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3、名は黒波
しおりを挟む「おろせ、おろせあほっ! おれをだれやと思ってんねん!!」
四肢をバタバタさせて大暴れしていた小鬼は、ぴょんと勢いよく俺の手の中から逃げ出した。
ようやく瘴気の煙も収まって、土蔵の中には再び夕暮れどきのオレンジ色が静かに満ちている。小窓から差し込む夕日を背にした小鬼は、金眼をぎらぎらさせながら俺を睨みつけているが、相変わらず、感じ取れる妖気は微々たるものだ。
肩のあたりまで伸びたさらりとした黒髪に、黒い着流し。暴れたせいで裾が割れ、細っこい脚が見え隠れしている。肩を怒らせ大きな目をぎらつかせるその姿に、毛を逆立てて敵を威嚇する猫を思い出し……俺は腕組みをして首を傾げた。
——こいつ……一体なんなんだ? 何でうちの土蔵にこんなやつが?
すると、俺の視線が気に食わなかったのか、小鬼はさらに目つきを鋭くしてこう言い放った。
「おれは鬼や! 人間どもをおおぜいころした悪鬼や! おそろしいやろう!!」
「……鬼? 人間を大勢殺した? ……おい、それってなに時代の話だ? 現代でそんなことしたらおおごとだぞ」
「えっ……な、なにじだい? ええと……」
「ちょっと待ってろ。えーと、巻物に何か書いてるかな……」
俺はしゃがみ込み、足元に転がってきていた巻物をひょいと拾い上げようとした。すると小鬼はびくっと肩を強ばらせ、「お、おい!! もっとおそれおののかんか!! お前も食いころしてやるぞ!」と、俺から一定の距離を保ったまま騒いでいる。
とはいえ、攻撃してくるような気配はない。むしろ俺の挙動のひとつひとつにぴく! ぴく! と怯んでいる様子も見え……ちょっとかわいそうになってきた。
ふと、子どもの頃にでくわした妖のことを思い出す。
その妖は、『旨そうだ』『お前を食えば力が増すに違いない』と涎を垂らし、怯える俺の全身を長い舌で舐め回してきた。
あのときは、おぞましさと恐ろしさで身動きひとつできなかった。たまたま通りかかった顔見知りの花屋の店主が祖父を呼んでくれなければ、きっと俺はその場で食い殺されていたに違いない。
妖にとって、俺の豊富な霊力は魅力的に映るらしい。だが、目の前の小鬼はむしろ怯えているようにも見える。
——弱そうだし、俺に祓われるかもって怖がってんのかな……。
そう思うとなんとなく哀れに思えてしまう。見た目に惑わされるな、と頭の片隅から声が聞こえてくるものの、ぱっと見4、5歳の子どもに怯えられ、威嚇されるというのは気持ちのいいものではないし、落ち着いて話もできない。
俺はひとつ息を吐き、小鬼に向かって微笑んで見せた。すると小鬼は、またびくっと肩を揺らしている。
「お前、名前は?」
「なっ……名前、やと……? このおれの名を聞いてどうする! またそこにふうじるつもりか……!?」
「違うって。呼び名がないと不便だろ? 俺は封じ方とかわからないから、大丈夫だ」
「そ、そうなのか……?」
「そうだよ。ちなみに俺は、陽太郎って名前だ」
「……ようたろう」
しゃがみ込んで目線を合わせ、自分からそう名乗ると、小鬼はぱちぱちと目を瞬いた。怒っていた肩と踏ん張っていた脚から、少しだけ力が抜けていく。
「……くろは」
「くろは、か。どんな字?」
「黒い、波だ」
「黒波、ね。へぇ、かっこいじゃん」
「かっこ、いい……?」
神社に遊びにくる近所のちびっ子との関わりを思い出しながら、微笑んで見せる。すると黒波は目を丸くしたまま、物珍しいものを見るような目つきで俺を見つめた。
黒波が少しおとなしくなったので、改めて巻物に目を凝らす。だが、さらさらと書き付けられた崩し文字を解読するのは難しかった。かろうじて読める漢字を拾ってゆくと……。
「えっ……!? 源平合戦……って書いてあるじゃん! ……ってことは、平安末期だろ? 鎌倉時代に入るころだろうから……いいくにつくろうかまくらばくふ、で……八百年!? お前、八百年もこの中にいたの!?」
「ふん、知るか。そこにそう書いてあるなら、そうなんやろ」
「覚えてないのか? ずっと寝てたとか?」
