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1巻
1-2
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問題なのは、これまでに出現した〝氷の魔術師〟たちが、もれなく王国に厄災を招いてきたということだ。
残っている記録によれば、初めに〝氷の魔術師〟が出現したのは三百年前。
当時、この世は大戦の只中だった。
そのときばかりは押し寄せる敵を撃退する武力として〝氷の魔術師〟は重宝されたようだが、そのやり口があまりに酷かった。
攻め込んだ国を氷漬けにするだけでは飽き足らず、エルシャルオン国内に攻めてきた敵兵を全員凍らせ、亡骸を各国に送り返すという鬼畜ぶりを見せたというのだ。
国内にいる魔術師たちとも力量差がありすぎて、彼を諌めることができる者が誰ひとりいなかったことも仇となった。
結果的にエルシャルオンは他国から莫大な反感を買い、数十年にわたりこの国を孤立させたという――……
そしてその次に〝氷の魔術師〟が出現したのは、今から百二十年ほど前のこと。
当代の〝氷の魔術師〟は感情的になりやすいたちで、魔力操作が不得手だったらしい。
情緒不安定で、すぐにカッとなりやすい性格だったその魔術師は、些細なことで魔力暴走を起こしていた。
その結果、常に温暖な気候が売りのエルシャルオンを国ごと寒冷化させて産業に大打撃を与え、その咎を与えようとした王族をはじめ、彼を捕らえようと追ってきた騎士を数十人近く凍死させ、後に粛清を受けた――……
そして今代。
〝氷の魔術師〟として能力を開花させてしまったのが、この僕だ。
現在、世界は各国のバランスが保たれ、泰平といっていい時代になっている。
ほんの二十数年前――僕が生まれたばかりの頃は各国の領土争いが激化していて不穏な空気が絶え間なく流れたが、その争いはすでに完結を迎えている。
平和になった今になって僕という危険人物が爆誕してしまい、国としても僕の扱いに困っているのが現状だ。『生まれる時代を間違えたな』と言われたことは一度や二度ではない。
とはいえ、僕だって人と争うのは好きじゃない、むしろ大嫌いだ。
二十数年前の戦争で家族を失った僕にとって、人と人の争いは最も忌むべきもの。
世界に平和が保たれている今、僕が戦う相手は同じ人間ではなく、魔獣たちだ。
魔獣から平和に暮らす人々を守るためならば、この力を使うことは厭わない。
たとえ、僕の苦しみに気づく人が誰ひとりとしていなかったとしても。
この世界のどこかで暮らすセスを遠くから守っていると思えば――……この孤独にも、耐えていける気がする。
「で、次はどんな任務なんだ? 僕が行かないと片付かないような難易度の高い任務なのか?」
「知らないね。僕はお前を連れてこいって言われてるだけだ」
「ふうん。ま、君たちの水遊び魔法程度じゃ、魔獣の一匹も討伐できないもんな。おかげで僕は儲かるよ」
「な、なんだと!?」
つい嫌味っぽい口調になってしまった僕に向かって、イトリーがいきりたつ。
だが僕に向き直るや否や、イトリーの奥二重の小さな瞳が怯えたように震えたのがわかった。
もうひとつ僕にとって不幸だったのは、現在エルシャルオンに数百人存在する〝水の魔術師〟たちと比べて、僕の魔力が恐ろしく強力だということだ。
また、彼らとは比べ物にならないほど魔力量も豊富である。もし僕に宿った氷属性の魔力が些末なものならば、こんな扱いを受けなかったかもしれない。
何十年か前、戦時の魔術師たちは、〝水の都〟として作られた街の構造をうまく活用して水の障壁をつくりあげ、王宮を敵から守ったそうだ。
激しい濁流をつくりあげて攻め寄る敵を押し流すなど、豪快な活躍をしていたという。
だが戦争が終わり、世界に平和が訪れた今、若い〝水の魔術師〟たちは一気に弱体化した。
そのわりに今も高い身分が与えられているのは、戦時のなごりが今もあるためだ。
中でも特にすぐれた魔術師たちは〝近衛魔術師〟と呼ばれ、王族らのよき相談相手となっている。
王族との距離が近すぎて一部の貴族たちからは煙たがられているという噂も聞こえてくるが――まあ、それは僕に関係のない話である。
「ほら、ここで待ってろ。腕輪、ちゃんとしてるだろうな」
「してるよ、ほら」
腕を持ち上げると、僕の手首で銀色の腕輪が鈍く光る。
「ならいい。じゃ、僕は行く。お前はここを動くなよ」
イトリーは丸い身体をふんぞり返して僕を見下ろし、ぷいっとそのまま行ってしまった。
連れてこられた場所は、青々とした木々に囲まれた庭園の一角だった。
魔獣討伐を主に担う王宮騎士団や、騎士団の下で戦闘任務などに就く兵たちの訓練場からほど近い場所である。
僕の背丈よりも高い木々が丸く綺麗に剪定され、白亜のタイルが敷き詰められた小径があり、小さな水路と噴水が整然と並んでいる。
