3 / 31
悪夢が一人寝のせいならば
しおりを挟む
そんな調子でスピネルが話し続けている内に、一つ目の町、ヴェントに到着した。暗くなる前に着いて良かったなぁ、なんて呑気な声でスピネルは言った。
「なぁ。そういや、ネーヴェまでオレが付いてって良いのか? それともギルドでちゃんとした護衛でも雇うのか? あとは迎えが来る予定があるとか?」
それはそれは何気なく、スピネルは訊いてきた。思わぬ言葉にジャーダがきょとんとしていると、
「あ~… ジャーダは、最初オレの事警戒してただろ? 男のオレと長旅を二人っきりってのがイヤなのかなって思ったんだけど。多くは無いけど、女の傭兵も居る事は居るしさ、ホント少ねぇけど。女同士の方が気楽なのかな? って思ったんだけど、違うのか?」
と、絶妙なハズレ具合の答えを返すスピネルに、
『こっ、コイツの中ではおれは女のままなのか?』
再び軽く眩暈を覚えるジャーダ。
「ギルドに行ってみるかあ?」
さらにそう言葉を掛けられ、ジャーダは我に返る。不意に、従者に裏切られた時の、あの光景が過ぎる。思わずスピネルの袖口を掴み、首を横に振る。まるで捨てられた子供のような表情で。
そうだ。少なくとも、この街まで来る間、スピネルがどれだけ自分に気遣ってくれていたのか位は知っている。(たとえそれが女だと誤解していた分を含めても)悪意が無かったのも気付いている。未だに彼に本当の事を打ち明けないのは… まだ少し怖いからだ。だからと言って、今更他の連中とピオッジャまで共に行けるとは、ジャーダには思えなかった。
信用するなら… 今はもう、このスピネルしか居ないと思うのだ。己の身を守る術を持たない今は。
「オレで良いのか?」
すこし心配した表情でスピネルが尋ねてきた。ジャーダが頷くと、
「そっかぁ。あ、じゃあよ、今日は宿と… 道中の食料でも揃えるか。」
少し照れた顔で、スピネルが答えた。その表情に、ジャーダはホッとする。
それからのスピネルの行動は、とても手際が良いものにジャーダの目には映った。ジャーダは疲れてるよなぁ、と呟いた後、まずは宿を見繕う。その後にジャーダに食べられない物は無いかと訊くと、
「ジャーダは休んでて良いぞ。準備はオレがやっておくからよ。」
と言って、道中の保存食を買いに出て行った。
『正直、助かる。』
そうジャーダは考えていた。今まで、こんな状態で旅なんてした事など無いのだ。いつも両親や従者やらと一緒で、こんな何もかも自分で、なんて。まして、有り金全部取られて無一文の状態で… と、そこまで思考を巡らし、ジャーダはハッとする。
無一文なのだ。幾らなんでも身分を証明するつもりが無い今、旅に入用な物を調達するにも金が用意出来無い。否、それ以前にこの宿の代金はどうするんだ? と思い至ったジャーダの顔が青褪めていった。
失礼かもしれないが、と、ジャーダは思う。あいつは金を持っているように見えない。どうするつもりなんだろうか。当てにされていたりするのだろうか、あるいは身包み剝がされたりするのだろうか。着ている物を売り払えば、安物の衣服と旅費に位はなるだろうけれど。
独り、今までとは別種の不安に駆られて居ると、スピネルが帰ってきた。
「待ったか?」
ノックの後にそう呑気な声で部屋に入ってくる。(因みに部屋は別だ。何せスピネルがジャーダを女だと思い込んでいるから。)
「あのな、あんた野盗に襲われて荷物無いだろ? 着替えに困ると思ってよ。取り敢えず、これ。あっ、一応長旅になるからよ、動き易いのを選んだからあんまり、その… 可愛いのじゃなくて、悪ィんだけど…」
と、段々歯切れの悪くなっていく声。手には旅人向けの服がある。
『…子供用のせいか大して女物っぽく見えねぇな。これなら着られなくも… って違う、金だ! 一体どういうつもり…』
スピネルの勝ってきた服を凝視していると、そんなジャーダの微妙な顔を見て、
「やっぱり気に入らなかったか? 一緒に行きゃあ良かったな…」
