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ランプの魔人と水族館Ⅲ
しおりを挟む半円形の水槽の周囲を、いくつもの半円形の椅子列が取り囲んでいる。
深い青色のプラスチック製の椅子が、何列にも連なり半円を描いていた。
てっきり、魔人は最前列に陣取ると思っていたのだが。
実際に選んだのは、水槽のほぼ真正面ながら、かなり後方の席だった。
俺はまだしも、背の低い魔人では前の座席次第では見えづらいのでは?と心配になり尋ねた。
「いいの、いいの。
前の席は小さな子に譲らないとね。
それにここなら、水が飛んでこないでしょ?」
いくら雨合羽を借りられるからって冬なのだもの、風邪を引きかねないからね。
そう答えると、ワクワクとした顔を隠さぬままに前へと向き直った。
まだまばらに空席が残っているものの、開演のブザーが鳴り響き、水槽の両端から二頭のイルカが現れる。
たったそれだけなのに、魔人は赤褐色の瞳をきらきらと輝かせて、わぁ!と小さく声をあげた。
飼育員が吹き鳴らすホイッスルの音に合わせて二匹のイルカがぐいぐいと水面を泳ぎ回り、深く潜ったかと思えば大きく飛び跳ねたりと所狭しと暴れまわる。
時折、観客席に向けてヒレを振り回し、水をかけることも忘れない。
その内のいくつかがこちらまで飛んできて、頬や額に水滴がつく。
そのたびに隣からは嬉しそうな笑い声が漏れ聞こえ、つい口元が緩んでしまう。
そうして二十分かそこらだろうか。
ぴょこぴょこと座席の上でお尻を跳ねさせていた魔人の動きがふと止まり、終幕のブザーが鳴り響く。
それにあわせて二匹のイルカによる三回転ジャンプが決まり、大きな二本の水柱が立ち上がった。
そうして拍手が鳴り止まぬまま、イルカたちはまた水槽の奥へと消えていった。
イルカたちが見えなくなっても、飼育員が壇上から消えてしまっても、魔人はずっと拍手を止めずに手を叩き続けている。
寒空の下にいるからではなく、興奮から頬を紅潮させ、双眸を輝かせている魔人に静かに語りかける。
「楽しかったか?」
俺の問いに、魔人は嬉しそうな顔で向き直り大きく頷いて見せた。
「うん、とっても!
こんなにすごいだなんて、思っても見なかったよ!」
あぁ……かわいいなぁ。すごいなぁ。
前の座席の背もたれに手をかけて、空っぽの水槽を覗き込んでは、何度もすごいな、すごいなっと繰り返している。
それに首を傾げる。
いつの頃かはわからないが、祖母と来たときにイルカショーは見なかったのだろうか?
その疑問はするりと口からこぼれ落ちた。
それに魔人は一つ瞬きをすると、顔を俯かせた。
「キヨと来たときね、たまたまショーがお休みの日で。
また来たときにショーを見ようねって約束したのだけど。
結局、来ることは叶わなかったんだよね……」
一緒に見たかったなぁと呟かれれば、なにも言うことはできなかった。
けれど当の本人は、少しの間、瞼を閉じてまた開いたときには実にからりとした顔してこう言った。
「でも、きっとキヨもさ。
あっちで――天国で、旦那さんと一緒に見てくれてると思うんだ。
だから今日、君と一緒に見れて、本当によかった!」
にこりと笑い席を立つと、魔人は俺に手を差し伸べた。
「まだまだ展示が残ってるでしょ。
ほら、立って。 次に行こうよ!」
あぁ、確かに。
まだ見ていない展示がたくさんある。
差し出された手を、ありがたく取らせてもらい立ち上がる。
魔人はその手をきゅっと握って、迷いなく奥へと歩き出した。
そうして再び館内へと戻る。
案内表示に従い、ほの青い空間を進むと、またしても言葉にしがたい幻想的な世界が広がっていた。
神秘的な光に照らされたくらげだらけの廊下を通り抜け、水槽の中を貫く透明な通路から、色とりどりの魚を見上げる。
深海魚コーナーでおどろおどろしかったり不思議な形をした魚や甲殻類たちを覗き見る。
途中、再び外へと出る通路を抜けると、ペンギンたちの飼育場に辿り着いた。
すらりとした身体の親ペンギンに比べ、その隣には丸まると太った毛並みがボサボサの子ペンギンが寒そうに首を竦めている。
魔人は手摺をぎゅうと握りしめ、熱心にそれを見つめていた。
結構長い間そうしていたせいで、褐色の肌でもわかるほどに鼻頭が赤くなってしまっている。
さすがにこのままでは風邪を引いてしまうかと声をかけようとしたときに、魔人が振り返った。
「待たせちゃってごめんね?