目線の先には東屋がある。白い屋根が陽光でまばゆく輝いていた。
――綺麗な庭だ。きっとあの東屋で打ち合わせをするんだろうな。
任務の大きさによって説明にやってくる役人の階級はさまざまだが、皆びくびくしながら僕の様子を窺ってくるところは共通している。正直やりづらいが仕方がない。
東屋の椅子に腰掛けて役人を待とうと思い、僕はかぶりっぱなしだったフードを上げてゆっくりと小径を歩いた。
ひと気がなく静かな場所だ。さんさんと暖かな陽が差し込む庭園に居心地の良さを感じていたのだが――……ふと、庭木の陰からぞろりと現れた数人の兵士の姿を目の当たりにして、僕は内心舌打ちをした。
「おっ、これはこれは。ノクト様じゃないですか」
僕の小屋を見張る監視兵のひとりが、三人の仲間を連れてふらりと現れた。
訓練を終えたばかりなのだろう。質素な訓練着に包まれた筋肉質な身体には汗が浮かんでいる。
――くそ、面倒だな。役人がすぐに来てくれたら、こいつらに絡まれなくてすんだのに……
しかし庭園の入り口のほうを見やるも、人がやってくる気配はない。
イトリーと違い、男たちは怯む様子もなくずかずかと僕に近づいてくる。監視兵の男は、僕がおとなしいことをよく知っているからだろう。
気づけば僕は、頑強な一般兵に取り囲まれてしまっていた。
ぞわ、と全身の肌が一斉に粟立つ。
――落ち着け、大丈夫だ。動揺するな。……こいつらは僕に手を出せないんだ。
「へぇ……こいつがそう? 近くで見るのははじめてだ。けっこう可愛い顔してんじゃねぇか」
見慣れない男のひとりが、わざわざ身を屈めて僕の顔を覗き込んできた。
唐突に距離を詰められ冷や汗が一筋背中を伝うが、僕はふいと視線を逸らして人知れず息を殺す。
僕がうつむいている間も、まわりでは男たちが僕を眺め回しながら、浮かれたように言葉を交わしている。
「へへ、そーなんだよ、可愛い顔していらっしゃるだろ? 見張りしてるとさ、小屋から夜な夜な色っぽい声が聞こえてくんだよな」
「へえ~そうなんですか。ノクト様、いったいひとりで何をしてらっしゃるので?」
「ずっとおひとりじゃ寂しいでしょ? ……どうですか、今度俺がお相手しますよ?」
「バカかお前。ノクト様に妙なことしたら氷漬けにされちまうぞ!」
男たちはそう言って、がははと可笑しげに笑っている。
僕の力を恐れて触れてこようとはしないが、下品な揶揄を浴びるたびに身が竦む。
……正直言って、怖いのだ。
こういう手合いの男たちが纏う空気によって、忌まわしい記憶が呼び起こされそうになる。
魔術訓練生時代――魔獣に襲われた後、十五歳で王宮に召されたばかりの頃、僕は一度だけ大問題を起こしたことがあった。
怪我で意識を失っているうちに孤児院から王宮へ連れてこられていたこともあり、僕は酷く混乱していた。
厳重な警戒のもとで治療を受け、身体が動くようになるやいなや、厳しい魔術操作の訓練を課せられた。
孤児院でのこぢんまりとした穏やかな暮らしから強制的に引き離され、見ず知らずの大勢の大人たちに囲まれての訓練生活を強いられた。
その上その大人たちは皆、いつ爆発するかもしれない爆弾を扱うかのように僕に接する。
突然ガラリと環境が変わったことへのストレスと我慢が積もりに積もって、僕は一度だけ酷い魔力暴走を起こしてしまったのだった。
きっかけは些細なことだったと思う。
家柄が良く年齢の近い魔術訓練生に、孤児であることを笑われた。
僕に関してだけなら何を言われても平気だ。でもその訓練生は、僕が家族のように思っていた孤児仲間たち全員を貶めるような発言をした。
その頃はまだ魔力をコントロールするすべが身についていなかった。
怒りによって爆発的に魔力は増幅され、封魔の腕輪は砕け散り――大惨事が起きた。
だが僕は魔力に呑まれてしまっていたため、その瞬間をはっきりとは覚えていない。
ただ記憶にあるのは、魔術訓練生たちの阿鼻叫喚と恐怖の眼差し。
あとから地下牢で聞かされた話によれば、僕は訓練用広場の地下深くに流れる水脈の水をすべて凍らせ、それを地表に呼び寄せて地面を突き破らせたということだった。
幸い怪我人はいなかったけれど、広場は無惨な有様だった。
青々とした芝が敷かれて綺麗に整えられていた地面には、小山のような氷塊がいくつも突き出していたという。
それはまるで僕の攻撃性を具現化したように鋭く尖っていたらしい。
氷が溶けて消えたあとも、地面は深い亀裂が入ったり隆起したりとぐちゃぐちゃに荒れ果てたまま。地下水脈を破壊したせいで、延々と水が噴き出している場所もあったという。
そのせいで王宮内にまで泥水がひたひたと侵入し、魔術師仲間のみならず、僕は王族や騎士たちからもひんしゅくを買ってしまった。
その尻拭いをしたのが〝水の魔術師〟たちだった。
総出で水を止め、水脈の修復にあたり、現状復帰にかかった期間は三か月。