しゅんとするスピネル。ジャーダは慌てて彼の手を取り、
『お金、全然持って無い』
と、手のひらに書く。すると、スピネルは笑って、
「ああ! そっちかあ! 気にすんな。オレは子供から金は取らねえよ。あ、でも時々ギルドの短期の仕事させてくれな。さすがにネーヴェは遠いぜぇ。」
と、開いている方の手をひらひらさせる。
『バカなのか?』
思わず言葉も何もかもを失うジャーダ。自分から必要経費すら取らないどころか、自分がギルドで働いてまで目的地へ送り届けると言うのだから、わざとでなくとも言葉が出ない。従者に裏切られたばかりのジャーダにしてみればなおさらの事だった。文字を書こうとしていた指が、所在無く宙を指す。
「じゃあ、この服は着てくれんのかあ?」
と、期待の篭った目で訊いてくるものだから、思わずジャーダは頷く。
「良かったぜぇ。でも次は一緒に買いに行こうな。あ、あとよ、一応地図も買ってみたんだ。ジャーダは地図があった方が良いだろ?」
にこにこと、そう続けるスピネルを見て、
『…。これは… むしろおれが騙されるって言うより… こいつのが心配な気がするのは… 気のせいじゃない… よな。』
ジャーダは、自分の事よりもスピネルの事の方が心配に思えて仕方が無かった。いつか騙されてしまうのではないか。いや、実際自分も本当のことをほとんど伝えていない。
そんなジャーダの心配をよそにスピネルは買ってきた地図をテーブルの上に広げている。
「んでよ、一応、今後の予定をざっくり考えてみたんだ。」
スピネルのその言葉に、ジャーダは我に返った。取り敢えず、大人しく彼の言う予定を聞いてみる事にする。地図上の町や街道を指し示しながら道程を説明し始めるスピネル。
曰く、現在の戦況を考慮した上でピオッジャまでの最短ルートを割り出し、手持ちの路銀から(見た目以上に腕が立つらしく、意外に持っていた。)立ち寄る町を決めたとの事だ。
「大きいギルドとか、それと少し危険だけど戦線の近い街なら割のいい仕事にありつけるぜ。一応激戦区は避けたルートだから、そんなに心配しなくていいぞ。」
確かに説明を聞く限り無理な所は見当たらない。旅慣れているのが窺える、そうジャーダは感じた。強いて無茶だと意見を言うとするならスピネルの言う通り戦線の近い場所を通ることくらいだろう。
「なんか、聞きたい事とかあるかぁ?」
特に問題点も無いと思われたジャーダは首を横に振る。
「よし! じゃあ、この予定で行こうな。ところで腹は減ってねえか? 考えてみたらジャーダと会ってから何も食ってねぇよな? 夕飯にするか?」
次から次へと、忙しなく喋るスピネル。そういえば、とジャーダは今日一日を振り返る。確かに何も食べていなかったと気付き、自覚した途端空腹に襲われたので両手で腹に触れながらジャーダは頷いた。
「じゃあ、食堂に行こうぜ、な。」
と、手を差し出すスピネルに拒む理由も無く、大人しく手を取る。部屋に鍵をかけ、ジャーダはスピネルに手を引かれて食堂に向かった。
戦争の影響で物資の調達が難しいのだろう事は簡単に予想できる。まして、ここは城とは違うのだから。ディナーの割に質素な料理を目の前に、ジャーダはふぅと溜息を吐いた。硬いパンと、野菜くずのスープに、ほんの少しの肉のグリルが並ぶ。
「気に入らなかったかぁ?」
スピネルが様子を窺う様に、訊ねてくる。なんでもない、と言うように緩やかに首を振る。ここで我儘を言っても仕方が無いのは分かってる。ましてスピネルに全て世話になっているのだから、と考えたところで、それ以前に、裏切りの衝撃で食事が喉を通るかも分からないから、別に質素でも粗末でも何でもいいかとジャーダは思い直した。
フォークを手に取り、一口目を運ぶ。ジャーダが食事に手を付けたのを見て、そっか、とスピネルも食べ始める。
相変わらず、よく喋る男だな、と、ジャーダは思った。ジャーダが話さない分も、フォークを片手にスピネルが次から次へと話し続ける。
一頻り会話(スピネルが一方的に話していただけだが)と、食事を済ませ部屋に戻る事にする。
