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第一章(表)
世民、玄奘を待望す(参)
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十歳で父を亡くした玄奘は、次兄が出家して洛陽の浄土寺に住持するようになったのを機に、同じく浄土寺で仏教を学ぶようになっている。
当時、洛陽では仏教が隆盛を極めており、千を超える寺院が甍を並べ、そこに三千名以上もの天竺・西域からの渡来僧が住持しており、門閥と呼べるほどの家格でもなく、一家の大黒柱である父親を早くに失い、経済的にもそれほど余裕のなかった陳家としては、家督を継ぐ長男以外、世渡りの道を探るとなれば、僧侶を目指すという選択肢は自然な成り行きだったのにちがいない。
やがて、その浄土寺で学び始めて数年が経った頃、公式に僧となるための国家試験、いわゆる度僧を実施する旨が朝廷から布告される。無論、玄奘も勇んでそれに応じようとしたが、残念なことに、受験要件である十五という年齢にまだ達していなかった。
だが、正式に僧となることができれば、国費で勉学が保証される。身につけた学識には自信があるだけに、どうしても諦めきれなかった玄奘は、罰を受けることも覚悟のうえで、試験会場の門のところで責任者を待ち構え、特例を設けてもらえるよう直訴することを考えたのだという。
すると、当時の大理卿(※一〇)、鄭善果なる役人が偶然にもその場を訪れ、玄奘の存在に気付き声をかけた。そこで、さまざまな問答を重ねているうちに、
「なぜ出家したいのか?」
そう鄭善果が尋ねると、玄奘は、
「遠くは如来を紹ぎ、近くは遺法を光らせたいからです」
と、落ち着いた声で答える。
歳に似合わぬ利発さと、なによりもその純粋な熱意に胸を打たれた鄭善果は、
(この風骨は得がたい‼)
そう心中深く歎息し、担当の役所に特例を認めるよう強く働きかけてくれたと、記録には残されている。しかし、
(なんとも胡散臭い話だ!)
世民は正直、鼻白む。
これが素直に信じられているのだとすれば、世間とは存外に純粋なものだ。
本来、刑罰や司法を担当する大理寺の長官が、度僧の試験会場にわざわざ姿を見せるというのも妙な話だし、そこでたまたま話を聞いてやった玄奘の情熱に感動し、自分の所管でもないのに、余計なお世話を焼いてやるなどというのは、あまりに話ができすぎてはいないか。
普通に考えるなら、玄奘が度僧に応じられたのは、なにかの伝手、ひょっとすると下世話ではあるが鄭善果に賂(まいない)でも送って、口添えしてもらったと考える方が自然だろう。
若い頃から高名だった玄奘には、この逸話だけでなく、いろいろな出来事に少なからぬ尾ひれがついて回っている。無論、玄奘本人がそう触れて回っているとは思えないが、彼に関わる物語の場合、ある程度割り引いて聞く必要がありそうだ。
まあ、それはともかくとして、この際、特例により玄奘が正式に僧侶の資格を得ることができたのは事実で、
「これでなんの憂いもなく、仏道修行に打ち込める」
そう玄奘が安堵しただろうことは想像に難くない。
先にも述べたように、『隋』では、国策として仏教の保護とその普及を奨励しており、文帝自ら「菩薩戒仏弟子皇帝」と称していたほどで、もしも、『隋』の治世が長く続いていたなら、玄奘は一代の碩学として仏教界にその名を轟かせ、その天竺行も公式な国の事業として盛大に執り行われていた可能性が高い。
だが、時勢は玄奘にとって逆向きに流れた。文帝の後、次の皇位を簒奪した煬帝による高句麗遠征が失敗に帰したことで、『隋』に対する反乱が各地で頻発したのである。太原留守(※一一)を務めていた世民の父、李淵(高祖)が決起し、首都・大興城を陥落させたのもこの頃だ。
こうした状況をみて玄奘は兄を説得し、戦火の迫る洛陽を離れ、長安という名称に戻されていた『唐』の都を目指した。しかし、実際に訪ねてみると長安もまた混乱の渦中にあり、とてものこと仏道修行どころではない。やむなく玄奘は、さらにその翌年、兄とともに蜀の成都(※一二)へと研鑽の場を移している。
幸いにして、この地にまでは戦乱の余波が及んでおらず、高名な僧侶も数多く集まっており、玄奘はこの成都に滞在している間に、道基・慧景といった名僧らから「摂大乗論」と「阿毘達磨(アビダルマ)論」などについて学んでいる。
この頃、玄奘が特に熱心に研究していたのは、当時流行していた「摂大乗論」で、それに基づく唯識思想に傾倒していたらしい。
「唯識」とは、存在するあらゆる事象は『個々の人間のただ心の現われである』とみて、自己の心のあり方を変革しようとする大乗仏教(※一三)における思想である。「唯識」では、我々の意識の奥底に『アーラヤ識』という根本心理があると説き、当時の中国仏教界では、この『アーラヤ識』が真なるものか、妄なるものかをめぐって議論が分かれ、大きな混乱が生じていた。
玄奘が成都を訪れる前に師事していた碩学らは、『アーラヤ識』を『如来蔵』や『仏性』と同一視する傾向にあり、なかには、『アーラヤ識』のさらにその奥に、清浄無垢な『アマラ識』なるものが存在していると主張する者もあったらしい。
(深遠かつ玄妙な議論だが、……)
このあたりが仏教のつかみどころのない由縁だと、世民はやはり警戒感を抱く。こんな議論が、世の衆生にどのような平安をもたらすというのだ。
ところが、玄奘は、世民からすれば無意味とも思えるこうした議論に、人生を賭けねばならないほどの疑問を抱いたらしい。
(人の心の奥底に、本来、清らかなものがあるとするなら、なぜ、人は怒り、妬み、憎み、そして争うのだろうか?)