国中でこの一件の噂で持ち切りとなり、僕はエルシャルオンの有名人になった。
ただし、広がったのは悪名のほうで――……
そう、僕が嫌われる理由は、過去の〝氷の魔術師〟たちのせいだけじゃない。
こんな事件を起こしているから、皆が僕を避けるのだ。
僕が皆でも僕を避けたい。怒らせたら何をしでかすかわからない危険人物に、率先して近づきたいわけがない。
そしてこの事件のあと、僕は魔力を封じる〝封魔石〟で作られた手枷と足枷で四肢を囚われ、気絶するまで激しく鞭打たれた。
ただでさえ魔力を放出したあとは傷の痛みに苦しまねばならないのに、そこへさらなる激痛が叩きつけられる。
思い出すだけで吐き気がするほど、最悪な時間だった。
粗末な木の台の上に俯せに寝かされ、拘束され、三人の処刑人が代わる代わる僕を鞭打つ。
剥き出しにされた僕の背中に向かって鞭をしならせる男たちの顔には恍惚とした興奮が浮かび、下卑た言葉や笑いを浴びせられるたびに心がすくんだ。
痛みよりも処刑人たちの卑しい視線に晒されることが、何よりも屈辱だった。
激痛に耐えきれず涙を流し、許しを乞う僕に嗜虐心をくすぐられたのか、はたまた劣情を刺激されたのか、処刑人たちの股座は大きく膨れ上がっていたのだ。
いつ終わるのかもわからない苦痛。
背中は熱く燃え上がるように痛むのに気を失うこともできない。
どうしてこんな目に遭っているのだろうかと、自分の人生を僕は呪った。
ただ、罰の効果は抜群だった。
その日以降、僕は何があっても魔力暴走を起こすまいと心に誓い、魔力制御の修行にこれまで以上に精を出した。ふたたびあんな目に遭うのはまっぴらごめんだ。
あのときは、処刑人とともに監視役の近衛魔術師がいたから最悪の事態は免れたが、もしまた処刑人たちに囲まれるようなことがあったとしたら、おぞましい行為を強いられてしまうかもしれない――……その恐怖が、僕の行動を慎重にさせるのだ。
今、僕を囲んでいる兵士たちが纏う粗野な雰囲気。これは、あのときの処刑人たちを否応なしに思い出させる。
魔力を使えばたやすく退けられる相手だが、そうすると僕は極刑を科せられる。
それをこいつらは知っている。だから僕をからかって、反応を見て遊んでいる。
……腹が立ってたまらないのに、どうしようもなくこの手の男たちが恐ろしい。
それが悔しくてたまらなかった。
「あれ? ノクト様、顔色がお悪いですよ?」
「ははっ、仔ウサギみたく震えてんじゃねぇか。こいつ本当に強いのか?」
「ばーか、触ったら凍っちまうぞ!」
「本当かよ。どれどれ、ちょっと試してみるかぁ?」
ひときわ大柄な男の太い腕が眼前に迫り、視界が氷結するように白く霞んだ。
恐怖と嫌悪がないまぜになり、身の危険を感じて防衛本能が燃え上がる。
こうなってしまったときが一番あぶない。
魔力が溢れる。
――っ……いけない、制御が……!!
溢れ出しそうになる力の濁流をなんとか抑え込もうとぎゅっと目を閉じたとき――……ふわ、と清々しい草原のような香りが、僕の鼻腔を淡くくすぐった。
「この無礼者どもが。ノクト様から離れろ」
「っ……」
陽光を吸って蕩めく金色が、見上げた視界の中でまばゆく輝く。
背の高い男が、僕に向かって伸ばされた太い手首を掴んでいた。
そして、端整な横顔に厳しい表情を浮かべ、兵たちを睨みつけている。
一般兵とは違い華やかな装束を身に纏った若い男を見て、兵たちが揃ってぎょっとしたような顔になる。
「っ……い、いえ俺たちはただ! ノクト様の体調が悪そうだったから手を……!」
「嘘をつけ。――汚らわしい」
金髪の男は問答無用とばかりに、兵士の腕をそのまま背中のほうへ捻りあげた。
悲鳴を上げながら地面に膝をついた兵士が、「すみません、すみません……っ!! 放して、折れる……っ!!」と脂汗を流しながら苦悶を滲ませている。
だが、金髪の男は冷ややかな目つきで兵士を睥睨したままだ。
周りの兵士たちも、男の凄みに負けて尻込みしているようだった。
「お、折れる、折れるっ……!! やめてください、もう、しませんから……!!」
「しない? 何をだ」
「ノ、ノクト様に……無礼な態度をとったこと、謝ります、ので……っ……もう放してくださ……」
「謝罪だけじゃ足りないな。もう二度とノクト様に近づかないと誓え」
「誓います、誓いますから……やめてくださいっ……!!」
「信用できないな」
片手一本で屈強な兵士を屈服させている男は、ぱっと見たところ兵士よりもずっと細身のようだ。
だが、押さえるべき急所を掴んだ長い指にこめられた力は容赦がなく、ミシミシと骨が軋む音が僕にまで聞こえてきた。
しかも男の横顔はまるで無表情なままだ。放っておくと何をしでかすかわからない不気味さがあり、思わず僕は声を上げていた。
「お、おい……!! もういい!! 放してやれ!!」
咄嗟に声を上げて金髪の男を制すると、翡翠色にきらめく双眸がまっすぐに僕を捉えた。
――え……?