「そう言えばよぉ、出発は明日で良いかぁ? それとも少しゆっくりして行くか?」
部屋に戻ろうと食堂を出かかった時に、ジャーダの手を引くスピネルが問いかける。どう考えても叔父の領地へ到着するのが予定よりも遅れる。きっと、両親だけでなく、叔父達も心配するに違いないのだ。一刻も早く安心させてあげたい、父に深く刻まれた皺を、少しでも減らしてあげたい。ジャーダは首を横に振った。
『早く、ネーヴェの町に行きたい』
スピネルの手を取り、そう言葉を綴る。
「そっか。じゃあ、明日は朝飯食ったら出発するか。今日の内に買出ししておいて良かったぜぇ。」
にかっと笑ってスピネルは答えた。その後、ジャーダを部屋まで送ると、
「そんじゃあ、明日なぁ。お休み、ジャーダ。」
くしゃり、と、あの優しい手で頭を撫でて、隣に借りた自分の部屋に入っていく。ドアが、パタン、と軽い音をたてて閉じられた。ジャーダも、部屋のドアを閉じた。とたんに何か、不安を感じた。
慣れない、庶民の宿の一部屋に、ぽつんととり残された、ような、置き去りにされた、ような、変な気分に襲われたのだ。心細い、とジャーダは思った。でも。だけど。そう自分に言い聞かせる。
『これくらい平気だ。だっておれは父様の子だ。こんな事で寂しがったりなんかしない。強くなるんだ。いつか、初陣を迎えて、勇敢に戦って、父様を助けるんだから…!』
胸元をぎゅっと握り締め、自分に言い聞かせる。
「そうだ、明日は早いんだったな。」
そう呟いて、不安や寂しさを振り払うように頭を振ると、備え付けられた寝間着に手をかける。もう寝てしまおう。寝てしまえば、寂しいなんて思わなくて良いのだから。部屋の明かりを消して、ジャーダは早々にベッドに潜り込んだ。
静寂の訪れ。窓から漏れ聞こえるどこか陰鬱で殺伐とした(それは明らかに戦争の影響なのだろうが)喧騒が、意識と共に遠退く。眠りへの誘いに、逆らう事無くジャーダは落ちた、はずだった。
緩やかな闇。硬いベッドだけれど仕方が無い。静寂の気配。どこか落ち着かないのは、慣れないからだ。本当なら、ここは自分の居るべき場所ではないのだから。
静かに、静かに。不安と僅かばかりの恐怖とが、足音も無く忍び寄る。悪夢と共に纏わり着く。ふいに鎌首を擡げる猜疑心が首を絞めた。息が、出来ない。苦しい。
「っ!」
がばっと、ジャーダは飛び起きた。呼吸は乱れたままだ。辺りを見回す。暗い、部屋。そこに、自分独りが置き去り。
『怖い!』
ひゅう、と息だけが吐き出された。言葉は声に成らずに、ジャーダの胸の中でぐるぐると蠢く。スピネルは、と言いかけて思い出す。隣の部屋だ。まだ起きているだろうか。叩き起こしたら、怒るだろうか。
思考とは裏腹。ジャーダの足は、すでに一歩を踏み出していた。とぼとぼと、スピネルが居るはずの部屋の前まで歩く。
ノックをしようとドアを見つめて、ジャーダは躊躇いを覚える。不安が、煽る。拒絶されたら、裏切られたら、どうしよう。ノックをする為に持ち上げた己の手と、部屋のドアを何度も見比べる。怖い。呆れられたらどうしよう。面倒臭いって、放り出されたら… ぐるぐると、不安に呑み込まれ、呼吸も覚束無くなってくる。ひゅう、また、息に呑まれて、言葉に成らない。涙が零れそうになった時。
ガチャリ。鍵の開く音。無造作にドアが開かれ、
「お、やっぱりジャーダかぁ。どうしたぁ?」
と、暢気な声が聞こえた。どうやら気配に気付いて様子を見に来たようだ。が。
「んん? どうしたんだ? なんかあったか?」
ジャーダの異変に、スピネルはうろたえる。取り敢えず部屋に入れぇ、と、ジャーダを部屋に迎え入れ、ベッドに座らせる。自分はジャーダに向き合うように膝を突きスピネルはもう一度、今度は出来るだけ優しく聞いた。
「どうした? なんかあったのか?」
ふるふると、首を横に振る。独りで居るのが怖かった、なんて言ったら、きっと…
