闇より来たりし者

平坂 静音

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魔女の血 七

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 やがて奥様は林檎を剥くために置いておいた刃物で自分の指に傷をつけ、幼かったお嬢様が気づいているとも知らず、したたる血を瓶に注いだのだという。
 しばらくすると瓶のなかからむくむくと小さな黒い物が出てきて、それは人の形、小さな幼児の姿をとった。
 それは、奥様に何やら言いつけられると、こくりとうなずいて、お嬢様の枕元へとやって来た。お嬢様はすべて夢だと思っていたから、怖いとも思わず、じっとしていたそうだ。
「それが私の耳元に寄ってきた瞬間、まるで溶けこむように私のなかに入ってきたの。本当に入って来たのよ、私のなかに」
 そして彼らが世に生まれ出てきた経緯や、事情がすべて一瞬のうちにお嬢様に伝わった。そして嘘のように熱はひき、数時間後にはお嬢様は良くなっていたそうだ。
 それからは、はっきりとイザーやミミが見えるようになり、彼らと話も出来るようになったのだと。
「お母様は、勿論そのことを知らないわ。……イザーたちは、私の熱を冷ましてくれたり、お母様の仕事を助けてくれたり、いろいろしてくれたのに、なのに最近ではお母様はイザーやミミを決して呼び出さなくなってしまったんですって。血もあたえないわ。私がもうちょっと気づくのが遅かったら、イザーたちはひからびて死んでいたかもしれないのよ。そのことでミミはひどく怒っているの。散々利用してきて、美代は冷たい、って」
 お嬢様がこの頃、奥様に対して反発する理由はわしにもわかった。
 去年の長男の結婚につづいて、次男も縁談が決まりかけていて、奥様はその準備で忙しく、今まで以上に離れに引きこもっているお嬢様にかまってやれないでいるのだ。
 お嬢様はこの頃、十六。普通ならそれほど母親を恋しがる年齢ではないが、ほとんど屋敷のなかで過ごしてきたお嬢様には、母親は唯一絶対の人で、その人があまり自分に関心を向けてくれないという状況は、お嬢様をすべてから見捨てられた孤児のような気持ちにさせたのだろう。
「けれど、お嬢様の熱を冷ますために、奥様はご自分の手を傷つけられたのでしょう?」
「それは……そうだけれど」
 多少の痛い思いを我慢して娘の身体のためにあの小鬼を呼び出した奥様は、冷たいだけの人ではないはずだと、わしは今でも思っている。
 そうやって幾つもの夜を、わしとお嬢様はともに過ごした。それは幸せな時間だった。
 次男の結婚話が本決まりになり、ますます母屋が忙しくなった分、離れの幸恵お嬢様の存在は忘れられたようになり、そうなればいっそうお嬢様はわしをたよりにされ、わしもお嬢様がいじらく、毎夜のようにお嬢様のもとをおとずれ、夢のような時間を持った。
 二歳のときに戦争で二親ふたおやを亡くし、親戚じゅうををたらい回しされるようにして育てられ、十四でお屋敷に奉公に上がってずっと苦労しつづけだったわしにとっては、人目をしのんでこっそりとお嬢様の部屋に通っていたこの頃が、人生で一番幸福な時だったといえる。
 その幸福が終わったのは、ある夜、お嬢様が発した一言だった。
「どうしょう……友さん。私……赤ちゃんができたみたい」







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