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第一章(表)
世民、玄奘を待望す(肆)
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(なぜ、私の疑問は解決することができない……?)
思い悩む玄奘だったが、あるとき、一冊の書物の存在を知る。それが「唯識」の百科全書とも呼ぶべき『十七地論(瑜伽師地論)』である。これは、ヨーガの瞑想をおこなう修行者、瑜伽師の修行体験の段階(「地」)を十七に分けて論じたもので、大乗仏教の立場に立ちながら、それ以前の部派仏教の教えも含めて説いたものだと云う。
礼部の記録には丁寧にこう書き綴られているが、こんな形而上学的な事項は世民にとって、まったく関心の外である。そこは無視して、紙上の文字を世民は淡々と読み進めていく。
この当時、本朝には『十七地論』を完全な形で漢訳されたものは存在しておらず、
(原典に触れてみたい‼)
玄奘はそんな思いを強く胸に抱いたらしい。そして、仏教生誕の地、天竺に赴き、この『十七地論』を学ぶことによって、釈尊が説いた仏教の神髄はどこにあるのか、その根源的な疑問を正したいというのが、彼の悲願となったのである。
そのため玄奘は、貞観元(六二七)年の秋頃から志を同じくする僧侶たちとともに、天竺行を朝廷に度々願い出ている。これは、世民が即位してまだ間もない頃で、いろいろと多忙のなか、朝議のなかでしばしば彼の名が登場していたことは記憶に残っている。
しかし、残念なことに、建国してまだ日も浅い『唐』にとっては、この願い出をすんなりと許すことのできない事情があった。それは、覇権争いに敗れて地に潜っている群雄の残党たちが周辺諸国に亡命し、そこで再起を図ろうとする懸念が依然として残されていたからである。そうした背景もあり、どのような目的であれ、国外に出ることは一切禁止する旨を、世民としては徹底せざるを得なかった。
この朝廷の厳格な姿勢に、天竺行きを誓った仲間らは次々と脱落していくが、玄奘にはこれも予測のうちだったのだろう。むしろ、それで逆に気持ちに火が点いたのか、国禁を冒してでも単身で天竺へ赴くことを彼は決意する。
一方、玄奘のこうした思いの強さは、世民の側近たちにも薄々勘付かれていた。
(克明(杜如晦の字)は玄奘に同情的で、なにかと朕に進言してきたが、逆に玄齢は、断固取り締まるべしと強硬だった。たしか、御史台にあの者の監視を命じたのも玄齢だったか……)
だからこうして、御史台経由で玄奘の記録が礼部に残されていたわけだ。
しかし、世間知らずの若造と玄奘を侮っていた玄齢の予測は、見事に裏切られた。御史台の監視下にあったはずの玄奘は、西域への玄関口である涼州までたどり着くと、そこから独自の人脈を使い、鮮やかに出国してみせたのである。玄奘の手並みは、実に天晴れであると評するしかないものだった。
(陰で秘かに手引きしていた者でもあったか?)
いまとなっては知る由もないが、それはともかくとして、世民が玄奘に最も注目している肝腎な点は、西域に入り、高昌を経由した後、彼は『唐』の宿敵である『(西)突厥』(※一五)の可汗の支援を受けて、無事天竺にまで辿りついているということだ。つまり、
(玄奘は、『突厥』の内情を最も良く知る漢ということになる!)
無論、玄奘が出国した頃とは突厥内部の状況も大きく異なっているが、帰国に際しても玄奘は西域経由の陸路を選択している。そこでも必ずや、現在の突厥勢力からなんらかの支援を受けているはずで、我々のまだ知らない最新の情報を握っていてもおかしくはない。
(あの者をどのように遇するかも重要だが、突厥に関する情報を提出させるだけでも、玄奘には捨てがたい価値がある‼)
早く顔を見たいものだ。精悍さの中に怜悧な知性を備えた容貌。勝手にそんな想像をかきたてながら、世民はまだ見ぬ玄奘への期待をさらに一層かきたてられていた。
【注】
※一五 「突厥」
中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。六世紀に広大な版図
を支配した。
起源はジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んで
いたテュルク系部族であると考えられており、柔然に属していた。その
後、柔然の命令に従ってアルタイ山脈の南麓へ移住させられ、鍛鉄奴隷
として鉄工に従事した。
五五二年に柔然から独立し、部族連合である突厥可汗国を建国し、中
央ユーラシアに覇を唱えるが、五八二年に内紛によって東西に分裂。東
突厥は貞観四(六三〇)年、『唐』によって一時的に滅ぼされ、羈縻支
配下に置かれた。
一方、西突厥は、統葉護可汗(在位:六一九年頃~六二八年)のもと
で最盛期を築いたが、彼の死後は内部分裂を繰り返し、二可汗並立の時
代が続いた。太宗(李世民)の崩御に乗じて阿史那賀魯が一時的に勢力
を回復するが、高宗(李治)の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕らえられ
