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「どうしよう……」
 ツィアは静かに座っていることもできないほど動揺していた。
 つい先程購入した媚薬が入っている木箱を抱え、部屋をぐるぐると歩き回る。
 頭の中はあまりに不自然すぎた恋人への対応でいっぱいだ。
 ツィアの態度は不自然すぎた。
 街で偶然遭遇することはあり得なくはない話だ。
 それなのに、あからさまにうろたえ、彼の呼びかけを無視して逃走。
 やましいことがある人間の行動そのものだ。
 だが、もし彼がなにも気に留めていなかったら?
 本人がなんとも思っていないのにこちらから言い出すのは完全なる墓穴だ。
 今後のセオルへの対応、謝罪か何事もなかったかのように過ごすか。
 何度考えても答えが出ず、ただただ部屋の中をうろうろするばかり。
 なにか伝えるなら早い方がいい。
 でも、もしも取り越し苦労だったら。
 延々と同じ考えが巡り続ける。
 鳴り響く鈴の音にツィア肩がびくりと大袈裟に跳ねた。
 突然鳴ったのは、訪問者を知らせる玄関扉のベル。
 特に誰かを招いているわけでもなく、配達の時間にしては早すぎる。
「ツィア? セオルだよ」
 予想はしていたが、今一番会いたくない人物が来てしまった。
 まだどう対応するか決めていない。
 だが、彼の自宅とツィア宅の距離は徒歩10分。
 近所なので気になることがあれば、ひとりでもんもんと悩むより訪ねてしまった方が早いのは確か。
 しかもあんなに不自然な態度を見せたなら、自分の恋人になにかあったのかと考えるのが普通だろう。
 ツィアが帰宅してからおそらく30分も経っていない。
 セオルは自身の用事を済ませてすぐに訪ねてきたのだろう。
 ここで居留守を使うのも忍びない。
 慌てて木箱をソファーの下へ隠し、招き入れる前にゆっくり深呼吸をしてから扉を開ける。
「い、いらっしゃい……」
「おはようツィア」
 爽やかな笑顔だ。
 一見愛想の良い好印象な表情。
 だがこの顔は密かに怒っている時の顔だとツィアは知っている。
 店でのツィアの態度についてだろう。
 普段のセオルは優しくておっとりしている穏やかな性格だが、ツィアのことになると稀に態度が変わることがある。
 ツィアに危害を加えるわけではないし直接的に怒鳴ったりしないのだが、嫉妬の類で笑顔で静かに怒る。
「サンドイッチ買ってきたんだ。一緒に朝ご飯にしよう」
 有無を言わせない笑顔の圧に、逃がすまいという強い意志を感じる。
「ど、どうぞ……」
 頬が引き攣らないように表情筋を必死で動かした。

 ふたりでキッチンに立ち一緒に朝食の準備をする。
 セオルがサンドイッチを皿に盛り付け、ツィアは紅茶を入れる。
 いつ問いただされるのかと内心びくびくしていたが、一向に雑貨店での話題は出ず、他愛もない日常会話が繰り返されるだけだった。


 食事中もそれは変わらず、流れる穏やかな空気感。
 けれどツィアの心は休まらなかった。
 なんとかすべて食べ終えたが、緊張でほとんど味がしなかった。
 セオルが後片付けを申し出てくれたが、なにかしていないと不安で彼を押しのけて皿洗いを始めた。
 食事が終わったからと言って早々に追い出すのは気が引けて、食後の紅茶を出しつつゆっくりゆっくり皿洗いを進める。
 なんとか時間を稼いでその間に言い訳を考えようという魂胆だ。
 必死で思考を巡らせるが結局いい案は出ず、目の前の皿はすべて綺麗に洗い終わってしまった。
「ありがとうツィア。一緒に紅茶飲もう?」
 セオルに促されるままソファへ腰掛ける。
 家を訪ねてきた時の圧は消え、いつも通りの穏やかな笑顔に見える。
 やはり思い過ごしだったのかもしれない。
 少し胸を撫で下ろし、華やかな香りの紅茶をひと口含む。
 温かさが喉を解し、気持ちもいくらか和らいでいった。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
 紅茶を飲み終えた彼が笑顔で言う。
「朝からお邪魔しました」
 セオルが帰る流れになっている。
 もしかしたら彼は今朝のツィアを不審に思っていないしなにを買ったのか気付いていなかった?
