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道也の誕生日
…8
しおりを挟む「ミチャ、今日から、風磨のデッサンに入るから。
中々、暇が合わなくて延び延びになってたけど、今日この後から始めるつもり。
それも伝えとかなきゃと思ってたの」
ミチャは小さく頷いた。
本当は風磨のデッサンなんて忘れてた。
ミチャに動揺してもらいたくて、焼きもちを焼いてもらいたくて、頭の悪い私はこんな事しか思い浮かばない。
でも、今ここにいるミチャは私が知っているミチャじゃなかった。
二十九歳の大人の男性。
今夜のミチャの瞳には、きっと、今の私は映っていない。
ミチャの中にそんなミチャが潜んでいたなんて、想定外の出来事に私の心は不安の嵐の渦の中にいる。
「じゃ、二人とも気を付けて帰るんだぞ」
ミチャはどんな状況でもどんな場面でも、鈍感で無頓着で自分の世界を生きていて、そして、そんなミチャはこういう時も健在だった。
今のミチャにとって私や風磨は二の次で、心は桜子さんに持って行かれている。
ミチャは桜子さんの方を見てから、トイレへ向かった。
私は居ても立っても居られなくなってそのまま立ち上がり、桜子さんのテーブルへ歩き出す。
風磨が私の名前を呼んでいる事にも気付かずに。
「は、初めまして…」
想像以上に儚げで可愛らしい桜子さんに、ショックが大き過ぎてその先の言葉が続かない。
いや、ここまで来たのに、やり合うための準備していないのも事実だった。
だって、勢いだけでやって来てしまったから。
「今日はごめんなさいね。
道也の誕生日に私が先に予約を入れてしまっていて」
桜子さんの口から出る道也という呼び方に、苦しいほどの敗北感を感じてしまう。
私は絞り出すように言葉を繋いだ。
「今日は、道也さんにどんな用事だったんでしょうか…?」
すると、桜子さんは振り返りトイレの方に目をやった。
まるで、ミチャがまだここへ戻らない事を確認するみたいに。
「あなたって、ガキね…
結婚してるのに、どうしてそんな事が気になるのかな。
でも、何だか分かっちゃった。
あなたと道也って、まだ不完全な状態なのね」
桜子さんは本当に綺麗だった。
話し方も、目を細めて首を傾げるその姿も、何もかもが魅力的で女の私でもため息が出る。
でも、だからといって、ミチャを渡したりはしない。
どんなに不完全で何も始まっていない私達だとしても、私は、私だけはミチャを心から愛している。
心ではそう叫んでいるのに、桜子さんの全てに圧倒されている私は、ただ立ち尽くすだけだった。
「まひる、帰るぞ」
そっと私の肩を引き寄せたのは、風磨だった。
奥のトイレからミチャが出てくるのが見える。
「ミチャのまひるを泣かしたら、ミチャが黙っておかないぞ。
それだけは頭に入れておいて」
風磨はそう脅し文句を残し、いや、脅しにもならない可愛らしい言葉だった気がするけど、私の肩を抱いて堂々と店を出る。
そして、私の右目の端に、ちょっとだけミチャの姿が映った。
何があった?って怪訝そうな顔をしているミチャは、首を傾げて私達をジッと見ていた。
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