ジャーダの頭の中にはもう、一度浮かんだ不安で一杯だった。心配するスピネルの問いかけを、頑なに否定する。何かがあったはずなのに。
スピネルは途方に暮れる。そして気休めに、と。
ふわり。スピネルはせめて気休めになれば、とジャーダの頭を撫でる。ふわり。心のどこかが軽くなったような気が、ジャーダはした。覗き込んだジャーダの顔がどこか不安気で、それでふとスピネルは思う。そして。
「なあ、もしかして、怖い夢でも見たのかぁ?」
一人にしたのは不味かっただろうか。そもそも野盗(にしては身形が良かったが)に襲われたばかりだった。親と逸れたのか、たった一人で怖かっただろうに。
こわいゆめ。そう、復唱しようとしたジャーダの口からは、先程と同じ、ひゅう、と呼吸が漏れただけだった。そうして思案する。怖い夢。ああ、そうだ。みんなどこかへ、行ってしまう夢を見たんだ。ジャーダは、ふるり、と震えた。視線は落としたまま。思い巡らせる、さっき見た夢を。父様も、母様も、自分を置いてどこかへ。そうして… スピネルも。
はっとして、顔を上げる。そこには心配そうに、けれど辛抱強くジャーダの答えを待つスピネルが居た。
『こわい ゆめを みた』
たどたどしく、スピネルの手を取り、言葉を綴る。震えているのは、幻滅されるのが怖いから。夢が怖くて、独りで眠れないなんて。こんな子供みたいな、我儘を。
「そっかぁ、怖かったなぁ。知らねぇ町だもんなぁ…」
そう言って、スピネルはまた頭を撫でる。否定の言葉はそこには無かった。我儘を、聞いてくれるだろうか、ふと、そう思ってしまった。
『一人じゃ怖くて眠れない』
スピネルの手に、そう書いて、そうして、しまったと。面倒臭いって、言われたら、どうしよう、また、ジャーダの中に不安が過ぎる。
「ん。じゃあ、今日は一緒の部屋で寝るか。部屋、鍵かけてきたかぁ?」
くしゃり、と頭を撫でて、事も無げにスピネルは言う。こくん、と頷くと、
「ジャーダはベッドで寝て良いぜ。オレはここに居るから、安心して眠れ。」
ごろん。スピネルはベッドの横の床に寝転んだ。思わずジャーダは彼の手を取る。
『一緒に寝ないの、か?』
「は? 一緒って! だって、いくら子供って言ったってジャーダは、女の子だろ?」
ごにょごにょと、呟くように言うスピネルの視線が定まらない。ああ。ジャーダは思った。
もう男でも女でもいい。見捨てないで、幻滅もしないで、そばに居てくれるんだったら。そして、それが女だと思っているからならもうずっと“ジャーダ”のままでも良い。
『怖い夢見るから、一緒に寝よう?』
「おおお…」
見上げるように、スピネルの顔を覗き込んで、お願いしてみる。照れた様子で、悩むスピネルに笑いを堪えながら、更に畳み掛ける。ぎゅっと、手を握って、不安げにすればきっと、この残念なお人よしは絆されてくれる。
「…分かったよ…」
そう言って、一つ溜息を吐いたスピネルがベッドに潜り込む。今日だけだぁ、なんて、らしくない程か細い声で言うから、ジャーダは聞こえないフリをして目を閉じた。
スピネルと一緒のベッドの中は、何故かひどく安心できた。さっき見た夢も、ずっと付き纏っていた不安も、どこかへ行ってしまったみたいだ、と。
次に見た夢は、起きたらもうほとんど覚えていなかったけれど、悪くない夢だった、ジャーダは目覚めてそう思った。目の前の、困ったように眉を顰めて眠る相手に笑みを漏らした。きっと物凄い葛藤をしながら眠りに就いたのだろうな、と。
『大丈夫、コイツはきっと裏切らない。』
もうすこし、この緩やかな時間に沈んで、微睡もう、ジャーダは再び瞼を閉じた。
「なぁ。そういや、ネーヴェまでオレが付いてって良いのか? それともギルドでちゃんとした護衛でも雇うのか? あとは迎えが来る予定があるとか?」
それはそれは何気なく、スピネルは訊いてきた。思わぬ言葉にジャーダがきょとんとしていると、
「あ~… ジャーダは、最初オレの事警戒してただろ? 男のオレと長旅を二人っきりってのがイヤなのかなって思ったんだけど。多くは無いけど、女の傭兵も居る事は居るしさ、ホント少ねぇけど。女同士の方が気楽なのかな? って思ったんだけど、違うのか?」
