水底の歌

渡邉 幻月

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幻覚魚:7 【咲の場合-3】

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鼓動が煩く、耳に響く。やけに早く脈打つそれが、緊張が最高潮に達したことを否が応でも咲に突き付ける。

呼吸が苦しい。脈が早くなるにつれ、まるで気道の場所まで血管が広がっているかのように、空気が喉を通らない。

…堪えられない!
咲は振り返り、駆け出した。もう、これ以上は無理。この緊張感も恐怖も、全て投げ出したいくらいだと言わんばかりに、咲は走った。
咲と一定の距離を保ちながら、ソレ、もまたざわざわと蠢き追ってくるようだった。それが、より一層咲を追い詰める。

走って、走って、不思議と洞窟の岩壁にぶつかることもなくひたすらに走った。
息があがっても、それでも構わず走った。どうせ、緊張で息も出来なかったのだ。何も変わらない。そう考えては、必死になって走った。
 どれくらい走り続けただろうか。
何時間も走ったように咲は感じていた。時間も分からない、距離も分からない暗闇の中でのことだ。それはほんの数分の出来事だったかもしれないし、一日以上ものことだったかもしれない。
咲の疲労は疾うの昔に限界を振り切れていた。

それまで、湿度の高さ故重苦しかった空気が変わった。すっと軽くなったのを、咲は肌で感じていた。だが、それが何を意味するのかを考える余裕はなかった。
心臓が破裂しそう。
ただ、それだけが。
やがて淡い光が目の前にちらちらと映るようになった。
出口だろうか。
他に何も考えられない。咲は、目の前に見え始めた光に向かって、何が何でもそこまでは行こうと、最後の気力を振り絞って走る。

長い長い暗闇が、緩やかに光に侵食されていく。

ざあっ。風が吹き込んできた。
光が、咲の網膜を焼くようだった。暗闇から一転、光の差す場所に出た咲は、そのまぶしさによって視界を封じられる。
視界が切り替わったが故に、咲の足は知らず止まっていた。疲労が一度に押し寄せる。途端にその場に崩れ落ちる。
一気に噴き出す汗、もう脈打っているのかも分からないほどの速さの鼓動、足はもう棒のようだった。過呼吸になった咲は、もう死ぬかもしれないと、働かない頭で考えていた。

次第に呼吸が整い始める。それに伴って鼓動も落ち着いてくる。足の筋肉は相変わらずだったが、どうにか周囲を確認しなければ、と考えつくほどには思考も動き始めていた。
「ここ、どこ?」
試練に臨んでからはじめて、咲は言葉を発した。うずくまっていた咲は、周囲を窺うようにそろりと頭を上げた。

優しい光が降り注いでいる。岩場は試練の入り口とは違って滑らかで、薄紅色の珊瑚が所々に生えている。
竜宮の在った場所に比べれば地味なくらいだが、恐怖と疲労と不安に苛まれた心と体を癒してくれるような美しさだった。
 暫くの間、咲はその風景に見惚れていた。負の感情が洗い流されていくのを、ただ感じていた。

一息ついて、ふっと我に返って、咲は立ち上がった。まだ疲労が残った足はよろめきながらが精一杯だった。岩場に手をかけ、体を支える。
ここには、気味の悪いモノは居ないだろう。楽観的とも言える判断を下した咲は、岩場を伝いながら歩き始めた。

見たこともない、美しい魚が泳いでいる。
ここは、やっぱり海の中なんだな、咲はぼんやり考えていた。
「あれ? じゃあ、私たちは何で息ができるんだろう…」
はじめ多少の呼吸のしにくさを感じたものの、今はもう違和感は感じない。不思議に思いながらも、答えをくれる相手も無いので咲はそれについて考えるのを止めた。

ひそひそと話す声が聞こえた。
誰かいる。咲は少し考えた。
今は、試練の最中だ。一人一人にされたという事は、一人で乗り越えなくてはいけないに違いない。誰かに話しかけて良いものなのか。と。

ほんの少し近寄ってみる。
男女が話し合っているようだった。誰だろう。何の話だろう。咲の心の中に好奇心が芽生える。
ほんの少しだけなら。様子を見るくらいなら。それくらいなら大丈夫なんじゃないだろうか。誰への言い訳なのか、そんなことを考えながら咲は声のする方へ音をたてないようにゆっくりを進んだ。

耳を澄ませばようやく話し声が聞き取れるくらいまで、咲は近寄った。
姿は、岩や珊瑚に遮られて咲の位置からは確認できなかった。もう少し近付いてみようか、どうしようか、咲は悩んだ。何をしているんだろう、そんな事も頭を過る。
ふと、聞き覚えのある声がした。自然、咲は息を潜め耳を澄ます。

「確かに、そうかもしれません。」
奥津先生だ! 咲は僅かに身を乗り出した。それでもまだ、姿は見えない。また、声は小さくなりぼそぼそと言葉を交わしている。

誰と話しているんだろう。
試練を受けているはずの奥津の声に、咲の胸はざわついた。
そろり、また少し近付いてみる。

「お前さまはどうして…」
女の声だ。これは、この声は、おとひめの声だ。
訳もなく訳も分からず、頭が燃え上がるのを感じた。一瞬の事だ、理屈なんて無かった。
咲は、嫉妬なのか憤怒なのか分からない感情に思考を支配され、胸の内を燃やされた。

試練の事は、もう、頭に無かった。

全身を駆け巡る衝動のまま、声のする方へ飛び出した。

果たして、そこには。
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