玄奘が確信したのは、人の心の最深部には、そうした醜い煩悩を生み出す穢れたものが存在しているに違いないということだった。その根本を覆さない限り、真の悟りを得ることはできない。そして、「摂大乗論」は、本来、そのような思想を説いているのではないかと、彼は考えた。
そこで、二十歳の若さで具足戒を受けて比丘僧(※一四)となると、成都を離れ、それまでの諸師とは思想、考え方の異なる高僧らを訪ねて歩き、それぞれに教えを請う修行を繰り返すようになる。そして、この際、どのような経緯があったかは明らかではないが、兄とは袂を分かっている。年齢的なものもあったのか、仏教そのものに対する向き合い方が、この時期から兄弟の間で大きく隔絶し始めていたものと思われる。
以後の数年間、玄奘の行動力は凄まじく、国内各地の高僧を訪ね歩く傍ら、ようやく世情も落ち着き始めて長安で学ぶことができるようになると、高名な僧侶、法常と僧弁から「摂大乗論」について、改めて詳しく学び直している。その際、彼の学識のあまりの深さに驚いた二人は、玄奘を評して「仏門の千里の駒」、そう称えたと伝えられている。
こうして仏教界でその名が高まっていく一方で、しかし、玄奘が悩んでいた根本的な疑問は、さらにその混迷の度を深めていった。
【注】
※一〇 「大理卿」
刑罰・司法を司る役所、大理寺の長官
※一一 「太原留守」
現在の山西省太原市の留守を皇帝の代理として務める官職
※一二 「成都」
現在の四川省成都市
※一三 「大乗仏教」(それに対する「部派仏教」)
釈尊の死後、百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立し
た諸派の仏教を「部派仏教」と呼び、「アビダルマ仏教」ともいう。
紀元前三世紀頃、原始教団が「上座部」と「大衆部」に分裂(根本分
裂)したのが始まりで、各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理し、
独自の教義を「論(アビダルマ)」として構築し、互いに論争した。
こうした部派仏教の僧侶らは、アショーカ王(阿育王)などの権力に
保護され、互いの部派との論争に明け暮れるばかりで、次第に民衆の信
仰から離れ、貴族的な学問仏教になっていった。
こうした状況のなか、紀元前後に、インドの北西部で新しい仏教の信
仰のあり方が求められるようになり、広く大衆(衆生)の救済を目指す
新たな運動が起こるようになる。そこでは、他者のために苦しい修行を
実践する求道者を菩薩として信仰する菩薩信仰が広まり、また、出家せ
ずに在家のままで信仰することも認められた。この新しい仏教は、紀元
後一世紀に成立したクシャーナ朝の保護を受けて盛んとなり、自らの仏
教を「大乗仏教」と称した。
ここでいう「乗」とは「乗り物」のことで、涅槃(悟りの境地、ニル
ヴァーナ)に至るための手段としてどのような方法を採るかについて、
「大乗(マハーヤーナ)仏教」では、釈尊の教えに従って出家し、悟り
をひらくことは己一人のためだけでなく、「大きな乗り物」によって、
広く衆生を救済するためのものであることを宣言した。
「大乗仏教」の側では、これに対し、自らが悟りを開いて「阿羅漢
(アラカン)」になることを目的とした「部派仏教」の姿勢を「利己
的」と位置づけ、人を救済することのできない「小さな乗り物」、即ち
「小乗仏教」であると非難した。
※一四 「比丘僧」
仏教において、出家し、具足戒(僧伽という集団内で守るべき戒律の
総称)を守る男性の修行者を指す
当時、洛陽では仏教が隆盛を極めており、千を超える寺院が甍を並べ、そこに三千名以上もの天竺・西域からの渡来僧が住持しており、門閥と呼べるほどの家格でもなく、一家の大黒柱である父親を早くに失い、経済的にもそれほど余裕のなかった陳家としては、家督を継ぐ長男以外、世渡りの道を探るとなれば、僧侶を目指すという選択肢は自然な成り行きだったのにちがいない。
やがて、その浄土寺で学び始めて数年が経った頃、公式に僧となるための国家試験、いわゆる度僧を実施する旨が朝廷から布告される。無論、玄奘も勇んでそれに応じようとしたが、残念なことに、受験要件である十五という年齢にまだ達していなかった。