と、絶妙なハズレ具合の答えを返すスピネルに、
『こっ、コイツの中ではおれは女のままなのか?』
再び軽く眩暈を覚えるジャーダ。
「ギルドに行ってみるかあ?」
さらにそう言葉を掛けられ、ジャーダは我に返る。不意に、従者に裏切られた時の、あの光景が過ぎる。思わずスピネルの袖口を掴み、首を横に振る。まるで捨てられた子供のような表情で。
そうだ。少なくとも、この街まで来る間、スピネルがどれだけ自分に気遣ってくれていたのか位は知っている。(たとえそれが女だと誤解していた分を含めても)悪意が無かったのも気付いている。未だに彼に本当の事を打ち明けないのは… まだ少し怖いからだ。だからと言って、今更他の連中とピオッジャまで共に行けるとは、ジャーダには思えなかった。
信用するなら… 今はもう、このスピネルしか居ないと思うのだ。己の身を守る術を持たない今は。
「オレで良いのか?」
すこし心配した表情でスピネルが尋ねてきた。ジャーダが頷くと、
「そっかぁ。あ、じゃあよ、今日は宿と… 道中の食料でも揃えるか。」
少し照れた顔で、スピネルが答えた。その表情に、ジャーダはホッとする。
それからのスピネルの行動は、とても手際が良いものにジャーダの目には映った。ジャーダは疲れてるよなぁ、と呟いた後、まずは宿を見繕う。その後にジャーダに食べられない物は無いかと訊くと、
「ジャーダは休んでて良いぞ。準備はオレがやっておくからよ。」
と言って、道中の保存食を買いに出て行った。
『正直、助かる。』
そうジャーダは考えていた。今まで、こんな状態で旅なんてした事など無いのだ。いつも両親や従者やらと一緒で、こんな何もかも自分で、なんて。まして、有り金全部取られて無一文の状態で… と、そこまで思考を巡らし、ジャーダはハッとする。
無一文なのだ。幾らなんでも身分を証明するつもりが無い今、旅に入用な物を調達するにも金が用意出来無い。否、それ以前にこの宿の代金はどうするんだ? と思い至ったジャーダの顔が青褪めていった。
失礼かもしれないが、と、ジャーダは思う。あいつは金を持っているように見えない。どうするつもりなんだろうか。当てにされていたりするのだろうか、あるいは身包み剝がされたりするのだろうか。着ている物を売り払えば、安物の衣服と旅費に位はなるだろうけれど。
独り、今までとは別種の不安に駆られて居ると、スピネルが帰ってきた。
「待ったか?」
ノックの後にそう呑気な声で部屋に入ってくる。(因みに部屋は別だ。何せスピネルがジャーダを女だと思い込んでいるから。)
「あのな、あんた野盗に襲われて荷物無いだろ? 着替えに困ると思ってよ。取り敢えず、これ。あっ、一応長旅になるからよ、動き易いのを選んだからあんまり、その… 可愛いのじゃなくて、悪ィんだけど…」
と、段々歯切れの悪くなっていく声。手には旅人向けの服がある。
『…子供用のせいか大して女物っぽく見えねぇな。これなら着られなくも… って違う、金だ! 一体どういうつもり…』
スピネルの勝ってきた服を凝視していると、そんなジャーダの微妙な顔を見て、
「やっぱり気に入らなかったか? 一緒に行きゃあ良かったな…」
しゅんとするスピネル。ジャーダは慌てて彼の手を取り、
『お金、全然持って無い』
と、手のひらに書く。すると、スピネルは笑って、
「ああ! そっちかあ! 気にすんな。オレは子供から金は取らねえよ。あ、でも時々ギルドの短期の仕事させてくれな。さすがにネーヴェは遠いぜぇ。」
と、開いている方の手をひらひらさせる。
『バカなのか?』
思わず言葉も何もかもを失うジャーダ。自分から必要経費すら取らないどころか、自分がギルドで働いてまで目的地へ送り届けると言うのだから、わざとでなくとも言葉が出ない。従者に裏切られたばかりのジャーダにしてみればなおさらの事だった。文字を書こうとしていた指が、所在無く宙を指す。