目があった瞬間、ドクン……と心臓が跳ね上がる。
その男の瞳の色、髪の色、そして端整な顔立ちが、僕の記憶を大きく揺さぶった。
「……ノクト様がそうおっしゃるのなら」
兵士たちに向けていた冷酷な目つきが嘘のように、男は砂糖菓子のように甘い笑顔を僕に向けた。
その豹変ぶりに少しばかりゾッとする。
男はぱっと兵士の腕から手を離し、僕に見せた笑顔を兵士たちに向けて凄みのある低音の声でこう言った。
「消えろ。後から沙汰が下る。覚悟して待つように」
「っ……失礼します……!!」
腕を折られかけた仲間に肩を貸しながら、兵士たちがバタバタと忙しなく消えていく。
すこぶる顔のいい男とふたり、その場に取り残され、僕は恐々とその立ち姿を見つめた。
すらりと立つ姿勢の良さから滲み出るのは、育ちの良さそうな上品な空気だ。
平民出の兵士たちから感じる粗野な雰囲気はまったくなく、身のこなしには隙がない。
一般の兵士たちは草色のズボンとシャツの上に鎖を編んだベストを身につけているのに対し、彼が身に纏っているのは、淡い灰色の詰襟に金色の飾緒のついた軍服だった。
高い襟の縁や袖口には金糸で縫いつけられた飾り。胸元には同じく金色の飾緒。
――この華やかな衣装は、王宮騎士団か……
不意に、金髪の騎士が僕に向き直る。
思わず後ずさった僕に、その男はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「ノクト様はあいかわらず、とてもお優しいのですね。あなたが止めてくださらなかったら、あのまま腕を折ってしまうところでした」
「な、なんてことを言うんだ。まあ、間に入ってくれたことには礼を言うが……」
「あの男、数か月前からノクト様のご自宅の見張りに立っていた兵ですね。以前からあなたにあんな調子で?」
「……いや、それは……」
下卑た言葉でからかわれていたこと、それに対して何も言い返せずにいたことを知られるのが恥ずかしくて口籠る。
すると騎士は沈黙からすべてを察したようにひとつ頷き、「なるほど」とだけ口にした。
「ノクト様が彼らに手を出せないと知っていて調子に乗ったのですね。許しがたいことです」
「い、いや、でも……」
あんなやつら、はじめに声をかけられたときに僕がもっとうまくあしらえていたら調子づかせることはなかったはずだ――と、思うところはあるが、うまく言えずにまた口籠る。
すると金髪の騎士は俯いた僕の前にすっと跪き、自らの胸に手を当てた。
澄み渡るように美しい翡翠色の瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
ひたむきで熱い視線だ。どうしてそんな目で僕を見るのかとたじろいでいると、金髪の騎士は囁くような声でこう言った。
「ノクト様のことは私がお守りします。どうか、そんなお顔をなさらないで」
「……えっ? な、何をいきなり……!」
「ようやく、ようやくお会いできたんです。これからはもう、あんな下品な男たちをあなたのそばには近づけない。これからは、私がずっとそばでお支えします」
「……は……?」
それこそ神に祝福されたかのような美しい騎士が、潤んだ瞳で僕を熱く見つめながらそんなことを訴えてくる……
僕は混乱した。混乱するなと言うほうがどうかしている。
触らぬ神になんとやらだ。
なんだかじわじわ怖くなってきてしまった僕は、「いや……大丈夫だ。僕に構わないでくれ」とだけ告げて、さっさとその場から離れようとした。
だが……
「ノクト様。……私を覚えてはおられませんか?」
「え?」
「私の名はセス・ヴィラス・リステアード。幼い頃、あなたは私の命を救ってくれた」
「っ……」
その名前を聞いた瞬間、心の奥底に大切に閉じ込めていた遠い記憶が強く揺さぶられた。
ばくばく、ばくばくと心臓が暴れはじめる。
けぶる金色の髪、瞳の色、この顔立ち――……
幼い頃に離れ離れになった幼いセスの顔と若い騎士の顔が、目の前でだぶって、重なった。
「セ……セス、なのか……!?」
「ああ、そうだよ。俺だよ、ノクト」
「う、うわ……」
立ち上がったセスは目を細め、蕩けるように甘い笑みを浮かべた。
すっかり背が伸びている。僕より二十センチは背丈がありそうだ。
肩幅も広くなり、胸板も厚い。
華やかな軍服がよく映える逞しい体つきになった。
あまりに立派に成長したセスが眩しく、僕はしばし呆然としてしまった。
「そんな、まさか……こんなところで会えるなんて……」
「よかった。俺のこと、覚えててくれたんだね」
「当たり前だよ! で、でも、こんなに立派になってるとは思わなかったから、誰だかわからなかった……」
「ふふ、そう? 立派になれたかな、俺」
目を細めて微笑むセスの姿がなぜだかすこぶる誇らしく、目が離せない。
――まさか王宮騎士団に入っていたなんて。こんなに近くにいたなんて……!
突然すぎる再会に胸のざわめきが収まらない。
僕はおずおずと手を伸ばし、指先でセスの頬に触れてみた。
幼い頃はふにふにだった柔らかい頬はシャープになり、小さく丸っこかった鼻はすっきりと鼻筋が通っている。
今も綺麗な二重まぶたの双眸には理知的な気品が宿り、騎士ではなく王子様といっても違和感がないほどに麗しい。
唇は幼い頃と変わらずほんのりと赤いままだが、下唇がふっくらとして柔らかそうだ。それが妙に色っぽく、僕は少しだけどきりとした。
その唇が滑らかに動き、僕にだけ聞こえる声で秘めやかに囁いた。
「会いたかったよ、ノクト。すごく会いたかった」
「ぼ、僕も……! 僕も会いたかった。ずっと、セスがどうしてるか気になってたよ」
「本当? 嬉しいな。ここまで努力してきた甲斐があったよ」
――ああ、セスだ。間違いない。大人になったセスが、僕の目の前に……!!
