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棋理と貴音

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 みこと

 最初に浮かんだのは最愛の彼の事。
 尊がいない。感じない、この家のどこにも、あの日だまりのような優しい気配がない。

 「うっ、あああぁあああああっ!!!」

 嫌だいやだいやだ! 一瞬で最悪を理解した棋理の脳内はそれだけに埋め尽くされた。手負いの獣のような絶叫を干涸びた喉から搾りだし、力の入らない両脚を必死に踏み締める。

 行かないと。
 取り戻さないと。

 よろめくように走り出す脳内で、警報の様に瞬いている一つの言葉など認めたくは無かった。

 失った。
 最愛を失った。
 運命の番を手に入れたから失った。

 それはまごうこと無き確信に近い予感だった。

 「尊!!!」

 蹴破るようにドアを開けて飛び込んだ、自宅の筈のリビングには、見知らぬ男と二人の女の姿だけ、棋理の求める尊の姿は無い。

 様変わりしたリビングには、尊と二人、新居として移り住む時に選んだ家具達が見当たらない。

 無機質なスツールが運び込まれたリビングには、簡素なビジネスチェアーとPCがオフィスのように並べられ、少し離れたテーブルには、医療機器らしい測定装置が単調なアラーム音を響かせている。

 保険会社の代理店から来たと名乗ったスーツの男と、ダイナミクスの専門医だという白衣の女、それから介護士だという中年の女が一斉に棋理を見る。

 彼らは至極冷静に、未だ裸のままの棋理に身なりを整えるよう勧めると、白衣の女は医療機器の点滅するジェラルミンのケースを閉じ、それを下げて「番」に放置されたままのΩのケアに、寝室へと消えていった。

 スーツの男はどこかに電話をかけている。介護士だという柔和な顔の女が、バスタオルを棋理へ渡しシャワーを浴びてくるようにと声をかけてきた。


「運命の番」保険の申請があった。
 通報から既に1週間たっている事。保険は受理されて今は保障が始まっている事。

 電話を終えた男が、簡潔に状況を伝えてくる。シャワーから上がったら、これからの対応について説明があるからと、バスタオルを握りしめたまま茫然と立ちすくむ棋理に、無駄に良いバリトンでスーツの男はそう事務的に告げた。

 いっしゅうかん? そうか、みことはいないのか。いつあえるのだろう。よんだらきてくれるかな。

 現実を見たくない棋理は所在無く視線を手元に落とした。無意識に握りしめていたバスタオルは、尊が気に入って揃えているブランドのシリーズの物だった。





 結局、棋理達はそのまま入院となった。
 極度の脱水と栄養失調のせいである。
 飲みも食いもせず一週間、発情期の交尾を続けていたのだ。

 βなら死んでいますよと、逆に感心したように主治医が告げる。

 通常の発情期ならば、ある程度発散すれば理性が戻り、自ら最低限の栄養補給でもするものだ。

 しかし棋理達にに起きたのは、運命の番との強制的な発情期で、明らかに人の理性を完全に凌駕した、異常ともいえる激しい交わりだった。

 突発的に出会ってしまった運命の番として、体力が続く限り行われる生命活動ぎりぎりの繁殖行為。

 それを見越し待機していた、保険会社委託の民間の救急車で、棋理達が運ばれた時には、特にΩの青年は自力では立ち上がる事もできない程に、疲弊し消耗していたのであった。





 実家にも戻っていない。
 尊がどこにいるのか、元気なのか、何一つ教えられないまま、代理人を通して棋理の元へ離婚届だけが届けられた。

 僅かに残っていた希望も、儚く消え去り、むしろ会わないという選択そのものが、尊の意思表示なのだと。頭では理解できても納得などできはしない。

 せめて会って話したい。
 食い下がる棋理に、代理人は更に衝撃的な事実を告げた。

「PTSD? 」
「はい。レイプ被害に遭われた方に見られるものと良く似た、身体的不調を伴う激しい症状が出ておりまして。原因と想定されます多葉田たばた様との接見禁止令が出ております」

 第一通報者はみこと様でしたので。

 そう言って代理人の男は言葉を濁した。

 許されたいなどと微塵でも思った自分を棋理は殺したくなった。

 もう許され無くてもいい、自分はそれだけの事を最愛のあの人にしてしまった。今はもう只々会って謝りたかった。
 棋理のこの先の人生でも、これ以上に愛する人など現れない、大好きで大事な尊を傷つけたことを、地面に頭を擦り付けてでも、ただ謝りたかった。


