【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

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第13話 受験という現実

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夏休み前半の終わり、校内の空気が少しだけ硬質になった。  
掲示板には「三年・夏期講習 時間割」「共通テスト対策 模試日程」の紙が重なり、進路指導室の前には順番待ちの椅子が列を作っている。  
図書室の返却台には、赤本の山。表紙の赤は、夏の光を吸って鈍く反射した。

理科棟へ向かう途中、美月は足を止める。  
「天文部」の前に、紙が一枚貼られていた。

 【連絡】3年生受験モード突入につき、部会は簡略。屋上観測は状況次第で。  
 鍵の貸出は柏木。安全第一。  
 望月:自習日多め(質問あれば置きノートへ)

置きノート。  
ドアの隙間から覗く部室は、いつも通りの配置なのに、誰もいないだけで別の部屋に見える。  
扇風機のコードは抜かれ、投影機に布がかけられ、白板の角には「8/12→13 24:30」の太字が、まだそのまま残っていた。

(……動いているのは、時間だけ)

緑の廊下に射す西陽は、毎日少しずつ角度を変えている。  
空の東は早く暗くなり、ベガは前より高い位置にいる。  
季節は、着実に進む。心だけが、足踏みをしていた。


放課後の図書室。  
冷房は弱く、除湿だけが働いている。  
三年生の机の上は、問題集、ルーズリーフ、鉛筆の屑、ペットボトル。  
ページをめくる音が重なると、風の代わりに“受験”という言葉が空気を動かす。

窓際の隅の席で、美月は星空ガイドを開いたまま、視線を動かせずにいた。  
文字は読めるのに、頭の中へ入ってこない。  

(待つのが仕事——空には通用しても、受験には通用しないのかな)  

ページの隅にベガ・アルタイル・デネブの位置関係が描かれている。  
線を引けば三角形は必ずできる。  
人と人の間の線は、今、どこにも引けない。

携帯が静かに震えた。  
柏木先輩からの一斉連絡。

 【天文部】本日の部会は自主に切替。屋上は鍵開け可。  
 望月:予備校→自習室。置きノートにQどうぞ。

短く「了解です」と打てば済むのに、文字は入力欄から出ていかなかった。  
送らない既読の跡が、胸の中にだけ増えていく。


夕方、屋上。  
赤ライトを点け、段差を確認し、シートを一枚だけ広げる。  
暗順応、十分。  
風は南から。  
国道の音は少し弱く、遠くの風鈴は二度だけ鳴って止んだ。

東の高みに、白い針。  
「ベガ」  
少し下がって、アルタイル。  
北東に、デネブ。  
三つを薄い線で結び、早見盤を東に合わせる。  
——形は変わらない。  
変わらないことが、今日は苦い。

観測カード。  
日付、時刻、風:南、暗さ:3/5。

 一分法(予行):0  
 ひとこと:“見えない”の訓練、継続中

小さく書いて、鉛筆を置く。  
「継続中」。  
受験も、恋も、空も。  
続いていくことの中に、自分がちゃんと含まれているのか、時々不安になる。

鉄扉が開く気配はない。  
今日は誰も来ないのだと思うと、かえって落ち着いた。  
落ち着いたことに、少し傷ついた。


翌日。  
ホームルームの後、廊下で新堂が大きな欠伸をした。  

「部長、夏期講習フルコースらしいっす」  
「すごいね」  
「“物理で解けない問題は、いったん寝かせる”って言ってました。待つんだって」  
「……うん」

“待つ”。  

別の場所で同じ言葉が使われているのが、不思議で、やさしくて、少し悔しい。  
待ち方を教えてくれたのは、先輩だった。  
今、その人自身が、別の待ち方に全力で向かっている。  
その視線の先に、自分は含まれているのか、いないのか。  
答えを求めるには、今は早い。


理科棟の裏手。  
自販機の横のベンチには、今日も先輩がいた。  
白いシャツの袖を肘までまくり、手には問題集。  
ページの間から、薄い紙がちらりと覗く——  

(……観測カード?)  

