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9 律の事情
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文学賞を受賞後。とんとん拍子に作家デビュー、映画化が決まった。
その数年は目まぐるしく人生が動いていて、まるで自分が他人の物語を生きているかのように現実感がなかったものだ。
その後も推理小説などを何作か手がけてきたが、デビュー作ほどの鮮烈さはなかったようで読者は徐々に減っていた。それでもコアなファンがついていたおかげで仕事は尽きず、百社近く応募してようやく受かったブラック企業を退職することができた。
願わくば、このままずっと作家業一本で食っていけたらと望んでさまざまな仕事を受けてきたし、柄にもなくメディアへの顔出しもたくさんやった。
これまでいた場所に戻りたくない一心だった。
ブラック企業にいた頃、律のコミュニケーション能力の低さや影のある暗い顔立ちは、ノリ重視の体育会社員たちからのからかいの的だった。
彼らの軽いノリについていくことができず、いつも気の利いた反応ができなかった。目上の社員に話しかけられると緊張して、たらたと汗をかいてしまう。
せっかく拾ってくれた会社だからと頑張って働いてたけれど、総務部から営業部へ異動させられたときは絶望した。ただでさえ他者との付き合いにストレスを感じ続けていたというのに、さらに過酷な現場へ行けというのだ。
だが、自分を変えるチャンスかとも思い、必死で笑顔を作って企画を持ち込んだ。だが、結果は散々だ。
そのストレスから逃れるために、学生時代から書き続けていた小説に縋っていた。
辛い現実から離れ、物語の中に没頭している間だけ、律は息をすることができたのだった。
ただでさえ細い身体は痩せ、表情を動かすことさえできなくなってきたある日、受賞の知らせが届いた。
嬉しかった。心底嬉しかった。
仕事で認められたことはなかったけれど、文学の世界では自分を認めてくれる人がいる。自分の居場所を、初めて見つけたのだ。
デビュー作は話題となり、売れた。映画化も決まった。
そして、ずっとコンプレックスだった薄暗い顔立ちでさえ、『影のある美貌』『芥川の再来』ともてはやされた。
『暗くてキモい』と言われていた社会人時代か、今か。どちらが律の本質を捉えているかなどわからない。戸惑いを抱きつつも、インタビュアーからの柔らかい視線の中に救いを見出したのもまた事実だった。
SNSの中でも、律の作品と容姿は評判が良く、律はまた安堵した。『気持ち悪い』『消えろ』などお言われたらすぐにでも顔出しをやめるつもりだったのに、そうはならなかった。
だが、『出る杭は打たれる』という言葉が、脳裏のどこかに常に潜んでいた。
律への評価はただのバブルだ。目立てば目立つほどアンチは増え、律をもてはやしている人々はそのうち律に飽きて味方ではなくっていく。だからあまり調子に乗らないように気をつけていたし、謙虚な姿勢を崩さないように心がけてきた。慎重に生きてきた。
そして、その日。
律はサイン本を作成すべく出版社へやってきていた。
全ての仕事を終えた帰り道。
律はつかつかと迷いない歩調で近づいてきた若い男に、脇腹を刺された。
痛みや恐怖というよりも、まずは呆気に取られていた。自分の身になにが起こったのかわからなかった。
戸惑う律の視界いっぱいに、男の粘着質な笑顔が映っている。それは見覚えのある顔で、律はかすれた声でどうしてとつぶやいた。
やがて下半身からすうっと冷えていく感覚とともに、灼けつくような痛みが律を襲い——そのまま、意識を失った。
犯人は、かつて勤務していたブラック企業の同僚だ。
自分よりも惨めだと思っていた律が華々しい世界にいることが許なせかったという手前勝手な動機だった。SNSや雑誌で律の微笑みを見かけるたび馬鹿にされているような気分になった。たいして仕事もできなかったくせに、チヤホヤされている無能な律に思い知らせてやりたかった——……。
男は殺人未遂という凶行に至る以前、横領が露見し会社をクビになっていたらしい。自暴自棄になった果ての犯行だったという。
このまま人生が好転すると思っていた矢先の出来事だった。
出版社の目の前で起きた殺人未遂のことを記憶の俎上に載せた瞬間、チリリと胸の奥が鋭く痛んだ。
——ん……? それだけだったか? もっと他に、何か大変なことが起きていたような……。
