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桜の頃 …10
しおりを挟む「じゃ、お礼の挨拶みたいなキスならしてあげる」
流人は寝転がったままで、嬉しそうに目を閉じきゆのキスを待っている。
「ちゃんと、起きて。
寝た状態じゃ、挨拶のキスなんてできないよ」
流人は口角を上げたご機嫌な顔で、でも面倒くさそうなポーズを取りながら体を起こした。
「たくさんのバラの花束、ありがとう…
すごく、嬉しかった…」
きゆはそう言って、目を閉じている流人に軽くくちびるがかする程度のキスをした。
「え? 終わり??」
きゆが可笑しくてクスっと笑うと同時に、流人に強く体を引き寄せられた。
「きゆ、そんなのキスじゃないよ」
そうやって、流人のしたいように、私は体を預けてしまう…
久しぶりに流人の腕に抱かれ、懐かしく当たり前のようなキスをする。
それは、幸せで、でも苦しくて、恋い焦がれていた優しいキス……
「流ちゃん、もう、やめて…」
きゆの目には涙が溢れていた。
あの時にきゆが受けた傷は、まだかさぶたにもならないまま疼いている。
“流人先生は、医者のお嫁さんをもらうらしいよ”
院長秘書に教えてもらったあの日、病院を辞める決心をした。
誕生日の浮気より、きっとこの言葉が私を縛り付けている……
*** *** ***
4月1日の久しぶりの開院の朝は、極上にいい天気だった。
きゆは病院が閉まっている間に、役場の保健課の人に医療事務のノウハウを教わった。
今まではこの病院の院長の奥様が看護師の仕事も事務の仕事も両方やっていたため、受付に事務専用の人を置く必要はなかった。
きゆは医療事務の資格を持っていない。
しかし、こんな小さな病院ではオールマイティーに何でもこなしていかなければならない。
そういう理由で、医療事務の資格を取るためにきゆは日夜勉強に励んでいる。
でも、いざ、初めて一人で受付の仕事をするとなると、なんだか少しだけ緊張していた。
きゆはいつもより早くに病院に出勤した。
所々に、流人からのプレゼントのバラの花を花瓶に飾る。
それだけで、殺風景な待合室がパッと華やいだ。
流人はまだ院長室から出てこない。
院長室を勝手に改造して生活ができる程度の空間に変えた流人は、クッション材の硬いソファにはみ出る足を伸ばして寝ているらしい。
きゆは流人のタイミングでここへ出てきてくれればいいと思っていたので、自分は待合室や診察室の掃除にいそしんだ。
「きゆ、ちょ、ちょっと、こっち向いて…」
きゆが廊下の窓を拭いていると、後ろの方で流人の声がした。
振り返ると、流人は院長室の横にある洗面台の前で立ち尽くしてる。
「おはよう。
今日、すっごくいい天気だよ。
流人先生、今日一日、頑張ろうね」
きゆがそう言うと、流人は白衣のポケットからスマホを取り出し、きゆの写真を撮り出した。
「ちょっと、流ちゃん、どうしたの?」
流人は満面の笑みを浮かべ、興奮気味にきゆに話し始める。
「きゆ、その白衣、すごくいい!
もう、俺、朝っぱらから鼻血が出るかと思ったよ~
ちょっと、ちゃんと見せてみ~
俺、コスプレでもいいから、いつかきゆにこんな格好してもらいたかったんだ。
もう、最高、めっちゃ可愛い、ブラボー!!」
きゆは苦笑いをした。
確かに、きゆ自身この白衣には抵抗があった。
初日にこの病院を訪れた時には、院長の奥様によってもう用意されていた。
ひと昔前の、看護婦さんの頃の白衣……
白地のウエストが絞っている膝上丈のワンピース、そして、時代とともに消えたはずの真っ白い可愛らしい三角帽。
東京の病院ではパンツスタイルの白衣を着ていたし、髪は手術の時以外は一つに結ぶか、ピンで留めるかのスタイルだった。
この島は、時間が止まっている。
しかし、その事によって、喜びはしゃぐ人間がいるとは思いもしなかった……
「もう、そんな子供みたいにはしゃいでバカじゃないの?」
きゆは、大切な初日の日に、こんなくだらない事ではしゃぐ流人に嫌気がさした。
これでも、本当にお医者様なの??
流人に限っていえば、こんな風に思ってしまうシチュエーションがたくさんあり過ぎる。
流人は歯ブラシを口にくわえたまま、スマホに収めたきゆの画像をスワイプして何度も見ていた。
「きゆ、俺はこの島に来て本当に良かったよ……
空気は美味しいし、風景は最高に綺麗だし、人は皆温かいし、それに、きゆのコスプレが毎日見れるなんて…
もう、俺、泣きそう……」
きゆは何も言わずにその場を去った。
もう相手をするだけ疲れるのは長い付き合いで分かっている。
きゆは受付のカウンターに座り、今日の予定をチェックした。
午前は通常の診察業務で、午後からは老健施設の健康診断が入っている。
流人にとって、こんなのんびりした仕事は考えられないだろう。
いつも分刻みで仕事をこなしてきた人だから。
でも、それより、どうやってこの島に来る事ができたのだろう…
流人の生活が少し落ち着いたら、その話を聞いてみよう。
「きゆ、ここの患者さんのカルテを見せて」
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