胸が一度だけ強く鳴った。  

“見えない線でつながる三つ”。  

昨日、屋上で書いた“ひとこと”が、先輩の本の間に挟まれている気がした。

声をかければ、返してもらえるかもしれない。  
「ありがとうございます」と言えば、すむ話だ。  

足が止まる。  
声は出ない。  

代わりに、角を曲がって、遠回りを選ぶ。  

(いなくても回る、を、今だけ証明したい)  

それは、誰に向けた意地なのか、自分でもよくわからなかった。


三者面談週間。  
昇降口の手前で、保護者らしき人たちが受付表に名前を書いている。  
美月の家の面談はまだ先だ。  
「将来のこと、考えておいてね」と担任に言われた言葉が、胸の中に宙ぶらりんでぶら下がっている。

その日の夜、美月の部屋。
机に、国語のノートと星空ガイドと、観測カード。  
ノートの余白に、何度目かの見出しを書く。

 色=温度  
 視差=距離  
 H-R図=並べる地図

書いてから、行を足す。

 受験=期限のある天気

笑ってしまう。  
空には「極大」がある。流星群には“見頃”がある。  
受験にも“時期”がある。  
待つと備えるは、同時にできるのだと、頭ではわかる。

携帯が震えた。  
柏木先輩から。

 【天文部】8/12→13の天気、直前まで様子見。集合は変わらず24:30。  
 ※眠い頭で階段は危ない。昼寝推奨。

「昼寝推奨」に、少し笑う。  

返事は打たない。  

代わりに、机の隅に上着と赤ライト、敷物を積む。  

準備はできる。  
心の準備だけが、遅れている。


日が傾く。  
校庭の端に、盆踊りのやぐらの骨組みが立った。  
提灯はまだ灯されていない。  
「夏祭り」のポスターが、昇降口の掲示板にまた一枚。  

(また、誘われたら——)  

胸のどこかが先に身構える。  
受験、観測、祭り。  
カレンダーの上で、予定の丸印が互いに少しずつ重なり、にじむ。


その日の夕方、部室のドアをノックすると、柏木先輩がひとりでチェックリストに印をつけていた。  

「やっほ。どう? 眠れてる?」  
「まあ、ぼちぼち」  
「部長は今日は予備校。——“橋”を残す言いながら、自分の橋を渡ってるね」  

柏木先輩は、笑いながらも少し寂しそうに言う。  

「一ノ瀬は、待つのは得意。でも、“呼ぶ”のも覚えていいと思う」  
「呼ぶ……」  
「うん。“来て”って、言葉にすること。星は呼べないけど、人は、呼べる」

その一言が、胸の中でゆっくり解ける。  
“呼ぶ”。  
その方法を、私はほとんど知らない。

「——そうだ、これ、部長から預かり」

差し出されたのは、小さな封筒。  
中には、丁寧な字で書かれたメモ。

 8/12(火)24:30 屋上  
 ※東側は寝転び優先  
 ※“ひとこと”を必ず  
 P.S. 観測カード、ありがとう。返すのは当日、直接。

息が少しだけ詰まった。  

(やっぱり、見つけたんだ)  

返してくれる、と、書いてある。  

“当日、直接”。  

その五文字が、背中を細く支える。

「来るでしょ?」  

柏木先輩に問われ、頷く。  

「はい。……行きます」

言葉にした瞬間、ようやく“準備”が心にも追いつく。  

待つだけでは、届かない夜もある。  
行くと決めることで、動き出す夜もある。


帰り道。  
商店街の提灯に、ようやく灯りが入った。  
線香の匂い。ラムネの栓の音。遠くで控えめな花火の音。  
風鈴は、今日は三度、間を置いて鳴った。

その日の夜、美月の部屋。  
観測カードの“ひとこと”欄に、鉛筆で小さく書く。

 当日、直接。

それだけ。  
理由は、今は書かない。  
当日の夜に、空の下で足りない分を埋める。  
“ひとこと”の本番は、そこからだ。

窓の外、東の高みに三つの点。  
“針”“通路”“起点”。  
その下のほう、北東の空に、Wのカシオペヤ。  
放射点は、近づいている。

美月はまだ知らない。  

先輩の問題集の間に挟まれた自分のカードが、ページをめくるたび、そっと顔を出していることも、  
「返すのは当日、直接」という短い行が、先輩にとっても約束の形をしていることも。

ただ今は、受験という現実の横で、  
同じくらい現実の8/12→13 24:30を、  
心の白板にもう一度、太字で書き直していた。
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