律はそっと脇腹を押さえると、天緒が気遣わしげに顔を覗き込んできた。律は慌てて取り繕うように微笑んだ。
「この通り一命は取り留めたんだが、出血量が多かったせいか、しばらく昏睡状態に陥ったんだ。三か月間意識が戻らなかったらしい」
「そんなことがあったんですね」
向かいのソファに腰掛けた天緒が、痛ましげに顔を伏せる。猫の姿の夜見が、天緒の膝の上でちんまりと丸くなっておとなしくしている。
「辛いお話をさせてしまって、すみません」
「いや、いいんだ。それに……死に触れるといえば、おそらくそのときのことだ思うし」
意識を失っていた間、律は長い長い夢を見ていた。
暑くも寒くもない場所にいた。
あたりは乳白色の霧に包まれて、ほのかに甘い花のような匂いがしていた。遠くまで空間が広がっているような気配はあれど、霧のせいでさほどの距離は見渡せない。足元には青々とした草が生え、可憐で小さな花をつけている。
時折、風が吹く。強い風ではない。
律の黒髪を撫でるように揺らし、吹き抜けてゆく涼しい風だ。
あてどもなく歩いてみるが、いくら歩いても疲れない。不思議な場所だ。
「そのとき僕は、どうどうと水が流れるような音を聞いたんだ。その音を頼りに歩いていくと、霧の中に突然大きな川が現れた」
川の淵に近づいてみても、向こう岸は霧に霞んで見えなかった。
豊かな水量をたたえた大きな河川であることはわかった。豊かに流れる川は青々として美しく見えたが、どういうわけか、水に近づいてはいけない気がした。
なぜだか、川のそばにいるとひりひりするような焦燥感がじわじわと胸の中に広がっていく。理由はわからない。突然、どうしても何かを見つけなくてはいけないような気持ちになった。
辺りを見回し、砂利の上をよろめくように歩く。
律は裸足だった。だが、足の裏は痛くない。川辺には丸っこく削れた白い石で埋め尽くされている。
見つけたいものは見つからない。
立ち止まった律は、しっとりと濡れて艶を帯びた白い石をなにげなく拾い上げてみる。
ひんやりとした石は、律の手のひらの真ん中で淡く発光しているように見えた。
ふと気づくと、川辺にしゃがみ込む女性や、川のそばで手を合わせている老婆、様々な人のシルエットがそこここにあった。
近づいてみると、皆、ぼんやりと川の向こうを見つめている。
その数年は目まぐるしく人生が動いていて、まるで自分が他人の物語を生きているかのように現実感がなかったものだ。
その後も推理小説などを何作か手がけてきたが、デビュー作ほどの鮮烈さはなかったようで読者は徐々に減っていた。それでもコアなファンがついていたおかげで仕事は尽きず、百社近く応募してようやく受かったブラック企業を退職することができた。
願わくば、このままずっと作家業一本で食っていけたらと望んでさまざまな仕事を受けてきたし、柄にもなくメディアへの顔出しもたくさんやった。
これまでいた場所に戻りたくない一心だった。
ブラック企業にいた頃、律のコミュニケーション能力の低さや影のある暗い顔立ちは、ノリ重視の体育会社員たちからのからかいの的だった。
彼らの軽いノリについていくことができず、いつも気の利いた反応ができなかった。目上の社員に話しかけられると緊張して、たらたと汗をかいてしまう。
せっかく拾ってくれた会社だからと頑張って働いてたけれど、総務部から営業部へ異動させられたときは絶望した。ただでさえ他者との付き合いにストレスを感じ続けていたというのに、さらに過酷な現場へ行けというのだ。
だが、自分を変えるチャンスかとも思い、必死で笑顔を作って企画を持ち込んだ。だが、結果は散々だ。
そのストレスから逃れるために、学生時代から書き続けていた小説に縋っていた。
辛い現実から離れ、物語の中に没頭している間だけ、律は息をすることができたのだった。
ただでさえ細い身体は痩せ、表情を動かすことさえできなくなってきたある日、受賞の知らせが届いた。
嬉しかった。心底嬉しかった。
仕事で認められたことはなかったけれど、文学の世界では自分を認めてくれる人がいる。自分の居場所を、初めて見つけたのだ。
デビュー作は話題となり、売れた。映画化も決まった。
そして、ずっとコンプレックスだった薄暗い顔立ちでさえ、『影のある美貌』『芥川の再来』ともてはやされた。
