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彼の横顔 …3
しおりを挟む私は幹太を連れて、市役所から10分程歩いた場所にある琥珀亭という古びた喫茶店へ向かった。春の季節は夕方の時間は短くあっという間に暗くなる。
私は夜の時間が苦手だった。左の目は昼間ならぼんやりと明かり程度の色合いは認識できるけれど、夜になったらほとんどが無の世界になる。
無の世界になるということは、私の左目は機能を果たさなくなる。昼間はかろうじて右目の動きについていけているけれど、夜になると明らかに左目は動かなくなった。
だから、私は夜に出掛ける事はほとんどしない。
完全に右側だけの世界になって、何気ない歩行も階段の上り下りも、危険の度合いが急激に大きくなる。家族か私の事情を完璧に把握している人が隣にいて、初めて夜の街に繰り出せた。
でも、今日の私はどうかしている。
そんな事を思い出す事もなく、今、こうやって夜になろうとしている街を幹太と歩いているわけだから。
「幹太の家か駅に近いなら、このお店は便利だと思う。
駅を挟んで市役所とは反対側だけど、仕事の帰りに寄るには近いから」
私は他愛もない会話をしながら、気持ち早歩きで歩いた。
完全に日が暮れてしまう前にお店に入ってしまいたい。
「寧々の家はどこら辺なの?」
幹太はまるで私の左目の事を知っているように、今度は私の左側にいてくれる。
ただ歩いているだけなのに、幹太の存在は夜が怖い私の心を落ち着けてくれた。
「私の実家は、駅からバスで10分位の所にある。
田舎のバスだから、時間をちゃんと見ていかなきゃ最終バスがめちゃくちゃ早いんだ」
私が笑いながらそう言うと、幹太はさりげなく腕時計を見た。
「今日は…
もし、バスにでも乗り遅れたりしたら、俺がちゃんと責任を持って寧々の家まで送るから心配しないで」
私は幹太の言葉に胸がときめく。
幹太はいつでも私の事を最優先してくれる。子供の頃の幹太も、今の幹太も、それは何も変わっていない。
「実家って事は、おじさんもおばさんも一緒に住んでるの?」
幹太は私の両親を覚えているらしい。私はそれが嬉しかった。
「ううん、それが、実は、お父さんの転勤で今は千葉の房総の方に二人で行ってる。お父さんが三年前に軽い脳梗塞を起こして、単身で行かせるには心配だからお母さんもついて行ってるんだ」
幹太は険しい表情になり、私をジッと見ている。
「確か、寧々には弟がいたよな。年の離れた…
そいつと一緒に住んでるんだろ?」
私は弟の昌磨の事も覚えていてくれた事に、また感動した。
でも、幹太の問いには首を横に振った。
「ううん、昌磨は今、アメリカの方の大学に行ってる。
だから、実家なんだけど、一人暮らしなんだ」
私みたいな人間が一人暮らしをするという事は、大きなリスクを伴う事は百も分かっている。でも、父の転勤のために今の仕事を辞めて両親に付いて行く事は、私にとってあり得ない選択で、その選択をするよりもリスクを伴う一人暮らしを選んだ。
生活に伴う危険は、最大限の努力で回避できる。一人暮らしを始めて半年が過ぎた今、その努力は自信となって今の暮らしを有意義にしてくれた。
幹太は浮かない顔をしていた。その理由は私にはさっぱり分からない。きっと、よっぽどお腹が空いているのかな…
「幹太、ほら、見えてきた。
この小道の突き当たりに白い看板が光ってるでしょ?」
実際、私には看板のぼんやりとした灯りしか見えていない。でも、記憶がちゃんとその看板の色も文字も覚えている。
すると、幹太はさりげなく私の手を取り握りしめた。
「寧々、マジで俺、腹減って死にそう。ちょっとだけ急ぐぞ」
幹太は私の左手を力強く握りしめてくれる。その頼もしい右手の力強さは、私を新しい夜の世界へ導いてくれる魔法のようで、私の胸は何度も高鳴った。
「幹太、そんなに走ったら転んじゃうよ~」
私は嬉しくて楽しくて、泣きそうだった。
私だけのヒーローは、あんなに怖かった夜の世界へ、いとも簡単に私を連れ出してくれた。子供の時の幹太のまま、そのまま大きくなったみたいに。
でも、幹太のいる世界が安全で楽しくて心地よくて、あの頃のようにそう思ってしまう自分がちょっとだけ怖かった。
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