闇より来たりし者

平坂 静音

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魔女の血 一

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 最初に、それを見たときは、わしは、死ぬほどびっくりした。
 最近になって、いっそうはっきりと思い出すんだ、それのことを。
 舟木のお屋敷はでかくてな、夜は真っ暗で、大人でも厠に行くのは怖いぐらいだった。そのあたりは幸運なことに戦災にも遭わず、昔ながらの古い家屋敷がならんでおり、なかでも舟木家はかなりめだつ豪邸で、月の光のもとに見る日本庭園は、それは見事なものだった。とはいえ、夜はかなり恐ろしい。
 当時、わしは十六……七にはなっていたかなぁ。
 当時の十六、七といえば、けっこう大人のはずなんだが、わしはびくびくしながら夜の廊下を歩いて便所に行ったものよ。
 するとよ、あるとき廊下の片隅に、もぞもぞ動くものがあった。当時、お屋敷には小虎ことらという名の虎毛の猫が飼われていたから、てっきりそれだと思った。
「なんだ、小虎、お嬢さんとこから逃げて来たのか?」
 猫は、お屋敷の一人娘である幸恵お嬢さんが可愛がっていつも身近において撫でておられたんで、なんとなくお嬢さんの猫という気持ちがあったんじゃ。お嬢さんがいつも胸元に抱き寄せているのを見ていたわしは、ふと小虎がいじらしくなって、撫でてみたくなった。そう、わしは、幸恵お嬢さんが好きじゃったのよ。笑うなよ。
 わしは身をかがめてその小さい、闇のせいで黒く見える生き物の身体に触れようとして、近づき、そして腰を抜かすほどびっくりした。
 それは猫なんぞではなく、ようやくよちよち歩きし始めたぐらいの人間の赤ん坊じゃったのよ。その赤子の目が、闇にも金色に光ったのだから、びっくりしたの何のと。しかも、つい先ほどは金色に光った目が、次の瞬間には、血でも吹いたかのように赤く光るのじゃ。
 わしはほとんど本能で悟った。これは、人間の赤子じゃない。妖怪変化のたぐいだと。
 坊には信じられないだろうがな、わしは田舎の迷信深い地域で育ったから、幽霊やあやかしというもんを、人前では馬鹿らしいと笑いながらも、心の奥底では実際にあるものと信じておったんだな。
 腰を抜かさんばかりにびびっとるわしの前で、その妖しがとことこと歩き出して、わしはまたびっくりした。
 どこへ行くのだろう……? といぶかしんでいると、それは長い廊下を勝手知ったるように迷うことなく歩いていく。その後ろ姿は、奇妙といえば奇妙なのだが、どこか愛嬌を漂わせていたのを、今でもはっきりと覚えとる。真っ黒な身体は、後に流行った〝だっこちゃん人形〟というのを思い出させるな。もっとも、あの人形より身体はかなり大きいが。
 わしは好奇心を抑えきれず、気味悪いとは思いつつ、後を追った。
 ……正直言うとな、その妖しの向かっていく先が幸恵お嬢さんの部屋でな、どこか助平な気持ちもあったんだな。
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