「じゃあ、この服は着てくれんのかあ?」
と、期待の篭った目で訊いてくるものだから、思わずジャーダは頷く。
「良かったぜぇ。でも次は一緒に買いに行こうな。あ、あとよ、一応地図も買ってみたんだ。ジャーダは地図があった方が良いだろ?」
にこにこと、そう続けるスピネルを見て、
『…。これは… むしろおれが騙されるって言うより… こいつのが心配な気がするのは… 気のせいじゃない… よな。』
ジャーダは、自分の事よりもスピネルの事の方が心配に思えて仕方が無かった。いつか騙されてしまうのではないか。いや、実際自分も本当のことをほとんど伝えていない。
そんなジャーダの心配をよそにスピネルは買ってきた地図をテーブルの上に広げている。
「んでよ、一応、今後の予定をざっくり考えてみたんだ。」
スピネルのその言葉に、ジャーダは我に返った。取り敢えず、大人しく彼の言う予定を聞いてみる事にする。地図上の町や街道を指し示しながら道程を説明し始めるスピネル。
曰く、現在の戦況を考慮した上でピオッジャまでの最短ルートを割り出し、手持ちの路銀から(見た目以上に腕が立つらしく、意外に持っていた。)立ち寄る町を決めたとの事だ。
「大きいギルドとか、それと少し危険だけど戦線の近い街なら割のいい仕事にありつけるぜ。一応激戦区は避けたルートだから、そんなに心配しなくていいぞ。」
確かに説明を聞く限り無理な所は見当たらない。旅慣れているのが窺える、そうジャーダは感じた。強いて無茶だと意見を言うとするならスピネルの言う通り戦線の近い場所を通ることくらいだろう。
「なんか、聞きたい事とかあるかぁ?」
特に問題点も無いと思われたジャーダは首を横に振る。
「よし! じゃあ、この予定で行こうな。ところで腹は減ってねえか? 考えてみたらジャーダと会ってから何も食ってねぇよな? 夕飯にするか?」
次から次へと、忙しなく喋るスピネル。そういえば、とジャーダは今日一日を振り返る。確かに何も食べていなかったと気付き、自覚した途端空腹に襲われたので両手で腹に触れながらジャーダは頷いた。
「じゃあ、食堂に行こうぜ、な。」
と、手を差し出すスピネルに拒む理由も無く、大人しく手を取る。部屋に鍵をかけ、ジャーダはスピネルに手を引かれて食堂に向かった。
戦争の影響で物資の調達が難しいのだろう事は簡単に予想できる。まして、ここは城とは違うのだから。ディナーの割に質素な料理を目の前に、ジャーダはふぅと溜息を吐いた。硬いパンと、野菜くずのスープに、ほんの少しの肉のグリルが並ぶ。
「気に入らなかったかぁ?」
スピネルが様子を窺う様に、訊ねてくる。なんでもない、と言うように緩やかに首を振る。ここで我儘を言っても仕方が無いのは分かってる。ましてスピネルに全て世話になっているのだから、と考えたところで、それ以前に、裏切りの衝撃で食事が喉を通るかも分からないから、別に質素でも粗末でも何でもいいかとジャーダは思い直した。
フォークを手に取り、一口目を運ぶ。ジャーダが食事に手を付けたのを見て、そっか、とスピネルも食べ始める。
相変わらず、よく喋る男だな、と、ジャーダは思った。ジャーダが話さない分も、フォークを片手にスピネルが次から次へと話し続ける。
一頻り会話(スピネルが一方的に話していただけだが)と、食事を済ませ部屋に戻る事にする。
「そう言えばよぉ、出発は明日で良いかぁ? それとも少しゆっくりして行くか?」
部屋に戻ろうと食堂を出かかった時に、ジャーダの手を引くスピネルが問いかける。どう考えても叔父の領地へ到着するのが予定よりも遅れる。きっと、両親だけでなく、叔父達も心配するに違いないのだ。一刻も早く安心させてあげたい、父に深く刻まれた皺を、少しでも減らしてあげたい。ジャーダは首を横に振った。
『早く、ネーヴェの町に行きたい』
スピネルの手を取り、そう言葉を綴る。
「そっか。じゃあ、明日は朝飯食ったら出発するか。今日の内に買出ししておいて良かったぜぇ。」
