする誰かのために想いの籠った言の葉に一欠片の色を添えて届けていこう。
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