 気にしていない?
 この窮地を脱する可能性に、わずかに頬が緩む。
「……随分と嬉しそうだね」
 彼の言葉を聞いて、心境が顔に出ていたことに気付く。
「そんなに僕が帰るのが嬉しい?」
 いつもよりゆっくりと、ひと言ひと言を刻み付けるように彼は言う。
「ぁ、そ、そういうわけじゃなくて……」
「ふーん……じゃあさ、帰る前にひとつ気になることがあるんだけど」
 ぎくりとする。
「今朝、雑貨屋でなに買ったのか、教えて?」
 いつの間にか距離が詰められ、セオルに手首を掴まれていた。
 囚われ退路を断たれる。
「ぁ、たいしたものじゃ……」
「木箱に綺麗な薔薇、彫られてたね?」
 ツィアの見た限りではあの店に似た外装の商品は見当たらなかった。
 完全にばれている。
「最近入荷されたばっかりだって店主が言ってたよ。今王都で流行っている、ともね」
 明るいままの変わらない声色。
 だが確実に機嫌を損ねている時の冷たさがある。
「ねえ、あれ、なあに?」
「……っ」
 すぐには答えられなかった。
 “あなたとの情事でもっと色っぽくなるための薬です”とは恥ずかしくて言えない。
 他の言い回しを考えてみるがまったく言い案は出ない。
「まあ、知ってるんだけどね」
 やっぱりわかった上で聞いていたのだ。
 普段は優しくツィアを気遣い、嫌がることなど絶対にしないセオル。
 ただし、自身が怒っている時は例外で、少々強引な行動に出ることがある。
 以前ツィアが職場の男性と歩いている場面を見た時も同じような状況になった。
 退勤後その男性が無理矢理ついてきただけで、やましいことはなにもなかったし、むしろ迷惑していたくらいだ。
 同僚がツィアの腕を掴んだ瞬間、背後からセオルが現れ引き剥がして助けてくれた。
 ツィア自身困っていたので彼には感謝しかない。
 が、その後帰ってからセオルから笑顔で問い詰められることになる。
 笑顔と優しい物言いはいつもと変わらない。
 なのに、言葉の端々から棘のようなものを感じた。
 ありのままを伝えたらすぐに理解してくれたが、説明するまではぴりぴりとした空気をまとっていたセオル。
 ツィアのことを愛しているからこその言動であるとわかってはいた。
 嫌悪はないし、むしろ嬉しい。
 だが、彼に無用な心配をかけたくない。
「ねえ、なあに?」
 笑顔で問いかけられる。
 先程よりも語気が強まる。
 どう答えたらいいのか、まだ答えが出ない。
「そういう物、欲しがるタイプだったっけ?」
 これまで情事に関して積極的になったことはない。
 ならない、というよりも、なれない、が正しい。
 彼ともっと気持ち良くなりたい、もっと楽しませたい。
 そう思いながらも、どうしても羞恥心が大きくて行動に移すことはできなかった。
 恥じらいでうまく応えられなくても、いつも「大丈夫、無理しないで」とツィアの気持ちを最優先にしてくれていたセオル。
 確かにこの状況、今まで自分との色事に消極的だった恋人がいきなり媚薬を購入していれば不信がるのも無理はない。
 早く誤解を解かなければ。
 気持ちばかりが急いて言葉が見つからない。
「ひとりで使うのかな」
 どうしよう。
 早くなにか言わないと。
「もしかして、一緒に使いたい相手がどこかにいるの?……そんなことは、ないよね?」
 彼から笑顔が消えた。
 これまでに見たことがない冷たい表情。
「違っ……!」