ると、西突厥も唐の羈縻支配下に入った。
思い悩む玄奘だったが、あるとき、一冊の書物の存在を知る。それが「唯識」の百科全書とも呼ぶべき『十七地論(瑜伽師地論)』である。これは、ヨーガの瞑想をおこなう修行者、瑜伽師の修行体験の段階(「地」)を十七に分けて論じたもので、大乗仏教の立場に立ちながら、それ以前の部派仏教の教えも含めて説いたものだと云う。
礼部の記録には丁寧にこう書き綴られているが、こんな形而上学的な事項は世民にとって、まったく関心の外である。そこは無視して、紙上の文字を世民は淡々と読み進めていく。
この当時、本朝には『十七地論』を完全な形で漢訳されたものは存在しておらず、
(原典に触れてみたい‼)
玄奘はそんな思いを強く胸に抱いたらしい。そして、仏教生誕の地、天竺に赴き、この『十七地論』を学ぶことによって、釈尊が説いた仏教の神髄はどこにあるのか、その根源的な疑問を正したいというのが、彼の悲願となったのである。
そのため玄奘は、貞観元(六二七)年の秋頃から志を同じくする僧侶たちとともに、天竺行を朝廷に度々願い出ている。これは、世民が即位してまだ間もない頃で、いろいろと多忙のなか、朝議のなかでしばしば彼の名が登場していたことは記憶に残っている。
しかし、残念なことに、建国してまだ日も浅い『唐』にとっては、この願い出をすんなりと許すことのできない事情があった。それは、覇権争いに敗れて地に潜っている群雄の残党たちが周辺諸国に亡命し、そこで再起を図ろうとする懸念が依然として残されていたからである。そうした背景もあり、どのような目的であれ、国外に出ることは一切禁止する旨を、世民としては徹底せざるを得なかった。
この朝廷の厳格な姿勢に、天竺行きを誓った仲間らは次々と脱落していくが、玄奘にはこれも予測のうちだったのだろう。むしろ、それで逆に気持ちに火が点いたのか、国禁を冒してでも単身で天竺へ赴くことを彼は決意する。
一方、玄奘のこうした思いの強さは、世民の側近たちにも薄々勘付かれていた。
(克明(杜如晦の字)は玄奘に同情的で、なにかと朕に進言してきたが、逆に玄齢は、断固取り締まるべしと強硬だった。たしか、御史台にあの者の監視を命じたのも玄齢だったか……)
だからこうして、御史台経由で玄奘の記録が礼部に残されていたわけだ。
しかし、世間知らずの若造と玄奘を侮っていた玄齢の予測は、見事に裏切られた。御史台の監視下にあったはずの玄奘は、西域への玄関口である涼州までたどり着くと、そこから独自の人脈を使い、鮮やかに出国してみせたのである。玄奘の手並みは、実に天晴れであると評するしかないものだった。
(陰で秘かに手引きしていた者でもあったか?)
いまとなっては知る由もないが、それはともかくとして、世民が玄奘に最も注目している肝腎な点は、西域に入り、高昌を経由した後、彼は『唐』の宿敵である『(西)突厥』(※一五)の可汗の支援を受けて、無事天竺にまで辿りついているということだ。つまり、
(玄奘は、『突厥』の内情を最も良く知る漢ということになる!)
無論、玄奘が出国した頃とは突厥内部の状況も大きく異なっているが、帰国に際しても玄奘は西域経由の陸路を選択している。そこでも必ずや、現在の突厥勢力からなんらかの支援を受けているはずで、我々のまだ知らない最新の情報を握っていてもおかしくはない。
(あの者をどのように遇するかも重要だが、突厥に関する情報を提出させるだけでも、玄奘には捨てがたい価値がある‼)
早く顔を見たいものだ。精悍さの中に怜悧な知性を備えた容貌。勝手にそんな想像をかきたてながら、世民はまだ見ぬ玄奘への期待をさらに一層かきたてられていた。
【注】
※一五 「突厥」
中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。六世紀に広大な版図
を支配した。
起源はジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んで
いたテュルク系部族であると考えられており、柔然に属していた。その
後、柔然の命令に従ってアルタイ山脈の南麓へ移住させられ、鍛鉄奴隷
として鉄工に従事した。
五五二年に柔然から独立し、部族連合である突厥可汗国を建国し、中
央ユーラシアに覇を唱えるが、五八二年に内紛によって東西に分裂。東
突厥は貞観四(六三〇)年、『唐』によって一時的に滅ぼされ、羈縻支
配下に置かれた。
一方、西突厥は、統葉護可汗(在位:六一九年頃~六二八年)のもと
で最盛期を築いたが、彼の死後は内部分裂を繰り返し、二可汗並立の時
代が続いた。太宗(李世民)の崩御に乗じて阿史那賀魯が一時的に勢力
を回復するが、高宗(李治)の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕らえられ
ると、西突厥も唐の羈縻支配下に入った。
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