にかっと笑ってスピネルは答えた。その後、ジャーダを部屋まで送ると、
「そんじゃあ、明日なぁ。お休み、ジャーダ。」
くしゃり、と、あの優しい手で頭を撫でて、隣に借りた自分の部屋に入っていく。ドアが、パタン、と軽い音をたてて閉じられた。ジャーダも、部屋のドアを閉じた。とたんに何か、不安を感じた。
慣れない、庶民の宿の一部屋に、ぽつんととり残された、ような、置き去りにされた、ような、変な気分に襲われたのだ。心細い、とジャーダは思った。でも。だけど。そう自分に言い聞かせる。
『これくらい平気だ。だっておれは父様の子だ。こんな事で寂しがったりなんかしない。強くなるんだ。いつか、初陣を迎えて、勇敢に戦って、父様を助けるんだから…!』
胸元をぎゅっと握り締め、自分に言い聞かせる。
「そうだ、明日は早いんだったな。」
そう呟いて、不安や寂しさを振り払うように頭を振ると、備え付けられた寝間着に手をかける。もう寝てしまおう。寝てしまえば、寂しいなんて思わなくて良いのだから。部屋の明かりを消して、ジャーダは早々にベッドに潜り込んだ。
静寂の訪れ。窓から漏れ聞こえるどこか陰鬱で殺伐とした(それは明らかに戦争の影響なのだろうが)喧騒が、意識と共に遠退く。眠りへの誘いに、逆らう事無くジャーダは落ちた、はずだった。
緩やかな闇。硬いベッドだけれど仕方が無い。静寂の気配。どこか落ち着かないのは、慣れないからだ。本当なら、ここは自分の居るべき場所ではないのだから。
静かに、静かに。不安と僅かばかりの恐怖とが、足音も無く忍び寄る。悪夢と共に纏わり着く。ふいに鎌首を擡げる猜疑心が首を絞めた。息が、出来ない。苦しい。
「っ!」
がばっと、ジャーダは飛び起きた。呼吸は乱れたままだ。辺りを見回す。暗い、部屋。そこに、自分独りが置き去り。
『怖い!』
ひゅう、と息だけが吐き出された。言葉は声に成らずに、ジャーダの胸の中でぐるぐると蠢く。スピネルは、と言いかけて思い出す。隣の部屋だ。まだ起きているだろうか。叩き起こしたら、怒るだろうか。
思考とは裏腹。ジャーダの足は、すでに一歩を踏み出していた。とぼとぼと、スピネルが居るはずの部屋の前まで歩く。
ノックをしようとドアを見つめて、ジャーダは躊躇いを覚える。不安が、煽る。拒絶されたら、裏切られたら、どうしよう。ノックをする為に持ち上げた己の手と、部屋のドアを何度も見比べる。怖い。呆れられたらどうしよう。面倒臭いって、放り出されたら… ぐるぐると、不安に呑み込まれ、呼吸も覚束無くなってくる。ひゅう、また、息に呑まれて、言葉に成らない。涙が零れそうになった時。
ガチャリ。鍵の開く音。無造作にドアが開かれ、
「お、やっぱりジャーダかぁ。どうしたぁ?」
と、暢気な声が聞こえた。どうやら気配に気付いて様子を見に来たようだ。が。
「んん? どうしたんだ? なんかあったか?」
ジャーダの異変に、スピネルはうろたえる。取り敢えず部屋に入れぇ、と、ジャーダを部屋に迎え入れ、ベッドに座らせる。自分はジャーダに向き合うように膝を突きスピネルはもう一度、今度は出来るだけ優しく聞いた。
「どうした? なんかあったのか?」
ふるふると、首を横に振る。独りで居るのが怖かった、なんて言ったら、きっと…
ジャーダの頭の中にはもう、一度浮かんだ不安で一杯だった。心配するスピネルの問いかけを、頑なに否定する。何かがあったはずなのに。
スピネルは途方に暮れる。そして気休めに、と。
ふわり。スピネルはせめて気休めになれば、とジャーダの頭を撫でる。ふわり。心のどこかが軽くなったような気が、ジャーダはした。覗き込んだジャーダの顔がどこか不安気で、それでふとスピネルは思う。そして。
「なあ、もしかして、怖い夢でも見たのかぁ?」
一人にしたのは不味かっただろうか。そもそも野盗(にしては身形が良かったが)に襲われたばかりだった。親と逸れたのか、たった一人で怖かっただろうに。