ようやく実感が湧いてきた。
懐かしさと喜びで胸が高鳴り、目の奥がじんと熱くなる。
胸の奥から噴水のように溢れ出す感情をどうすることもできずに僕は思わず、倒れ込むようにセスの身体に抱きついた。
「あっ……。ノ、ノクト?」
「セス。ああ、セス……嬉しいよ。またこうして会えるなんて……!」
昔は僕がセスを受け止めていたけれど、今はすっかり立場が逆になってしまった。
僕を受け止めるセスの胸は逞しく、そっと僕の肩に置かれたセスの手はとても大きい。僕の肩をすっぽり包み込んでしまえるほどになっている。
ドキドキしているのは僕だけではないようだ。
きらびやかな飾りのついた軍服の中でばくばくと暴れている心臓の音が聞こえてくる。それさえも懐かしくて愛おしくて涙が滲む。
――セスも僕との再会を喜んでくれてるみたいだ。ああ……どうしよう。嬉しすぎて、胸が、苦しい……っ。
どくん、どくん、どくん……心拍数がこれまでにないほど上昇していく。
孤独な静けさに慣れた僕の心に久方ぶりに血が巡り、濁流のように感情が掻き乱され、胸の奥から熱いものがとめどなく噴き出すような感覚が僕を包み込んだそのとき――……
残っている記録によれば、初めに〝氷の魔術師〟が出現したのは三百年前。
当時、この世は大戦の只中だった。
そのときばかりは押し寄せる敵を撃退する武力として〝氷の魔術師〟は重宝されたようだが、そのやり口があまりに酷かった。
攻め込んだ国を氷漬けにするだけでは飽き足らず、エルシャルオン国内に攻めてきた敵兵を全員凍らせ、亡骸を各国に送り返すという鬼畜ぶりを見せたというのだ。
国内にいる魔術師たちとも力量差がありすぎて、彼を諌めることができる者が誰ひとりいなかったことも仇となった。
結果的にエルシャルオンは他国から莫大な反感を買い、数十年にわたりこの国を孤立させたという――……
そしてその次に〝氷の魔術師〟が出現したのは、今から百二十年ほど前のこと。
当代の〝氷の魔術師〟は感情的になりやすいたちで、魔力操作が不得手だったらしい。
情緒不安定で、すぐにカッとなりやすい性格だったその魔術師は、些細なことで魔力暴走を起こしていた。
その結果、常に温暖な気候が売りのエルシャルオンを国ごと寒冷化させて産業に大打撃を与え、その咎を与えようとした王族をはじめ、彼を捕らえようと追ってきた騎士を数十人近く凍死させ、後に粛清を受けた――……
そして今代。
〝氷の魔術師〟として能力を開花させてしまったのが、この僕だ。
現在、世界は各国のバランスが保たれ、泰平といっていい時代になっている。
ほんの二十数年前――僕が生まれたばかりの頃は各国の領土争いが激化していて不穏な空気が絶え間なく流れたが、その争いはすでに完結を迎えている。
平和になった今になって僕という危険人物が爆誕してしまい、国としても僕の扱いに困っているのが現状だ。『生まれる時代を間違えたな』と言われたことは一度や二度ではない。
とはいえ、僕だって人と争うのは好きじゃない、むしろ大嫌いだ。
二十数年前の戦争で家族を失った僕にとって、人と人の争いは最も忌むべきもの。
世界に平和が保たれている今、僕が戦う相手は同じ人間ではなく、魔獣たちだ。
魔獣から平和に暮らす人々を守るためならば、この力を使うことは厭わない。
たとえ、僕の苦しみに気づく人が誰ひとりとしていなかったとしても。
この世界のどこかで暮らすセスを遠くから守っていると思えば――……この孤独にも、耐えていける気がする。
「で、次はどんな任務なんだ? 僕が行かないと片付かないような難易度の高い任務なのか?」
「知らないね。僕はお前を連れてこいって言われてるだけだ」
「ふうん。ま、君たちの水遊び魔法程度じゃ、魔獣の一匹も討伐できないもんな。おかげで僕は儲かるよ」
「な、なんだと!?」
つい嫌味っぽい口調になってしまった僕に向かって、イトリーがいきりたつ。
だが僕に向き直るや否や、イトリーの奥二重の小さな瞳が怯えたように震えたのがわかった。
もうひとつ僕にとって不幸だったのは、現在エルシャルオンに数百人存在する〝水の魔術師〟たちと比べて、僕の魔力が恐ろしく強力だということだ。
また、彼らとは比べ物にならないほど魔力量も豊富である。もし僕に宿った氷属性の魔力が些末なものならば、こんな扱いを受けなかったかもしれない。
何十年か前、戦時の魔術師たちは、〝水の都〟として作られた街の構造をうまく活用して水の障壁をつくりあげ、王宮を敵から守ったそうだ。
激しい濁流をつくりあげて攻め寄る敵を押し流すなど、豪快な活躍をしていたという。
だが戦争が終わり、世界に平和が訪れた今、若い〝水の魔術師〟たちは一気に弱体化した。
そのわりに今も高い身分が与えられているのは、戦時のなごりが今もあるためだ。
中でも特にすぐれた魔術師たちは〝近衛魔術師〟と呼ばれ、王族らのよき相談相手となっている。
王族との距離が近すぎて一部の貴族たちからは煙たがられているという噂も聞こえてくるが――まあ、それは僕に関係のない話である。
「ほら、ここで待ってろ。腕輪、ちゃんとしてるだろうな」
「してるよ、ほら」