じゃあ、次の展示を見に行こうか」
そうして跳ねるような足取りでまた先へと進む。
その上機嫌なテンポに合わせ、黒い三つ編みが背中をリズミカルに叩いていた。
それを見るともなしに見ながらゆったりとあとを追う。
魔人の向かうその先には、数少ない展示が訪いを待っている。
残りの展示プールを、惜しむような気持ちで丁寧に目を通していく。
そうして一つひとつを目に、記憶へと焼きつけながら歩いて行けば、土産物コーナーへと辿り着く。
定番のぬいぐるみにはじまり、マグネット、キーホルダーにクリアファイルやボールペンシル。
箸やスプーンにフォークなんて変わり種まである。
魔人はイルカのぬいぐるみを手に取ると、やさしくその背に手を添えて、柔らかさを堪能するように撫で始めた。
「気に入ったのなら買ってもいいぞ」
そう声をかければ、そっとぬいぐるみを棚に戻し、隣のペンギンへと手を伸ばす。
「ううん、大丈夫。
置くところがないし、ずっと持ってはいられないから」
そうしてペンギンのぬいぐるみも棚に戻すと、次の棚へと足を向けた。
その言葉に、ガツンと頭を殴られた気がした。
魔人は、移ろうものだ。
今は俺を主と仰いでいるが、それだって、三つの願いを叶えれば離れてしまう、儚い関係でしかない。
今はいい。
一緒にいてくれる内は大丈夫だろう。
けれど十年先、二十年先。
俺が死んで、百年たった更にその先。
それだけの年月を経たとき、いったいあの男はどうするんだろう。
そのときまで、あの男は。
――俺のことを、覚えていてくれるだろうか。
もし。
もしも、今までこの男が仕えてきた、たくさんの主のように。
この男の中で降り積もるだけ降り積もって、思い出されもしないなにかになってしまったら。
それは、なんて。
なんて――っ!
は、と声と一緒に息が漏れる。
喉が渇いて仕方がない。
震える手で口を押さえる。
そうでもしないと叫び出してしまいそうだ。
ふらふらと身体が傾いで側の壁へともたれかかり、ずるずると座り込んでしまう。
小さく蹲って、誰も気付かないで欲しいと願う。
けれど、本当は。
あぁできることならあいつには。
自然と下げていた顔を上げれば、目の前に心配そうな顔をした魔人が立っていた。
「どこか、痛いの?」
自分の方が痛くて仕方がないのだというような顔をして、魔人が声をかけてくる。
熱がないか確かめるためだろうか。
額に伸ばされた手をぎゅうと握りしめる。
手袋もしてないのにその手はこれ以上ないほどに温かくて、縋るように更に強く握りこむ。
遠慮もなしに握り締めているから、きっと痛いはずなのに。
俺の裸の手の甲を、魔人はゆっくりと宥めるように撫ぜた。
その場にしゃがみ込んで、俺と目線をあわせて眉尻を下げた顔で笑いかける。
「ここのところ、忙しかったものね。
それなのに、こんなに素敵なところに連れてきてくれたの、嬉しかったんだ。
もう、その気持ちだけで充分だから。
――帰ろう?」
君の、僕たちが暮らす、あの部屋に帰ろうよ。
そう重ねて言われ、その、“帰る”と言う響きに肌が震えた。
あぁ、そうだ。
たとえ、一日先すら約束されぬ関係であったとしても。
いま、この男の想起する――帰るべき場所は、たった一つなのだ。
どこまでも古びていて、でも広々としていて、二人で住むには狭苦しい、オンボロアパートの一室。
そこが、俺の。
お前の、いま、“帰る”ところなのだ。
なら、いいじゃないか。
十年先の事なんて、わからない。
そんな先のことに怯えるよりも、いま確かにあるものを大切に握り締めておけばいい。
こんなにも離れがたいというならば、三つの願いのいずれも使わなければいいのだ。
そうすれば、軽々に別れるなんて事は起こり得ない。
俺が死ぬそのときまで、別離はないのだから。
どうにも身体の節々が痛むものの、ふらつきながら立ち上がる。
頭を振って雑念を払い、男の呼びかけに答える。
「悪い。
少し暖房に当てられたみたいだ」
俺の返しに訝しむような目を向けるものの、しっかりと見つめ返されればいちおうの納得を得たらしい。
よいしょと片膝に手をついて魔人は立ち上がると、少しだけ呆れたような声を出して俺を詰まった。
「本当にぃ?
僕では君を、担いで帰ってあげられないんだよ。
無理だけはしないでよね」
再度告げられた“帰る”の綴りにどうにも嬉しくなってしまう。
あぁ、俺も本当にどうかしてる。
そう自嘲しつつも、こちらの胸中など知らぬげに、再度、土産物へと視線を移す男に苦言を呈したくなった。
「お前はまるで、悪魔みたいな男だよ」
本心からそう述べれば。
魔人はなんともおかしそうな顔をして、茶目っ気たっぷりにこう答えた。
「知らないの?
古今東西、願いを叶えてあげるなんていう奴はね。
人が堕落する姿が、なによりも大好きなのさ」
――僕も、悪魔も。きっと、そんな心を持っている。
小さく首を傾げ、甘やかに細められる茶混じりの紅色。
まるで、グレナデンシロップのように透き通った赤色が、ちらちらと悪戯げに瞬いている。
やわらかに弧を描くその紅は、実に楽しそうに。
こちらに落ちてこいというように。
誘うような色を透かして俺を見上げている。
それはまるで、魔人の語る魔性そのもの。
その姿は、確かに――
人を堕落させるに違いない、そんな魅力を放っていた。
――言葉、態度。
それだけではない魔人のまとうもの、そのすべてに。
捕まってしまったと、頭でなく、心が理解した。
そう、それは。
――恋に落ちる、音がした。
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