 仕事は休職した。多分このまま辞める事になりそうだ。皮肉な事に運命の番保険が休業からヒート事故の後遺症までも補償してくれた。

 βである事に引け目を感じていた尊を安心させたくて入った保険だった。
 プロポーズに指輪と共に差し出して、金婚式を祝おうと共に誓いあった尊はもう居ない。居なくなってしまった。その事実だけが底無しの井戸のように、棋理の前に暗く口を開けては終わりの無い絶望を突きつけるのだった。



 ベッドカバーはクリーニングで何とか汚れは落ちたが、ほつれたキルトは元には戻せなかった。

 友人達が図案から、ひと針ひと針皆で刺してくれたのだと、幸せそうに笑う尊の幻に、また涙が溢れた。 





 棋理の運命のΩは、貴音たかねという名の、Ωらしい繊細な美貌を持った小柄な青年だった。結婚相手のαとの番契約は、既に棋理によって解消されている。
 彼も離婚になるときいた。
 望まぬ相手とは言え棋理の番は、貴音なのもまた事実だ。

 番届を出して、けじめをつけるべきだとも思うのに、尊に会わないままで、離婚届に判を押す気に、棋理はどうしてもなれなかった。





 ーー 最後に一目でもいい、会いたい。

 そんな気持ちに押されるように、実家は元より友人知人にも片っ端から電話を掛け、尊の行方を知らないか聞いてみる。
 今日はわからなくても明日には分かるかも知れない、そんな期待を捨てきれない棋理は、諦めずに電話をかけ続けた。

 その尋常でない様子に、薄々事情を察した友人達は棋理のことも心配した。
 その中に結婚式にも出席してくれた尊の同僚がいた。自分も心配しているが、会社は休職のまま今月一杯で辞める事になったと聞いた。尊に会えたら心配していたと伝えて欲しい。と逆に頼まれてしまった。

 みな棋理の様子に何かを察しているだろうに、友人達は事情を深く聞くことは控えて、まず棋理と尊の身を案じてくれた。

 昔から人には恵まれていた。それらみな尊の人柄のおかげなのだ、この友人達を尊から取り上げる事になっては駄目だ。自分は一目だけでも尊に会って、謝る事ができたら、尊の前からは消えよう。
 もうそうする位しか術がない、と棋理は思い詰めていた。

 友人達の対応の中には勿論、日頃からの棋理に対する信頼もあるというのに、今の棋理にはその事を想像する事さえできない。
 αという第二性に流されて、尊を裏切り酷く傷つけた。そんな自分が、誰かに心配して貰う資格などないと、無意識のうちに思い込んでいるのだった。

 罪の意識に塗りつぶされている棋理は、自分自身も酷く傷ついている事を、素直に認める事もできずにいた。

 また、棋理の性格を良く知る尊が、その事を酷く心配している事も、未だ誰からも伝えられる事も無く、棋理の心の傷は手当されないまま、静かに深く膿んでいった。



 尊は、退職の前に会社に顔を出すかもしれない。

 尊の同僚に話を聞いた翌日、棋理は尊の会社の入るビルの前に来ていた。

 1日目。尊が来るかもしれないと、歩道の端に一日中立ち続けて、不審者として通報されかけたので、翌日からは道路を挟んだ向かい側の、ビルの入口が正面に見えるコーヒーショップに場所を移して待つ事にした。

 棋理の様子から訳ありなのを察したのだろう。人の良さそうな店主とウエイターは、こぢんまりとして、そう席数もない店内の、窓側のテーブル席を、開店から閉店まで占領している棋理の事を迷惑がりもせず、むしろ常連客として心を配り、見守ってくれているようだった。

 人づきあいというのは、ある種鏡のようなものだ。追い詰められて自分を見失った状態で居てもなお、まだ誰かに対する一言の感謝を忘れない。
 そんな棋理の生来の人柄が、彼に係る人々からの好意になって現れている。そんな他人からの細やかささやかな善意を受け止める心の余裕さえ、哀しい事に今の棋理からは失われしまっていたのだった。
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