腕を持ち上げると、僕の手首で銀色の腕輪が鈍く光る。
「ならいい。じゃ、僕は行く。お前はここを動くなよ」
イトリーは丸い身体をふんぞり返して僕を見下ろし、ぷいっとそのまま行ってしまった。
連れてこられた場所は、青々とした木々に囲まれた庭園の一角だった。
魔獣討伐を主に担う王宮騎士団や、騎士団の下で戦闘任務などに就く兵たちの訓練場からほど近い場所である。
僕の背丈よりも高い木々が丸く綺麗に剪定され、白亜のタイルが敷き詰められた小径があり、小さな水路と噴水が整然と並んでいる。
目線の先には東屋がある。白い屋根が陽光でまばゆく輝いていた。
――綺麗な庭だ。きっとあの東屋で打ち合わせをするんだろうな。
任務の大きさによって説明にやってくる役人の階級はさまざまだが、皆びくびくしながら僕の様子を窺ってくるところは共通している。正直やりづらいが仕方がない。
東屋の椅子に腰掛けて役人を待とうと思い、僕はかぶりっぱなしだったフードを上げてゆっくりと小径を歩いた。
ひと気がなく静かな場所だ。さんさんと暖かな陽が差し込む庭園に居心地の良さを感じていたのだが――……ふと、庭木の陰からぞろりと現れた数人の兵士の姿を目の当たりにして、僕は内心舌打ちをした。
「おっ、これはこれは。ノクト様じゃないですか」
僕の小屋を見張る監視兵のひとりが、三人の仲間を連れてふらりと現れた。
訓練を終えたばかりなのだろう。質素な訓練着に包まれた筋肉質な身体には汗が浮かんでいる。
――くそ、面倒だな。役人がすぐに来てくれたら、こいつらに絡まれなくてすんだのに……
しかし庭園の入り口のほうを見やるも、人がやってくる気配はない。
イトリーと違い、男たちは怯む様子もなくずかずかと僕に近づいてくる。監視兵の男は、僕がおとなしいことをよく知っているからだろう。
気づけば僕は、頑強な一般兵に取り囲まれてしまっていた。
ぞわ、と全身の肌が一斉に粟立つ。
――落ち着け、大丈夫だ。動揺するな。……こいつらは僕に手を出せないんだ。
「へぇ……こいつがそう? 近くで見るのははじめてだ。けっこう可愛い顔してんじゃねぇか」
見慣れない男のひとりが、わざわざ身を屈めて僕の顔を覗き込んできた。
唐突に距離を詰められ冷や汗が一筋背中を伝うが、僕はふいと視線を逸らして人知れず息を殺す。
僕がうつむいている間も、まわりでは男たちが僕を眺め回しながら、浮かれたように言葉を交わしている。
「へへ、そーなんだよ、可愛い顔していらっしゃるだろ? 見張りしてるとさ、小屋から夜な夜な色っぽい声が聞こえてくんだよな」
「へえ~そうなんですか。ノクト様、いったいひとりで何をしてらっしゃるので?」
「ずっとおひとりじゃ寂しいでしょ? ……どうですか、今度俺がお相手しますよ?」
「バカかお前。ノクト様に妙なことしたら氷漬けにされちまうぞ!」
男たちはそう言って、がははと可笑しげに笑っている。
僕の力を恐れて触れてこようとはしないが、下品な揶揄を浴びるたびに身が竦む。
……正直言って、怖いのだ。
こういう手合いの男たちが纏う空気によって、忌まわしい記憶が呼び起こされそうになる。
魔術訓練生時代――魔獣に襲われた後、十五歳で王宮に召されたばかりの頃、僕は一度だけ大問題を起こしたことがあった。
怪我で意識を失っているうちに孤児院から王宮へ連れてこられていたこともあり、僕は酷く混乱していた。
厳重な警戒のもとで治療を受け、身体が動くようになるやいなや、厳しい魔術操作の訓練を課せられた。
孤児院でのこぢんまりとした穏やかな暮らしから強制的に引き離され、見ず知らずの大勢の大人たちに囲まれての訓練生活を強いられた。
その上その大人たちは皆、いつ爆発するかもしれない爆弾を扱うかのように僕に接する。
突然ガラリと環境が変わったことへのストレスと我慢が積もりに積もって、僕は一度だけ酷い魔力暴走を起こしてしまったのだった。
きっかけは些細なことだったと思う。
家柄が良く年齢の近い魔術訓練生に、孤児であることを笑われた。
僕に関してだけなら何を言われても平気だ。でもその訓練生は、僕が家族のように思っていた孤児仲間たち全員を貶めるような発言をした。
その頃はまだ魔力をコントロールするすべが身についていなかった。
怒りによって爆発的に魔力は増幅され、封魔の腕輪は砕け散り――大惨事が起きた。
だが僕は魔力に呑まれてしまっていたため、その瞬間をはっきりとは覚えていない。
ただ記憶にあるのは、魔術訓練生たちの阿鼻叫喚と恐怖の眼差し。
あとから地下牢で聞かされた話によれば、僕は訓練用広場の地下深くに流れる水脈の水をすべて凍らせ、それを地表に呼び寄せて地面を突き破らせたということだった。
幸い怪我人はいなかったけれど、広場は無惨な有様だった。
青々とした芝が敷かれて綺麗に整えられていた地面には、小山のような氷塊がいくつも突き出していたという。
それはまるで僕の攻撃性を具現化したように鋭く尖っていたらしい。
氷が溶けて消えたあとも、地面は深い亀裂が入ったり隆起したりとぐちゃぐちゃに荒れ果てたまま。地下水脈を破壊したせいで、延々と水が噴き出している場所もあったという。