「寝てはない。……なにもない、だれもいない広い広い屋敷のなかで、ずっとひとりでとらわれていた」
「へっ……」
途方もない年月だ。この封印の中に、たったひとりで八百年。一体どんな気分になるのだろうと想像しようとしたが、あまりに現実離れしていて、全く想像が及ばなかった。
俺はしゃがみ込んだままの格好で、じっと小鬼の金眼を見据えてみる。目線の高さがほぼ同じ状態なので、小鬼の顔をじっくりと観察してみた。
すっかり日が暮れ、土蔵の中には蛍光灯の頼りない灯りだけ。幽霊のように光に透けるわけでもなく、しっかりと実態のある肉体がそこにある。
……まさか本当に、巻物の中から実体を伴う鬼が現れるとは、いったいどういう仕組みだろう。誰が作った封印術なのだろうか。
考え事をしているうち、眉間に皺が寄って険しい顔になっていた。すると小鬼はひくっと表情を歪めて冷や汗を垂らし、「うっぐ……、なんでそんな目ぇで見んねん……お、おれをころす気か!?」と強がりながら怯えている。
「いやいや、殺さないって。物騒なこと言うなよ。……こんなちっこい子どもを閉じ込めるなんて、ずいぶん仰々しいことする奴がいるもんだなーと思って」
「お、おれは子どもちゃうぞ! そもそも、その中におったときはこんな身体ちゃうかった!」
「え? そうなの?」
「ただ、ひさかたぶりに外に出て……さっきからずっと、身体が重いし……だるい」
よく見ると、黒波の額やこめかみにはじっとりとした汗が滲んでいる。威嚇をやめた金眼からは、威勢がよさそうに見えていた輝きが失せ、とても気分が悪そうだ。顔色も悪い。
「おい……黒波? お前、大丈夫か?」
「……いきぐるしい……はぁ、ぅぐ……」
黒波は胸を抑え、へた、とその場にへたり込んでしまう。俺は慌てて、後ろに傾いでいきそうになる小さな身体を支えた。鬼と呼ぶには随分と軽い、頼りない肉体だ。
——本当に、実体がある。……すごい、こんなことがあるなんて。
この稀有な状況と、八百年前の誰かが作り上げた封印術に感心しかけていたが、黒波の身体は少しギョッとするほどの高熱を宿している。俺は慌てて黒波を横抱きにして立ち上がった。
——人間と同じ対応でいいのかわかんないけど……こんな寒い土蔵にいるよりは家の方がいいよな。
昼間はまだまだ秋らしからぬ陽気だが、朝晩の冷え込みはすでに真冬のようだ。こんなところに高熱を出した子ども(中身は八百歳超の鬼だが)を放置しておく気にはどうしてもなれない。
「おい、しっかりしろ。なんか食うか? ……っつっても、なに食うんだ鬼って」
——人間を食いたいと言い出したらどうしよう。
ふと、そんな考えが脳内に閃く。
この鬼を助けたとして、どうする。今は弱っているからこんな姿なのかもしれないが、力を取り戻した鬼の姿がどんなものなのかもわからないのに……。
2、3メートル越えの巨躯に丸太のような手足。ゴリゴリに筋肉の盛り上がった鬼の姿がもわりと浮かぶ。手にはトゲトゲのついた巨大な金棒を担ぎ、口からは鋭い牙を覗かせていて……。
——やばくないか……? それって、人の平和を脅かす存在なんじゃないのか? 俺の手に負えるようなもんじゃなかったとしたら……?
ゾッとして、外に出ることをためらった。
もう一度、あの巻物の中に戻せるのならば、そうするのがベストな選択なのではないだろうか。
八百年前といえば戦乱の時代。その時代に、わざわざこんなにも強固な封印をかけてまで封じられた鬼。そうしておかねば危険だったからこそ、封印されたに違いない——……。
ふとその時。
逡巡する俺のパーカーを、小さな手がきゅっと握りしめた。
「んん……」
半ば意識を失いかけている黒波の手が、俺に縋っている。苦しげに目を閉じて浅い呼吸を繰り返しながら、助けを乞うように……。
「……くそっ! あああ、もう! しょうがねーなぁ!」
全ての迷いをまずは一旦忘れることにして、黒波を連れて土蔵を飛び出した。
こんな子どもを放っておけるほど、俺は鬼畜メンタルではないのだ。
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