だが、正式に僧となることができれば、国費で勉学が保証される。身につけた学識には自信があるだけに、どうしても諦めきれなかった玄奘は、罰を受けることも覚悟のうえで、試験会場の門のところで責任者を待ち構え、特例を設けてもらえるよう直訴することを考えたのだという。
すると、当時の大理卿(※一〇)、鄭善果なる役人が偶然にもその場を訪れ、玄奘の存在に気付き声をかけた。そこで、さまざまな問答を重ねているうちに、
「なぜ出家したいのか?」
そう鄭善果が尋ねると、玄奘は、
「遠くは如来を紹ぎ、近くは遺法を光らせたいからです」
と、落ち着いた声で答える。
歳に似合わぬ利発さと、なによりもその純粋な熱意に胸を打たれた鄭善果は、
(この風骨は得がたい‼)
そう心中深く歎息し、担当の役所に特例を認めるよう強く働きかけてくれたと、記録には残されている。しかし、
(なんとも胡散臭い話だ!)
世民は正直、鼻白む。
これが素直に信じられているのだとすれば、世間とは存外に純粋なものだ。
本来、刑罰や司法を担当する大理寺の長官が、度僧の試験会場にわざわざ姿を見せるというのも妙な話だし、そこでたまたま話を聞いてやった玄奘の情熱に感動し、自分の所管でもないのに、余計なお世話を焼いてやるなどというのは、あまりに話ができすぎてはいないか。
普通に考えるなら、玄奘が度僧に応じられたのは、なにかの伝手、ひょっとすると下世話ではあるが鄭善果に賂(まいない)でも送って、口添えしてもらったと考える方が自然だろう。
若い頃から高名だった玄奘には、この逸話だけでなく、いろいろな出来事に少なからぬ尾ひれがついて回っている。無論、玄奘本人がそう触れて回っているとは思えないが、彼に関わる物語の場合、ある程度割り引いて聞く必要がありそうだ。
まあ、それはともかくとして、この際、特例により玄奘が正式に僧侶の資格を得ることができたのは事実で、
「これでなんの憂いもなく、仏道修行に打ち込める」
そう玄奘が安堵しただろうことは想像に難くない。
先にも述べたように、『隋』では、国策として仏教の保護とその普及を奨励しており、文帝自ら「菩薩戒仏弟子皇帝」と称していたほどで、もしも、『隋』の治世が長く続いていたなら、玄奘は一代の碩学として仏教界にその名を轟かせ、その天竺行も公式な国の事業として盛大に執り行われていた可能性が高い。
だが、時勢は玄奘にとって逆向きに流れた。文帝の後、次の皇位を簒奪した煬帝による高句麗遠征が失敗に帰したことで、『隋』に対する反乱が各地で頻発したのである。太原留守(※一一)を務めていた世民の父、李淵(高祖)が決起し、首都・大興城を陥落させたのもこの頃だ。
こうした状況をみて玄奘は兄を説得し、戦火の迫る洛陽を離れ、長安という名称に戻されていた『唐』の都を目指した。しかし、実際に訪ねてみると長安もまた混乱の渦中にあり、とてものこと仏道修行どころではない。やむなく玄奘は、さらにその翌年、兄とともに蜀の成都(※一二)へと研鑽の場を移している。
幸いにして、この地にまでは戦乱の余波が及んでおらず、高名な僧侶も数多く集まっており、玄奘はこの成都に滞在している間に、道基・慧景といった名僧らから「摂大乗論」と「阿毘達磨(アビダルマ)論」などについて学んでいる。
この頃、玄奘が特に熱心に研究していたのは、当時流行していた「摂大乗論」で、それに基づく唯識思想に傾倒していたらしい。
「唯識」とは、存在するあらゆる事象は『個々の人間のただ心の現われである』とみて、自己の心のあり方を変革しようとする大乗仏教(※一三)における思想である。「唯識」では、我々の意識の奥底に『アーラヤ識』という根本心理があると説き、当時の中国仏教界では、この『アーラヤ識』が真なるものか、妄なるものかをめぐって議論が分かれ、大きな混乱が生じていた。
玄奘が成都を訪れる前に師事していた碩学らは、『アーラヤ識』を『如来蔵』や『仏性』と同一視する傾向にあり、なかには、『アーラヤ識』のさらにその奥に、清浄無垢な『アマラ識』なるものが存在していると主張する者もあったらしい。
(深遠かつ玄妙な議論だが、……)
このあたりが仏教のつかみどころのない由縁だと、世民はやはり警戒感を抱く。こんな議論が、世の衆生にどのような平安をもたらすというのだ。
ところが、玄奘は、世民からすれば無意味とも思えるこうした議論に、人生を賭けねばならないほどの疑問を抱いたらしい。
(人の心の奥底に、本来、清らかなものがあるとするなら、なぜ、人は怒り、妬み、憎み、そして争うのだろうか?)