そのせいで王宮内にまで泥水がひたひたと侵入し、魔術師仲間のみならず、僕は王族や騎士たちからもひんしゅくを買ってしまった。
その尻拭いをしたのが〝水の魔術師〟たちだった。
総出で水を止め、水脈の修復にあたり、現状復帰にかかった期間は三か月。
国中でこの一件の噂で持ち切りとなり、僕はエルシャルオンの有名人になった。
ただし、広がったのは悪名のほうで――……
そう、僕が嫌われる理由は、過去の〝氷の魔術師〟たちのせいだけじゃない。
こんな事件を起こしているから、皆が僕を避けるのだ。
僕が皆でも僕を避けたい。怒らせたら何をしでかすかわからない危険人物に、率先して近づきたいわけがない。
そしてこの事件のあと、僕は魔力を封じる〝封魔石〟で作られた手枷と足枷で四肢を囚われ、気絶するまで激しく鞭打たれた。
ただでさえ魔力を放出したあとは傷の痛みに苦しまねばならないのに、そこへさらなる激痛が叩きつけられる。
思い出すだけで吐き気がするほど、最悪な時間だった。
粗末な木の台の上に俯せに寝かされ、拘束され、三人の処刑人が代わる代わる僕を鞭打つ。
剥き出しにされた僕の背中に向かって鞭をしならせる男たちの顔には恍惚とした興奮が浮かび、下卑た言葉や笑いを浴びせられるたびに心がすくんだ。
痛みよりも処刑人たちの卑しい視線に晒されることが、何よりも屈辱だった。
激痛に耐えきれず涙を流し、許しを乞う僕に嗜虐心をくすぐられたのか、はたまた劣情を刺激されたのか、処刑人たちの股座は大きく膨れ上がっていたのだ。
いつ終わるのかもわからない苦痛。
背中は熱く燃え上がるように痛むのに気を失うこともできない。
どうしてこんな目に遭っているのだろうかと、自分の人生を僕は呪った。
ただ、罰の効果は抜群だった。
その日以降、僕は何があっても魔力暴走を起こすまいと心に誓い、魔力制御の修行にこれまで以上に精を出した。ふたたびあんな目に遭うのはまっぴらごめんだ。
あのときは、処刑人とともに監視役の近衛魔術師がいたから最悪の事態は免れたが、もしまた処刑人たちに囲まれるようなことがあったとしたら、おぞましい行為を強いられてしまうかもしれない――……その恐怖が、僕の行動を慎重にさせるのだ。
今、僕を囲んでいる兵士たちが纏う粗野な雰囲気。これは、あのときの処刑人たちを否応なしに思い出させる。
魔力を使えばたやすく退けられる相手だが、そうすると僕は極刑を科せられる。
それをこいつらは知っている。だから僕をからかって、反応を見て遊んでいる。
……腹が立ってたまらないのに、どうしようもなくこの手の男たちが恐ろしい。
それが悔しくてたまらなかった。
「あれ? ノクト様、顔色がお悪いですよ?」
「ははっ、仔ウサギみたく震えてんじゃねぇか。こいつ本当に強いのか?」
「ばーか、触ったら凍っちまうぞ!」
「本当かよ。どれどれ、ちょっと試してみるかぁ?」
ひときわ大柄な男の太い腕が眼前に迫り、視界が氷結するように白く霞んだ。
恐怖と嫌悪がないまぜになり、身の危険を感じて防衛本能が燃え上がる。
こうなってしまったときが一番あぶない。
魔力が溢れる。
――っ……いけない、制御が……!!
溢れ出しそうになる力の濁流をなんとか抑え込もうとぎゅっと目を閉じたとき――……ふわ、と清々しい草原のような香りが、僕の鼻腔を淡くくすぐった。
「この無礼者どもが。ノクト様から離れろ」
「っ……」
陽光を吸って蕩めく金色が、見上げた視界の中でまばゆく輝く。
背の高い男が、僕に向かって伸ばされた太い手首を掴んでいた。
そして、端整な横顔に厳しい表情を浮かべ、兵たちを睨みつけている。
一般兵とは違い華やかな装束を身に纏った若い男を見て、兵たちが揃ってぎょっとしたような顔になる。
「っ……い、いえ俺たちはただ! ノクト様の体調が悪そうだったから手を……!」
「嘘をつけ。――汚らわしい」
金髪の男は問答無用とばかりに、兵士の腕をそのまま背中のほうへ捻りあげた。
悲鳴を上げながら地面に膝をついた兵士が、「すみません、すみません……っ!! 放して、折れる……っ!!」と脂汗を流しながら苦悶を滲ませている。
だが、金髪の男は冷ややかな目つきで兵士を睥睨したままだ。
周りの兵士たちも、男の凄みに負けて尻込みしているようだった。
「お、折れる、折れるっ……!! やめてください、もう、しませんから……!!」
「しない? 何をだ」
「ノ、ノクト様に……無礼な態度をとったこと、謝ります、ので……っ……もう放してくださ……」
「謝罪だけじゃ足りないな。もう二度とノクト様に近づかないと誓え」
「誓います、誓いますから……やめてくださいっ……!!」
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片手一本で屈強な兵士を屈服させている男は、ぱっと見たところ兵士よりもずっと細身のようだ。
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「お、おい……!! もういい!! 放してやれ!!」
咄嗟に声を上げて金髪の男を制すると、翡翠色にきらめく双眸がまっすぐに僕を捉えた。
――え……?