 驚きとうまく言葉が出てこないもどかしさで途中で詰まってしまう。
「じゃあ、なんでこんなもの買ったの?」
 セオルの顔が近付いてくる。
「それ、は……」
「なに? 言えないの? 言えないようなことしてるの?」
 彼の声が悲痛に揺れ始める。
「……確かにね。僕との夜、そんなに乗り気じゃないみたいだもんね。いつも僕ばっかりが求めてる」
「そんなこと、ない……」
「なら、なんでこんな物買ったの?」
 涙声で彼が言う。
「嫌だった? ツィアに無理させてた? 君が嫌ならもうしない。触れない。だから他の男のところなんかに行かないで。好きだよ。愛してる、ツィア。君しかいないんだ。側にいてよ」
 手首を強く引かれ、その勢いのまま彼の胸の中に閉じ込められた。
「どこにも……行かないで…………」
 か細い声がツィアの耳を揺らす。
 はっきりと言葉に出来ない自分を酷く嫌悪した。
 セオルを悲しませたいわけじゃないのに、こんなにも彼を追い詰めてしまった。
 最初から正直に話をできていればここまでこじれなかっただろう。
 自身の羞恥や臆病さを優先した結果、幸せにしたい相手を傷付けてしまった。
 恥ずかしいなどと言っている場合ではない。
 ツィアは伝える意志を固める。
「違う……違うの、セオル」
 手を伸ばし、彼の背をさする。
「一緒に使いたい人が居るのは、合ってるんだけど」
 彼の肩がわずかに震える。
 ツィアを抱き締める手に力がこもった。
 締め付けられ、少しだけ苦しくなる。
 まだ誤解は解けていない。
 続けて言葉を紡ぐ。
「セオル……と……使い、たくて……」
 声がわずかに裏返ってしまった。
 緊張で喉が引きつる。
「いつもセオルが私に触れる時、優しくて気持ち良くて、すごく嬉しいの。でも、いつも私ばっかりしてもらって、セオルになにも返せないのが悲しいなって。なのに、どうしても恥ずかしくて積極的になれない自分が嫌だったの。もっとセオルを楽しませたいし、気持ち良くなってもらいたい。この薬を使えば積極的になれるって聞いて、それでこっそり買いに行って内緒で使おうと思ってたの」
 一息で言い切る。
 どんな反応が返ってくるかわからない怖さと、赤裸々に胸の内を吐露する恥ずかしさで、彼の顔が見れない。
「…………」
 セオルからの返事がない。
 ツィアを抱き締めた体勢のまま固まっている。
「ぁ、セオル……?」
 不安になり名を呼ぶ。
 彼からの応答はない。
「セオ……っ!」
 もう一度名を呼び終わる前に勢いよく体が離された。
 ツィアの肩を掴むセオルの手には力がこもり少々痛い。
「それ、ほんと?」
 見開かれ丸くなった彼の瞳にまっすぐ見つめられる。
 正面を切って伝えることに恥じらいはあるが、彼の誤解を解きたい一心で言葉を紡ぐ。
「……うん。セオルと、使いたいの」
 ツィアの言葉に、彼は驚愕とも放心とも取れる微妙な表情をしている。
 品がないと呆れられてしまっただろうか。
 一抹の不安が押し寄せるも、次の瞬間セオルが崩れ落ちるようにソファに沈み込んだ。
 両手で顔を覆い呻きだす。
「え……嘘……ほんと、ほんとに……僕と? …………なにそれ、可愛すぎ」
 ぶつぶつもごもご言っていてあまり聞き取れない。
「ぁ、セオル……?」
 ツィアの声が耳に入っていないのか反応が返ってこない。
 肩に触れて呼びかける。
「っあ、ごめん、ツィア」
 ひとりの世界に入り込んでいたことにようやく気付いたらしい。