『暗くてキモい』と言われていた社会人時代か、今か。どちらが律の本質を捉えているかなどわからない。戸惑いを抱きつつも、インタビュアーからの柔らかい視線の中に救いを見出したのもまた事実だった。
SNSの中でも、律の作品と容姿は評判が良く、律はまた安堵した。『気持ち悪い』『消えろ』などお言われたらすぐにでも顔出しをやめるつもりだったのに、そうはならなかった。
だが、『出る杭は打たれる』という言葉が、脳裏のどこかに常に潜んでいた。
律への評価はただのバブルだ。目立てば目立つほどアンチは増え、律をもてはやしている人々はそのうち律に飽きて味方ではなくっていく。だからあまり調子に乗らないように気をつけていたし、謙虚な姿勢を崩さないように心がけてきた。慎重に生きてきた。
そして、その日。
律はサイン本を作成すべく出版社へやってきていた。
全ての仕事を終えた帰り道。
律はつかつかと迷いない歩調で近づいてきた若い男に、脇腹を刺された。
痛みや恐怖というよりも、まずは呆気に取られていた。自分の身になにが起こったのかわからなかった。
戸惑う律の視界いっぱいに、男の粘着質な笑顔が映っている。それは見覚えのある顔で、律はかすれた声でどうしてとつぶやいた。
やがて下半身からすうっと冷えていく感覚とともに、灼けつくような痛みが律を襲い——そのまま、意識を失った。
犯人は、かつて勤務していたブラック企業の同僚だ。
自分よりも惨めだと思っていた律が華々しい世界にいることが許なせかったという手前勝手な動機だった。SNSや雑誌で律の微笑みを見かけるたび馬鹿にされているような気分になった。たいして仕事もできなかったくせに、チヤホヤされている無能な律に思い知らせてやりたかった——……。
男は殺人未遂という凶行に至る以前、横領が露見し会社をクビになっていたらしい。自暴自棄になった果ての犯行だったという。
このまま人生が好転すると思っていた矢先の出来事だった。
出版社の目の前で起きた殺人未遂のことを記憶の俎上に載せた瞬間、チリリと胸の奥が鋭く痛んだ。
——ん……? それだけだったか? もっと他に、何か大変なことが起きていたような……。
律はそっと脇腹を押さえると、天緒が気遣わしげに顔を覗き込んできた。律は慌てて取り繕うように微笑んだ。
「この通り一命は取り留めたんだが、出血量が多かったせいか、しばらく昏睡状態に陥ったんだ。三か月間意識が戻らなかったらしい」
「そんなことがあったんですね」
向かいのソファに腰掛けた天緒が、痛ましげに顔を伏せる。猫の姿の夜見が、天緒の膝の上でちんまりと丸くなっておとなしくしている。
「辛いお話をさせてしまって、すみません」
「いや、いいんだ。それに……死に触れるといえば、おそらくそのときのことだ思うし」
意識を失っていた間、律は長い長い夢を見ていた。
暑くも寒くもない場所にいた。
あたりは乳白色の霧に包まれて、ほのかに甘い花のような匂いがしていた。遠くまで空間が広がっているような気配はあれど、霧のせいでさほどの距離は見渡せない。足元には青々とした草が生え、可憐で小さな花をつけている。
時折、風が吹く。強い風ではない。
律の黒髪を撫でるように揺らし、吹き抜けてゆく涼しい風だ。
あてどもなく歩いてみるが、いくら歩いても疲れない。不思議な場所だ。
「そのとき僕は、どうどうと水が流れるような音を聞いたんだ。その音を頼りに歩いていくと、霧の中に突然大きな川が現れた」
川の淵に近づいてみても、向こう岸は霧に霞んで見えなかった。
豊かな水量をたたえた大きな河川であることはわかった。豊かに流れる川は青々として美しく見えたが、どういうわけか、水に近づいてはいけない気がした。
なぜだか、川のそばにいるとひりひりするような焦燥感がじわじわと胸の中に広がっていく。理由はわからない。突然、どうしても何かを見つけなくてはいけないような気持ちになった。
辺りを見回し、砂利の上をよろめくように歩く。
律は裸足だった。だが、足の裏は痛くない。川辺には丸っこく削れた白い石で埋め尽くされている。
見つけたいものは見つからない。
立ち止まった律は、しっとりと濡れて艶を帯びた白い石をなにげなく拾い上げてみる。
ひんやりとした石は、律の手のひらの真ん中で淡く発光しているように見えた。
ふと気づくと、川辺にしゃがみ込む女性や、川のそばで手を合わせている老婆、様々な人のシルエットがそこここにあった。
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