闇より来たりし者

平坂 静音

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真紅の帳 一

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 だが、それからしばらくすると、呉家の邸のなかで奇妙なことが続いた。
 やたらと物が無くなるのだ。
 奥付きの召使や、厨房の下働きたちまで、いつも、あれが無い、これが見つからないと言い立てているのが聞こえてくるようになった。やがて第二夫人のむねでもそういうことが頻繁に起こるようになり、夫人付きの召使たちが探し物に追われるようになった。
 美しい髪飾りやブローチなどの装飾品、小銭、あまり高価ではないが宝石まで消えてしまったときは、第二夫人はいらだった声で叫びたてた。その騒ぎは私の室あたりまで聞こえてきたほどだ。
 その日の夕暮れには来客があるというので、皆浮き足だってもいた。
「まったく、お客様がいらっしゃるというのに、小間使いたちの気がきかないことといったら!」
 第二夫人は鮮やかな、彼女の気に入りの紅地べにじに白牡丹の絵柄の派手なチャイナドレスをまとって、長い眉をしかめて小さな癇癪かんしゃくを起こした。
「ああ、はやく、あなた達もならんで、ならんで」
 邸の洋風づくりの広間には高価なペルシャ絨毯がしかれ、来客はまずこの室に通される。
 ここで家族全員を紹介することになっている。
 こういう形で家族そろって出むかえるのはたいてい外国人の客だ。勿論、第一夫人は今夜も顔を出さない。病弱な第一夫人にかわって女主人の役をつとめるのは第二夫人である。彼女はすこし緊張しているようだ。
 今日の客は日本人の貿易商だという。
「大事なお客様がいらっしゃるというのに」
 イヤリングが見つからず、第二夫人が怒りだし、それを探すのに召使たちが手間どって、料理の準備がおそくなったらしい。客を迎えるにあたって落ち度や不手際があれば、後で彼女が夫から責められるのだという。それも準正妻の務めというものなのだろう。
 嫁いできて一年足らずで、しかもほとんど形だけの幼妻である私は、むしろ気楽な気分で、第二夫人や彼女付きの召使たちのあわてぶりを見ていた。
「今日のお客様は、旦那様の会社の大事な取引先だから、くれぐれも粗相のないようにね」
 取引先の会社の跡継ぎだという。しかも、相手は日本人である。
 日本の軍隊があちこちへ進出してきている噂は私も耳にしている。だが女は、特に良家の妻女は政治的なことには口出ししないきまりなので、私も口に出しては何も言わなかった。それでもラジオなどから聞く日本軍侵入の知らせは、黒い大きな嵐のようにこの島国を覆ってきており、私も少し日本人にたいして怖いような気持ちを持つようになっていた。いったい、どんな人なのだろう?
 第二夫人の緊張が私にもうつってきたが、とにかく私は行儀よく一番上等な黒地くろじに白蝶の模様もあでやかなチャイナドレスを着こんで、かしこまって立っていた。化粧は正直まだ不慣れで、変に見えないか気になって仕方ない。
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