玄奘が確信したのは、人の心の最深部には、そうした醜い煩悩を生み出す穢れたものが存在しているに違いないということだった。その根本を覆さない限り、真の悟りを得ることはできない。そして、「摂大乗論」は、本来、そのような思想を説いているのではないかと、彼は考えた。
そこで、二十歳の若さで具足戒を受けて比丘僧(※一四)となると、成都を離れ、それまでの諸師とは思想、考え方の異なる高僧らを訪ねて歩き、それぞれに教えを請う修行を繰り返すようになる。そして、この際、どのような経緯があったかは明らかではないが、兄とは袂を分かっている。年齢的なものもあったのか、仏教そのものに対する向き合い方が、この時期から兄弟の間で大きく隔絶し始めていたものと思われる。
以後の数年間、玄奘の行動力は凄まじく、国内各地の高僧を訪ね歩く傍ら、ようやく世情も落ち着き始めて長安で学ぶことができるようになると、高名な僧侶、法常と僧弁から「摂大乗論」について、改めて詳しく学び直している。その際、彼の学識のあまりの深さに驚いた二人は、玄奘を評して「仏門の千里の駒」、そう称えたと伝えられている。
こうして仏教界でその名が高まっていく一方で、しかし、玄奘が悩んでいた根本的な疑問は、さらにその混迷の度を深めていった。
【注】
※一〇 「大理卿」
刑罰・司法を司る役所、大理寺の長官
※一一 「太原留守」
現在の山西省太原市の留守を皇帝の代理として務める官職
※一二 「成都」
現在の四川省成都市
※一三 「大乗仏教」(それに対する「部派仏教」)
釈尊の死後、百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立し
た諸派の仏教を「部派仏教」と呼び、「アビダルマ仏教」ともいう。
紀元前三世紀頃、原始教団が「上座部」と「大衆部」に分裂(根本分
裂)したのが始まりで、各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理し、
独自の教義を「論(アビダルマ)」として構築し、互いに論争した。
こうした部派仏教の僧侶らは、アショーカ王(阿育王)などの権力に
保護され、互いの部派との論争に明け暮れるばかりで、次第に民衆の信
仰から離れ、貴族的な学問仏教になっていった。
こうした状況のなか、紀元前後に、インドの北西部で新しい仏教の信
仰のあり方が求められるようになり、広く大衆(衆生)の救済を目指す
新たな運動が起こるようになる。そこでは、他者のために苦しい修行を
実践する求道者を菩薩として信仰する菩薩信仰が広まり、また、出家せ
ずに在家のままで信仰することも認められた。この新しい仏教は、紀元
後一世紀に成立したクシャーナ朝の保護を受けて盛んとなり、自らの仏
教を「大乗仏教」と称した。
ここでいう「乗」とは「乗り物」のことで、涅槃(悟りの境地、ニル
ヴァーナ)に至るための手段としてどのような方法を採るかについて、
「大乗(マハーヤーナ)仏教」では、釈尊の教えに従って出家し、悟り
をひらくことは己一人のためだけでなく、「大きな乗り物」によって、
広く衆生を救済するためのものであることを宣言した。
「大乗仏教」の側では、これに対し、自らが悟りを開いて「阿羅漢
(アラカン)」になることを目的とした「部派仏教」の姿勢を「利己
的」と位置づけ、人を救済することのできない「小さな乗り物」、即ち
「小乗仏教」であると非難した。
※一四 「比丘僧」
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