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彼の時間 …9
しおりを挟む「寧々は、今日の事があって、記憶を早く取り戻したいって思ってるように見える…」
そう言う幹太の顔は、優しさを必死で作っているのが分かった。
私は伏し目がちに首を傾ける。
「確かに、そうかもしれない…
事故を境に無くなってしまった私の記憶には、事故だけじゃない楽しかった思い出もあるんだって分かった。
それに…
幹太と未来に向かって歩き始めるのなら、過去から逃げちゃダメだって、今の私は心からそう思ってる」
幹太は視線を私から外した。それもぎこちなく…
「寧々の取り戻したい記憶は、寧々が思っている以上に凄まじいものかもしれない…
俺は、寧々を守りたいって思ってるけど、果たしてそれがいい事なのかも分からない。
でも、俺は、寧々を離さないから。
どんな事があっても、俺は寧々を守る。
寧々…
これだけは覚えていてほしい。
予想もできないような真実が寧々の過去に潜んでいたとしても、俺は、必ず寧々のそばにいる…
それだけは、忘れないでいて…」
私は、何度となく、この幹太の苦悩に満ちた顔を見てきた。
今ならはっきりと分かる。幹太は私の戻らない記憶に何かしら関わっていて、何も知らない思い出さない私に、幹太自身が心を痛めている。
あ~、もう、こんな状態は本当に嫌だ。私が真実に向き合わなければ、私達の未来は何も動き出さない。
「…幹太、私、あの時のぽっかり無くなった私の記憶に、向き合いたい。
そうじゃないと、私だけ、きっと、置いてきぼりで、私と幹太は大人になって再会したと思ってるけど、実際は、大人になってるのは幹太だけで…
私の中で欠けてしまったパズルのピーズは、きっと、本当は、私の手のひらの中にあって、早くはめてもらうのを待ってる気がするんだ…」
目を逸らしていた幹太が、また私を見つめる。
それも、心配と不安が混じった複雑な目をして。
「でも、寧々は、俺の口から真実は聞きたくないんだろ…?」
私は大きく頷いた。
「できる事なら、自分の力で思い出したい。
それが、私の中での、本当の真実だと思うから…」
幹太はまた目を逸らす。頭の中を必死に整理しているみたいに、部屋の片隅をぼんやりと眺めている。
「寧々…
四月の後半の三連休に、寧々の記憶が止まってるあの街に行ってみるか?
きっと、ほぼ確実に、寧々の中で何かが変わると思う。
ガキの頃、俺達が過ごしたあの街に、帰ってみようか…」
幹太こそ苦しんでいる。そういう荒治療で私の繊細な心を深く傷つけるんじゃないかって、まだ思い悩んでいる。
でも、私は、不思議と前向きだった。きっと、そこには、二人の未来へ繋がる扉が待っているような気がしたから。
「行きたい…
幹太が生まれ育った街に、私にとってもきっと大切なあの場所へ。
じゃ、すぐに、新幹線を予約しなくちゃ。
ホテルとかあったっけ?
急がなきゃ、ゴールデンウイークに入った頃だから空いてないかもしれないよ」
私は幹太との旅行が嬉しくて、一人でソワソワし始めた。
そんな私を、幹太は引き寄せて思いっきり抱きしめる。
「寧々、本当にいいのか?
怖かったりするんだったら、いつでも延期していいんだぞ」
「怖くなんてないよ。幹太がいてくれるなら、私は何も怖くない。
それに、幹太のその苦しむ顔も見たくないの…
きっと、私のこの消えた記憶のせいで、幹太も私の家族も苦しんでるのを知ってる。
でも、どんな事があったにしてもそれはとっくに過ぎた過去の話で、私は、区役所にあるあの古時計のように、何度も何度も新しく生まれ変わって、新しい未来への時間を刻みたいって思ってる」
「…分かった」
幹太は私を抱きしまたまま大きく深呼吸をした。そして、もう一度大きな声で分かった!と言った。
「区役所の時計って、あのでっかい古めかしい時計の事か?」
幹太は私の突拍子のない例えを、必死に理解しようとしている。
「そう、あの時計…
あの時計ね、もう昭和初期とかそんな古い貴重な物で、あの日、幹太が区役所にやって来た日、あの時計も長い期間の修理を終えて、帰って来たばかりだったの。
修理の人が、生まれ変わってまた新しい時を刻み出しますって言ってた。
何だか、その時こう思ったんだ…
時間って何度もやり直せるんだって…
私の過去は辛いものだったかもしれないけど、私の未来は楽しい未来が待ってるかもしれないって」
幹太は何か感慨深い顔をしている。幹太の中の時間は一体どういう時の刻み方をしてきたのだろう。
私は、幹太の過去も知りたいと思った。私があの街を離れた日から、幹太はどういう人生を送ってきたのか。
きっと、あの場所へ行けば、全てが解決するに違いない。
「幹太、私、行きたい。
幹太が一緒に行ってくれるなら、私は、絶対、大丈夫だから」
幹太の目にはまだ迷いが見えたけれど、でも、私の決意は何があっても揺るがない。
あの場所へ行って、それでも何も思い出さなかったら、その時にまた考えればいいから。
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