こわいゆめ。そう、復唱しようとしたジャーダの口からは、先程と同じ、ひゅう、と呼吸が漏れただけだった。そうして思案する。怖い夢。ああ、そうだ。みんなどこかへ、行ってしまう夢を見たんだ。ジャーダは、ふるり、と震えた。視線は落としたまま。思い巡らせる、さっき見た夢を。父様も、母様も、自分を置いてどこかへ。そうして… スピネルも。
はっとして、顔を上げる。そこには心配そうに、けれど辛抱強くジャーダの答えを待つスピネルが居た。
『こわい ゆめを みた』
たどたどしく、スピネルの手を取り、言葉を綴る。震えているのは、幻滅されるのが怖いから。夢が怖くて、独りで眠れないなんて。こんな子供みたいな、我儘を。
「そっかぁ、怖かったなぁ。知らねぇ町だもんなぁ…」
そう言って、スピネルはまた頭を撫でる。否定の言葉はそこには無かった。我儘を、聞いてくれるだろうか、ふと、そう思ってしまった。
『一人じゃ怖くて眠れない』
スピネルの手に、そう書いて、そうして、しまったと。面倒臭いって、言われたら、どうしよう、また、ジャーダの中に不安が過ぎる。
「ん。じゃあ、今日は一緒の部屋で寝るか。部屋、鍵かけてきたかぁ?」
くしゃり、と頭を撫でて、事も無げにスピネルは言う。こくん、と頷くと、
「ジャーダはベッドで寝て良いぜ。オレはここに居るから、安心して眠れ。」
ごろん。スピネルはベッドの横の床に寝転んだ。思わずジャーダは彼の手を取る。
『一緒に寝ないの、か?』
「は? 一緒って! だって、いくら子供って言ったってジャーダは、女の子だろ?」
ごにょごにょと、呟くように言うスピネルの視線が定まらない。ああ。ジャーダは思った。
もう男でも女でもいい。見捨てないで、幻滅もしないで、そばに居てくれるんだったら。そして、それが女だと思っているからならもうずっと“ジャーダ”のままでも良い。
『怖い夢見るから、一緒に寝よう?』
「おおお…」
見上げるように、スピネルの顔を覗き込んで、お願いしてみる。照れた様子で、悩むスピネルに笑いを堪えながら、更に畳み掛ける。ぎゅっと、手を握って、不安げにすればきっと、この残念なお人よしは絆されてくれる。
「…分かったよ…」
そう言って、一つ溜息を吐いたスピネルがベッドに潜り込む。今日だけだぁ、なんて、らしくない程か細い声で言うから、ジャーダは聞こえないフリをして目を閉じた。
スピネルと一緒のベッドの中は、何故かひどく安心できた。さっき見た夢も、ずっと付き纏っていた不安も、どこかへ行ってしまったみたいだ、と。
次に見た夢は、起きたらもうほとんど覚えていなかったけれど、悪くない夢だった、ジャーダは目覚めてそう思った。目の前の、困ったように眉を顰めて眠る相手に笑みを漏らした。きっと物凄い葛藤をしながら眠りに就いたのだろうな、と。
『大丈夫、コイツはきっと裏切らない。』
もうすこし、この緩やかな時間に沈んで、微睡もう、ジャーダは再び瞼を閉じた。
0
あなたにおすすめの小説
血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】
まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
そんなお前が好きだった
chatetlune
BL
後生大事にしまい込んでいた10年物の腐った初恋の蓋がまさか開くなんて―。高校時代一学年下の大らかな井原渉に懐かれていた和田響。井原は卒業式の後、音大に進んだ響に、卒業したら、この大銀杏の樹の下で逢おうと勝手に約束させたが、響は結局行かなかった。言葉にしたことはないが思いは互いに同じだったのだと思う。だが未来のない道に井原を巻き込みたくはなかった。時を経て10年後の秋、郷里に戻った響は、高校の恩師に頼み込まれてピアノを教える傍ら急遽母校で非常勤講師となるが、明くる4月、アメリカに留学していたはずの井原が物理教師として現れ、響は動揺する。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる