龍蘭帝国奇談夜話 影絵遊び

平坂 静音

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あちらの世界

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「まーったく、湯浴みや化粧にでもはげんでいるのかと思ったら、いったいどこほっつき歩いていたんだい?」
 白髪の頭から湯気のような怒気をたちのぼらせ、遣り手婆は花鈴をにらみつけた。
「そんなに怒らないでちょうだいよ。……あのね、お客さんが見つかったのよ」
「客ぅ?」
 いらいらしながらも遣り手婆は花鈴の髪を柘植つげの櫛でいてくれる。鏡のなかでは白雪しらゆきの肌に黒玉こくぎょくの瞳をはめこみ、それこそ窓の向こうの花梨の薄桃の花びらを添えたかのような可憐な唇の、伝説の美姫もかくあれと思うような美貌がかがやいている。
「まったくぅ。こうして見ていればどこのお姫様かと思うほどに綺麗なのにねぇ……。口をひらけばやくたいも無いことばかり言って年寄りを困らせる」
「本当だってば。本当にお客様がついたの。今日、来てくださるって……散歩の途中、偶然に出会ったの。いいところの若様よ。その……お金はあんまり持っていないかもしれないけれど」
 花鈴はこれ以上老女の愚痴を聞きたくなくて、急いで口早に説明した。
「ふん! 《遊月楼》の妓女ともあろうものが、安っぽい女郎みたいな真似をするでないよ。客というものは、こっちが呼び込むものでなくて、向こうから来るもんよ」
「あら? だって、もっと気合入れろとか、言っていたじゃない?」
「それは、あくまでも《遊月楼》の門をくぐってこちらの世界に来た相手に対して、だよ」
「こちらの世界?」
 あまり聞きなれぬ言葉に花鈴は目をまるめた。
「そうだよ、ほら」
 遣り手婆のひからびた指のさす方向には、楼のちいさな門があり、軒下からは三日月に雲のからんだ絵をあしらった灯篭がひとつ、ぼんやり宵の薄闇に光っている。
「あの門からこっちは、あたしらの……あんたたち妓女の国なんだよ。あんたが色目を使ったり、甘い声で誘いかけていいのは、あくまでもこっちの世界に足を踏み入れてきた男たちに対してだけなんだよ。外を歩いているよその国の男に気安く声かけしたりしちゃいけないんだよ」
「ふうん……そういうものなの」
「ああ、そういうもんなんだよ」
 しゃべりながらも老女の手はてきぱきと動き、花鈴の黒髪に香油をすりこみながら上手に結いあげ、そこに翠玉すいぎょくかんざしをさす。簪からはおなじく緑色の絹紐が首筋まで垂れ、花鈴の美貌をひきたたせてくれる。
 妓女のよそおいは全体に真紅や薄紅、とき色など派手で華やかなものがおおいが、今夜の花鈴の衣は、それでは色気が足りないという遣り手婆の意見をしりぞけ、花鈴自身のたっての希望で、さわやかな風情の若苗わかなえ色である。どことなく秋封の着物を意識したのだ。
 最初は渋っていた遣り手婆も、あらためて、全体に緑でまとめた花鈴を見て、その全身からたちのぼる凛とした雰囲気に、べつの娘を見るように目を見張って感心した。
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