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桜
しおりを挟む遅れた分だけ足を早める花鈴の頭上に、うららかな午後の陽が落ちる。
普段よりも人通りがおおいが、誰も質素な卯の花色の袍衣にほんのかすかに緑を足したような柳色の上衣をまとっている花鈴を妓女と見やぶる者はなく、花鈴は開放感を堪能しながら桜の樹の元へたどりついた。
「うわー、きれい」
我ながら恥ずかしいほど子どもっぽい無邪気な声をあげてしまったが、あたりはちょうど人気が絶える頃なのか誰もいない。
(すごい……)
見上げると、空は桜の花にうばわれ、まるで視界一面、桜の精が静かに舞っているようだ。花鈴は、幾千、幾万の花びらを独り占めしている贅沢きわまりない気分になった。
犬一匹見えない辺りのあまりの静寂に、花びらの舞う音すら聞こえてきそうだ。どうしてこんな美しい光景を見逃して、世間の人は惜しいとも思わないのだろう。
花鈴はに不思議に思えたが、もともと龍蘭では、桜はどこか儚げな花とあまり好まれず、詩歌に詠まれるときも、それこそ薄幸薄命の美女美姫にちなんで引用される、どこか影のある花だと見なされている。
龍蘭の人々がもっとも好むのは、やはりその国名にちなんだ蘭、とくに真紅や紫の大輪の蘭である。
つぎに牡丹。これもやはり好まれるのは、血のように赤い紅色の牡丹である。三番目は、椿であろう。勿論、好まれるのは、これもやはり燃えるような赤、真紅である。
総じて龍蘭の人々は鮮明なもの、賑やかなもの、情熱的なものを好む。その嗜好、好尚の根にあるのは、この時代もっとも華やかで豊かだと、最果ての国の吟遊詩人たちにも謳われた大陸最大の帝国、龍蘭に生まれた誇りたかき選民の矜持と傲慢だろう。
そんな華やかな帝国のなかにあって、さらにこの世の夢のすべてをあつめたような西の都に生まれ、粋が売りの妓楼で育ちながらも、花鈴はどうしてか桜のように、見るからに頼りなげな風情の花に魅かれてしまう。
その通りは、桜の樹を見守るように大きな楠木が、天にむかって両手を上げる巨人のように大量の枝葉で日をさえぎっているため、どこか湿っぽく感じられるが、花鈴はかえってその静けさに引き寄せられ、魅入られるように歩をすすめた。
一本の巨大な楠木によって大通りと世界が分けられるようにして、狭い道が桜並木にはさまれ、北側へとつづいている様は、まるで花鈴を別世界へといざなっているようだ。
(このまま歩いて行ったら、どこへ出るのかしら?)
奇妙な不安とおさえがたい好奇心に、戸惑わせられたり、せっつかれたりしながらも、ゆっくりと花鈴の足がすすむ。
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