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花冷えの頃 …1
しおりを挟む正月の三が日が過ぎた頃、田中医院の院長夫妻が久しぶりに我が家へ帰って来た。
そのために、年末、きゆと流人はこの病院の大掃除に明け暮れた。
特に流人が寝泊まりに使っていた院長室は、二人で念入りに床も窓も壁も全てを磨き上げた。
年明けは六日からの診療始めだったので、その日は朝から院長は病院に来て院長室でくつろいでいる。
実は、年末に流人が東京へ帰った時、二人は院長の娘夫婦の家で顔を合わせていた。
流人は院長先生から、今の体の具合やこれから先の田中医院の行く末をじっくり聞かせてもらった。
院長先生の島を大切に想う気持ちが、今の自分にリンクしてくる。
流人はそんな心境の変化に戸惑いながら、でも、島への想いは隠しきれずにいた。
「流人君のような若い先生達は、あんな過疎の進んだ、ましてや離島には誰も来たがらない。
かといって、僕の都合で病院を閉めるわけにもいかない。
小さな島だけど、小さな島だからこそ、病院の存在はかけがえのないものなんだ」
流人は大きく頷いた。
それは、誰よりも自分が一番分かっている。
お年寄りだけじゃない、小さな子供を持つ若い夫婦だって安心できる場所があるからこそ、子育てに専念できる。
「院長先生、病院は閉めないでくださいね…」
院長先生は目がなくなるほどの笑顔を浮かべ、流人を見つめた。
「でも、それは流人君が考えることじゃないよ。
君は有能で将来が楽しみな医者だ。
世界へ羽ばたいて、もっともっと日本の医療レベルを上げる役目がある。
1月に私が島に帰ったら、君はいつでも島を出て行っていいから」
流人は驚いた顔で院長先生を見た。
「でも、僕は、3月いっぱいは田中医院に勤めることになってるので…」
院長先生は優しい眼差しを浮かべたまま、顔を横に振った。
「私と家内は本当に流人君には感謝してる。
感謝してもしてもしきれないくらいにね…
さっき、君からあの島に赴任した本当の理由を聞いても、そんな事は私達にとってはほんのちっぽけな事なんだよ。
きゆちゃんは小さい時からよく知ってるし、そのきゆちゃんを追ってきたなんて、最高にいい話じゃないか。
それで、田中医院も島の人々も助かった。
役場の人達から聞く話は、君の誉め言葉ばっかりだ。
もうそれだけで十分だよ、だから、私が帰ってきたら、今度は自分のやるべきことをやらなきゃ。
君はあの島で満足してはいけないんだ」
流人はどうしても院長の目が見れない。
「院長先生の心臓の具合を聞いて、また、いつ発作が起こるか分からない状況なのに、僕は心配で先生の事も病院の事も放っておけないかもしれません…」
院長先生は静かに目を閉じ、しばらく何かを考えていた。
隣に座る奥様も、やはり同じように何か考えている。
「流人君、君は本当にいい子だ。
だから、きっと、きゆちゃんみたいな素朴な子を好きになったんだね。
君の未来は君のものであって、私達がとやかく言う事ではないけど、でもね……
君が守るべきものはあの島ではないと思うんだ。
もし、私が病院をたたんでも、きっとどうにかなる、大丈夫だよ。
だから君は、君の守るべきものをちゃんと守りなさい。
それは言わなくても分かるよね?」
流人は下を向いたまま頷けなかった。
そして、一月になり、院長夫婦はこの島へ帰ってきた。
*** *** ***
「院長先生、流人です」
流人が院長室をノックしてそう言うと、中からどうぞと声がした。
きゆは受付のカウンターで、奥様に今までの事務関連の書類を見せたり忙しくしていたので、流人はさりげなく院長室へ向かった。
「どうするか、決まったか?」
院長は流人の顔を見るなり、そう聞いてきた。
流人はしばらく黙っていたが、院長の目を見て静かに頷いた。
「院長先生、お願いがあります…」
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