 やっと目が合う。
 ほんのりと赤味を帯びた目元が柔らかく解れ、嬉し気に目を細めている。
 少し朱に染まった頬がきゅっと上がっている。
「その……僕のことを想って買ってくれたってことで、いいんだよね。媚薬」
 改めて言われると恥ずかしい。
 無言で何度も頷く。
「どうしよう……嬉しい」
 強く抱き寄せられた。
「僕のために頑張ってくれたんだね。本当に嬉しいよ」
 彼の少し掠れた声が甘く耳元をくすぐる。
「でもね、勘違いしないでほしいのは、ツィアは今のままでも充分可愛い。綺麗だし、素敵なんだ」
 耳元で紡がれる甘い言葉にどきどきする。
「僕の為にいっぱい悩んでくれてありがとう。気付いてあげられなくてごめんね」
 体が離され視線が絡む。
 優しくてどこか熱を帯びた瞳。
 柔らかく微笑む彼。
「ツィアが思ってる以上に、僕はツィアが大好きなんだよ。薬なんて必要ないくらい魅力的だと思ってる」
 額に彼の唇が触れる。
 セオルの指がツィアの髪をひと房すくい上げ、そこにもキスが降った。
 流れるような美しい所作に、ツィアは見惚れてしまう。
 夢中で見つめていたら、ばちっと目が合った。
「ぁ、えっと……」
 照れ隠しで顔を逸らす。
「こ、これ」
 見惚れていたことを誤魔化したくて、苦し紛れに媚薬の木箱を手に取る。
「必要ないし、返品してくるね」
「……いいや?」
 木箱を持った手を彼に取られ木箱が奪われる。
「使わないとは言ってないよ?」
 セオルが不敵に笑う。
 先程までの甘く蕩けそうな微笑はなりを潜め、怪しく扇情的に口角が上げられている。
「ねえ、どうやって使うの?」
 ぐっと彼が距離を詰めてくる。
 思わず仰け反るが、腰に腕を回され拘束される。
 顔を背けることもままならない距離に心臓が強く跳ね上がった。
「あ、え……直接、塗る、らしい」
 しどろもどろ答える。
「どこに?」
「ぁ、……」
 直接的な言葉を言うのが恥ずかしくて口ごもる。
 動揺で視線をさまよわせ、彼を窺い見るも嬉しそうに微笑むだけ。
 絶対にわかった上で聞いている。
 言わされることが恥ずかしくて目が泳いでしまう。
 すぐに顔を逸らすことも許されなくなって覗き込まれた。
「本当に知らないんだ。だから、教えて? ね?」
「っ……」
 蕩けるはちみつのように甘い笑顔を向けられた。
 愛おしさを隠しもしない熱のこもった甘ったるい視線。
 この視線が大好きで、いつも絆されてしまう。
「っ、下、に……」
「舌?」
 意を決して言葉にしたのに、多分伝わってない。
「っここ!」
 やけくそでセオルの手を掴んで下腹に触れさせる。
 今までこんなことをしたことがない。
 恥ずかしい。
 色気もなにもない荒々しい所作。
 なんでもっと可愛くできなかったのか、恥じらいと後悔が押し寄せる。
 この媚薬は、女性の蜜口や快感を得る蕾への塗布で効果を発揮するらしい。
 さすがにその場所へ彼の手を押し付けることはできず、秘処というよりほぼお腹。
 服越しなのに、彼の手が触れる下腹が熱くなっていく感覚がする。
 ツィアの突然の行動に、セオルは驚いた顔を見せたがすぐに笑顔に変わった。
「顔が真っ赤だ、可愛いツィア。ねえ、僕が塗ってもいい?」
 心底幸せそうな顔をされたら、断る事なんて出来なかった。
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