龍蘭帝国奇談夜話 影絵遊び

平坂 静音

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赤い小川

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 卯の花色の裾がかすかに乱れて風にちいさくそよぐ。
 布沓のしたでは桜の花びらが声なき悲鳴をあげる。
 昨夜の雨に落とされた無数の桃色の花弁は、泥にまみれて血をにじませたかのように濃く赤くなり、大地に落花無残らっかむざんの様相をさらしている。ひとひら、ひとひらの花びらに桜の精霊が宿っており、その精霊たちのしかばねのうえを自分は歩いているのではないか、と花鈴は不吉な考えにうっとりとひたった。
 そんな考えをふりきるように頭をふってはみたが、あらためて下を見ると、花鈴は今度は自分が土のうえに湧いてでてきた赤い小川をわたっている錯覚がしてきた。
 このまま進めば、いったいどこへ出てしまうのだろう。
(もう、帰らないと)
 つめたい風が吹いてきた。
 足を止めるにはすこし胆力がいった。目と心は桜並木のつくる幻影的な世界にすっかり魅入られてしまっているのだ。
(あんたは、ものに憑かれやすいからね)
 そんな朋輩ほうばいの嘆きをこめた心配声が耳によみがえってくる。
 あれは、いつの頃だったろう? たしか花鈴がまだ童勤めのころ、五つほど年上の先輩妓女が首をふりふり、そんな言葉をこぼした。
〝もの〟というのが何を指すのか当時の花鈴にはわからなかったが、後に他の妓女の世間話から、その先輩が〝見えやすい〟人だと聞いてからは、おそらく何やら良くないもの、つまり悪い霊のことだと推量している。この時代、こういうことは珍しくなく、当たり前のように語られていた。
 とはいうものの、花鈴には霊感、霊力のたぐいはまったくないので、もしかしたら何かに夢中になって我を忘れてしまうという意味ではないかとも思っているが。
(あ、なんか、いやだ)
 その先輩の言を思い出すと、急に首の後ろがむず痒くなり、花鈴は身震いした。
(帰らないと)
 これは本当に帰らないとまずい気がする。薄着で来たせいか風邪をひきかけているのかもしれない。こんな稼ぎどきの日に病気になってしまったりしたら、それこそ遣り手婆にどれほど叱られるか。
 いつもはめったに店のことに口出しせず、二階の私室に閉じこもりっきりの楼主でさえ、一階の店場に怒りに下りてくるかもしれない。
 《遊月楼》の楼主は女人であり、一風変わった人で、つねに寡婦のように黒い衣に身をつつみ、花鈴たちの前に出てくるときも、必ず黒い面紗めんしゃで顔をおおっているため、素顔は一度も見たことがなく年齢も不詳だが、おそらく三十代にはなっているだろう。だが、その声は低く威厳にあふれていて、迫力がある。
 こまかい理由は花鈴は知らないけれど、一度ひどく楼主の機嫌をそこねた若い妓女が怒鳴りつけられているところを見たことがあり、それは床が割れるかと思うほどの凄さだった。その後すぐにその若い妓女は楼を追い出され、気の毒にどこかの場末の娼家に落とされたと聞いた。
 とにかく楼主を怒らせてはならない、というのが花鈴たち《遊月楼》に住む者たちの絶対の不文律となっている。
(帰らなきゃ)
 花鈴は足を止めた。
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