目があった瞬間、ドクン……と心臓が跳ね上がる。
その男の瞳の色、髪の色、そして端整な顔立ちが、僕の記憶を大きく揺さぶった。
「……ノクト様がそうおっしゃるのなら」
兵士たちに向けていた冷酷な目つきが嘘のように、男は砂糖菓子のように甘い笑顔を僕に向けた。
その豹変ぶりに少しばかりゾッとする。
男はぱっと兵士の腕から手を離し、僕に見せた笑顔を兵士たちに向けて凄みのある低音の声でこう言った。
「消えろ。後から沙汰が下る。覚悟して待つように」
「っ……失礼します……!!」
腕を折られかけた仲間に肩を貸しながら、兵士たちがバタバタと忙しなく消えていく。
すこぶる顔のいい男とふたり、その場に取り残され、僕は恐々とその立ち姿を見つめた。
すらりと立つ姿勢の良さから滲み出るのは、育ちの良さそうな上品な空気だ。
平民出の兵士たちから感じる粗野な雰囲気はまったくなく、身のこなしには隙がない。
一般の兵士たちは草色のズボンとシャツの上に鎖を編んだベストを身につけているのに対し、彼が身に纏っているのは、淡い灰色の詰襟に金色の飾緒のついた軍服だった。
高い襟の縁や袖口には金糸で縫いつけられた飾り。胸元には同じく金色の飾緒。
――この華やかな衣装は、王宮騎士団か……
不意に、金髪の騎士が僕に向き直る。
思わず後ずさった僕に、その男はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「ノクト様はあいかわらず、とてもお優しいのですね。あなたが止めてくださらなかったら、あのまま腕を折ってしまうところでした」
「な、なんてことを言うんだ。まあ、間に入ってくれたことには礼を言うが……」
「あの男、数か月前からノクト様のご自宅の見張りに立っていた兵ですね。以前からあなたにあんな調子で?」
「……いや、それは……」
下卑た言葉でからかわれていたこと、それに対して何も言い返せずにいたことを知られるのが恥ずかしくて口籠る。
すると騎士は沈黙からすべてを察したようにひとつ頷き、「なるほど」とだけ口にした。
「ノクト様が彼らに手を出せないと知っていて調子に乗ったのですね。許しがたいことです」
「い、いや、でも……」
あんなやつら、はじめに声をかけられたときに僕がもっとうまくあしらえていたら調子づかせることはなかったはずだ――と、思うところはあるが、うまく言えずにまた口籠る。
すると金髪の騎士は俯いた僕の前にすっと跪き、自らの胸に手を当てた。
澄み渡るように美しい翡翠色の瞳が、まっすぐに僕を捉えている。
ひたむきで熱い視線だ。どうしてそんな目で僕を見るのかとたじろいでいると、金髪の騎士は囁くような声でこう言った。
「ノクト様のことは私がお守りします。どうか、そんなお顔をなさらないで」
「……えっ? な、何をいきなり……!」
「ようやく、ようやくお会いできたんです。これからはもう、あんな下品な男たちをあなたのそばには近づけない。これからは、私がずっとそばでお支えします」
「……は……?」
それこそ神に祝福されたかのような美しい騎士が、潤んだ瞳で僕を熱く見つめながらそんなことを訴えてくる……
僕は混乱した。混乱するなと言うほうがどうかしている。
触らぬ神になんとやらだ。
なんだかじわじわ怖くなってきてしまった僕は、「いや……大丈夫だ。僕に構わないでくれ」とだけ告げて、さっさとその場から離れようとした。
だが……
「ノクト様。……私を覚えてはおられませんか?」
「え?」
「私の名はセス・ヴィラス・リステアード。幼い頃、あなたは私の命を救ってくれた」
「っ……」
その名前を聞いた瞬間、心の奥底に大切に閉じ込めていた遠い記憶が強く揺さぶられた。
ばくばく、ばくばくと心臓が暴れはじめる。
けぶる金色の髪、瞳の色、この顔立ち――……
幼い頃に離れ離れになった幼いセスの顔と若い騎士の顔が、目の前でだぶって、重なった。
「セ……セス、なのか……!?」
「ああ、そうだよ。俺だよ、ノクト」
「う、うわ……」
立ち上がったセスは目を細め、蕩けるように甘い笑みを浮かべた。
すっかり背が伸びている。僕より二十センチは背丈がありそうだ。
肩幅も広くなり、胸板も厚い。
華やかな軍服がよく映える逞しい体つきになった。
あまりに立派に成長したセスが眩しく、僕はしばし呆然としてしまった。
「そんな、まさか……こんなところで会えるなんて……」
「よかった。俺のこと、覚えててくれたんだね」
「当たり前だよ! で、でも、こんなに立派になってるとは思わなかったから、誰だかわからなかった……」
「ふふ、そう? 立派になれたかな、俺」
目を細めて微笑むセスの姿がなぜだかすこぶる誇らしく、目が離せない。
――まさか王宮騎士団に入っていたなんて。こんなに近くにいたなんて……!
突然すぎる再会に胸のざわめきが収まらない。
僕はおずおずと手を伸ばし、指先でセスの頬に触れてみた。
幼い頃はふにふにだった柔らかい頬はシャープになり、小さく丸っこかった鼻はすっきりと鼻筋が通っている。
今も綺麗な二重まぶたの双眸には理知的な気品が宿り、騎士ではなく王子様といっても違和感がないほどに麗しい。
唇は幼い頃と変わらずほんのりと赤いままだが、下唇がふっくらとして柔らかそうだ。それが妙に色っぽく、僕は少しだけどきりとした。
その唇が滑らかに動き、僕にだけ聞こえる声で秘めやかに囁いた。
「会いたかったよ、ノクト。すごく会いたかった」
「ぼ、僕も……! 僕も会いたかった。ずっと、セスがどうしてるか気になってたよ」
「本当? 嬉しいな。ここまで努力してきた甲斐があったよ」
――ああ、セスだ。間違いない。大人になったセスが、僕の目の前に……!!
ようやく実感が湧いてきた。
懐かしさと喜びで胸が高鳴り、目の奥がじんと熱くなる。
胸の奥から噴水のように溢れ出す感情をどうすることもできずに僕は思わず、倒れ込むようにセスの身体に抱きついた。
「あっ……。ノ、ノクト?」
「セス。ああ、セス……嬉しいよ。またこうして会えるなんて……!」
昔は僕がセスを受け止めていたけれど、今はすっかり立場が逆になってしまった。
僕を受け止めるセスの胸は逞しく、そっと僕の肩に置かれたセスの手はとても大きい。僕の肩をすっぽり包み込んでしまえるほどになっている。
ドキドキしているのは僕だけではないようだ。
きらびやかな飾りのついた軍服の中でばくばくと暴れている心臓の音が聞こえてくる。それさえも懐かしくて愛おしくて涙が滲む。
――セスも僕との再会を喜んでくれてるみたいだ。ああ……どうしよう。嬉しすぎて、胸が、苦しい……っ。
どくん、どくん、どくん……心拍数がこれまでにないほど上昇していく。
孤独な静けさに慣れた僕の心に久方ぶりに血が巡り、濁流のように感情が掻き乱され、胸の奥から熱いものがとめどなく噴き出すような感覚が僕を包み込んだそのとき――……
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