玄奘遷化【その栄光と残照】

織田正弥

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第一章(裏)

房玄齢、玄奘に感嘆す(壱)

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(やりおったな!)
 深々と一礼し、詔に丁寧に目を通した房玄齢は、そんな正直な感想を抱いた。
 たしかにいまの機会を逃してしまえば、高句麗での戦況次第では、これから半年や一年、主上に願い出る機会が失われてしまうのは間違いない。しかし、だからといって、まず側近らになんの根回しもせず、いきなり主上に願い出るなどというのは、正気の沙汰とは思えない。一気に決着が付く可能性は限りなく低く、少しでも不興を買えば、それで全てが水泡に帰してしまうこともある。
 だから自分としては純粋な好意から、
「まずは慎重に構えた方がいいのではないか」
 そう助言してやったのに、玄奘はそれをまったく一顧だにしなかった。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、命を賭して貴重な仏宝と経典を持ち帰ってまいりました。これをご披見賜れば、戦場に赴かれる陛下にも、必ずや御仏のご加護がござりましょう。是非ともお目通りをお願いいたしたく」
 口調こそ慇懃だが、玄奘は強引にそう押し込んでくる。
 人生を通じてこれほど強気に出られたことは、主上を除けば数えるほどしかない玄齢としては、まさに心外の極みで、怒りよりもまず驚きの方が先に来てしまう。気後れしたわけではないが、玄齢は玄奘の云うがままに書状を一筆認め、洛陽にある主上のもとへ送り出してやったのだが、どうやら賭けは玄奘の思い通りに終わったようだ。
 帰国の一報を受けてからこちら、長安にその姿を見せるまでも玄奘には振り回されてばかりで、なかなかの曲者だと思ってはいたが、今回、初めての謁見であの気難しい主上からこれだけの果実をもぎとってみせるとは、いよいよ底の知れない怪物だと玄齢は思った。
 六百五十七部もの貴重な経典や仏像、さらには仏舎利などを携えて帰国した旨、西域の于闐(※一)から人を遣わし、玄奘が朝廷に報告してきたのは、去る貞観十八(六四四)年も押し詰まった十二月頭のことである。この時、報告をもたらした使者が、異国の風貌を有するまだ幼い少年だったことで、朝廷内でもなにかと評判になったものだが、これも話題作りを狙った玄奘の思惑通りだったのではないかと考えてしまうのは、あまりに穿ちすぎだろうか。
(だが、この時点ではまだ、過去の密出国の罪を問われる可能性があるかもしれない。そんなことを玄奘は警戒していた節がある)
 玄齢はそう見ていた。
 なぜなら、この時点で届けられた報告書には、于闐には到着したものの、
『経典や仏像を運んできた象が溺死し、早急に帰国し、拝謁することができない』
 と、そんな予防線が張られていたからである。
 これは一部事実だったようだが、その後のあまりに迅速な行動を考えると、周辺の西域諸国から経典を補填するなど、玄奘は帰国の態勢をほぼ整え終えていたことは間違いなく、書面に記されていた内容は、やはりこちらの出方を探るための伏線だったと考えるべきだろう。
 そこで、こちらからは、洛陽にある陛下のもとにこの件を急報するとともに、玄奘をどのように遇するか、その意向を確認する必要があったことから、
「八ヶ月ほど于闐に留まるべし」
 そう記した返書を彼に送り、同時に于闐をはじめとする西域の沿道諸国に対しては、玄奘一行及びその招来物の運搬を命じたのである。また、玄奘に同行した天竺からの渡来僧に関しても、入国の許可を出した。
 だから、この時点では、長安の留守を預かる玄齢としては、玄奘が帰国のために涼州を経由し、長安に凱旋してくるのは早くても秋口になると考えていたのだ。
 しかし、事態はそんな悠長なことにはならなかった。朝廷からの回答によって、
(もはや密出国の罪に問われる恐れはない!)
 そう確信が持てると、玄奘はすぐさま動き出したからである。
 少しでも躊躇していると、いま洛陽に御動座されている主上はいつ高句麗征伐に出陣されてしまうかもしれず、そうなれば玄奘がなにを願い出るにしても、窓口となる宰相の房玄齢を通じるしかなくなってしまう。それでは結論を得るのに刻を要し、自分の熱量まで冷めてしまうかもしれない。玄奘はそれを恐れたのだろう。
 初めからあの者の狙いは、天竺から持ち帰った経典の翻訳を主上の命による「奉勅撰」事業として国家に公認してもらうことだった。
(ここは多少危険を冒してでも、直接、主上に拝謁をお願いするのが近道だ‼)
 そう判断した玄奘は、長安にいる房玄齢に対して改めて書状を送り、これから直ちに長安に赴くこと、そして長安では帰国の挨拶を済ませるだけに留め、その足で洛陽まで直行し、主上に拝謁を賜われるように願い出てきたのである。
 実はこの時、玄奘は秘かに、于闐から敦煌(※二)まで既に移動していたようだ。
 しかし、それでも長安まではまだ三七五九里(約一六五〇キロメートル)。通常であれば五十五日は要する距離(一日あたり約三〇キロメートルで換算)だ。しかし、玄奘は十二月二十七日に敦煌を出発すると、途中で公用の駅馬を二十回乗り継ぎ、翌貞観十九(六四五)年の一月二十四日には、長安城外にその姿を現わしたのである。
 単独での行動ならいざしらず、荷駄も一緒に従えての旅程だ。実際の軍事活動でもこれほどの強行軍はそう滅多にあるものではないと、内心、大いに舌を巻いたものだが、その思いに冷や水を浴びせるかのように、長安に到着した玄奘からの第一声は、主上に拝謁させろという、半ば脅しだったことは先にも述べたとおりだ。
 これで彼の目論見が失敗していれば、
(それ見たことか!)
 と、多少こちらの留飲も下がろうというものだが、残念ながら、この主上からの詔を拝読する限り、玄奘はその望みの八割方を手にしてしまったようである。玄齢としては、玄奘の見事な手腕にただ感嘆するしかなかった。

【注】
 ※一 「于闐(ホータン)」
  シルクロードの一つ、西域南道にあった仏教王国。タリム盆地のタク 
 ラマカン砂漠の南に位置し、現在の中華人民共和国新彊ウイグル自治区
 にあたる。
 ※二 「敦煌」
  現在の中華人民共和国甘粛省北西部の都市。かつてシルクロードの分
 岐点として栄えたオアシス都市であり、近隣にある莫高窟とそこから出
 土した敦煌文書で有名。
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