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第一章(裏)
房玄齢、玄奘に感嘆す(弐)
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(だが、玄奘の手腕をもってすれば、それも当然か⁉)
とも玄齢は思いなおす。
まず、帰国する直前の段階で、朝廷にまだ己が罪を問う気があるかどうかを探るべく煙幕を張って試してみる狡猾さ。そして、一度決断するや、それを見事に実行してみせる行動力。さらには、無謀とも思える主上への拝謁に躊躇なく踏み込める胆力。どの点を取ってみても、僧侶らしからぬ卓越した才能だ。
実際、その才略と気概に惚れ込んだ主上は、拝謁を終えるや否や玄奘に対して、
「このまま還俗し、朕に仕えよ」
そう強引に口説いたのだが、玄奘は頑なにそれを固辞したらしい。すると主上は、
「それならこのまま高句麗の戦役に同行し、朕の相談役になってほしい」
と、さらに食い下がったのだが、これも玄奘にとっては無理な注文だった。僧侶の守るべき戒律では、戦闘を目にすることがそもそも許されていない。
「なに、これもならぬのか……」
主上は大いにご不満だったらしいが、さすがにこれ以上の無理強いはされなかった。網の中に入ってきた魚を料理するのに、時間は十分にあると判断されたのだろうか。しかし、当然、将来的な含みを残されていることは間違いない。
(この一癖ある男をあの者の監視に付けようとされていることが、それを示している)
主上の詔を携え、玄奘の翻訳事業の準備を支援するために玄齢のもとまで遣わされてきた許敬宗の全身を舐めるように見ながら、玄齢はそう裏を読んでいた。
単に翻訳事業の手伝いをさせるだけなら、礼部の役人でも貼り付けておけばよい。それなのに、わざわざ定州(※三)に駐屯する皇太子の補佐役に付けていたこの男を引き剝がし、玄奘のお目付け役に据えるということは、彼の懐に潜り込ませ、その言動を逐一監視・報告する役割を担っていると考えるのが自然だ。
(延族(許敬宗の字)なら、まさに適任だな)
主上がまだ秦王であった頃からの学士仲間だが、自分より一回り以上歳若で、性格的にも難があるために、玄齢自身はあまり信用を置いている相手ではないが、人を誑し込む巧さに関してだけはその能力を認めている。そんな複雑な評価を宰相から与えられていることを知っているのか、いつの間にか許敬宗の報告は始まっていた。
「経典の翻訳所として、主上がお選びにになられましたのは長安城内の弘福寺でございます」
この寺院は、主上がいまは亡き皇太后の供養のために建立されたものであり、翻訳事業が皇帝からの許可を得たものであることを示すには、まさに格好の場所だ。それだけ玄奘に対する主上の配慮は厚いということだろう。
「ですが、和上が主上に願い出られたのは、初めは嵩山の少林寺(※四)だったようです」
できれば世俗から離れた場所で、翻訳事業に没頭したい。それが玄奘の希望だったが、主上はそれを許されず、この世紀の大事業を己の目の届く場所で実施し、世に広く喧伝することを望み、最終的に弘福寺ということになったらしい。
「和上は翻訳場が京師のなかに決まったことがお気に召さなかったようで、『市井の民が物珍しさに集まり、騒ぎ立てられてはなにかと事業に障りが出て困る。警備の兵を常駐させてほしい』という注文が付けられてしまいました。その分、余計な物入りで困ります」
紙や墨、筆に硯といった用意しなければならない物品も膨大で、対高句麗の戦役でいくら金があっても足りないなか、
「経費をどのように工面したものか、本当に頭の痛いところで」
と、口ではこぼしてみせるものの、許敬宗の表情には余裕が見える。きっとそのあたりの算段は、主上の詔を笠に着て、どこぞの役所と既にうまく話をつけているのだろう。しかし、
「けれど、本当の問題は、この翻訳事業を玄奘和上の指示のもと、実務を補助してくれる碩学・俊才をいかに迅速に掻き集めるかということです」
ここに話が及ぶと、さすがの許敬宗も少々困ったような表情をみせた。世俗の雑事には長けている男だが、さすがに仏教界にまでは顔が広くないようだ。
「それは儂の方でなんとかしよう。任せておけ」
そう云って玄齢が許敬宗に頷いてみせると、彼もそれを期待していたのだろう。彼には珍しく、正直ほっとしたような顔をしてみせた。
仏教そのものに関心はないが、朝廷の長老たる玄齢の立場なら、仏教界の重鎮と呼ばれる者たちからも大なり小なり、色々と陳情を受けることも多い。そうした人脈を使えば、人材を集めることはそれほど難しくはないだろう。
(そうだ、あの者もそのなかに加えておこう……)
玄齢の脳裏に、不意にそんな考えが浮かんだ。會昌寺に住持する辯機という若年の僧だ。
(年こそまだ若いが、都のうちでもその学才は知られいる。決しておかしな人選ではない)
そんなふうに自ら言い聞かせるのは、そこに私的な思惑が絡んでいることを彼自身意識しているからだが、その思いに無理に蓋をして、玄齢はそのための具体的な手順を考え始めていた。
【注】
※三 「定州」
現在の中華人民共和国河北省定州市一帯
※四 「少林寺」
現在の中華人民共和国河南省にある寺院。禅宗の開祖、達磨による禅
の発祥の地と伝えられる
とも玄齢は思いなおす。
まず、帰国する直前の段階で、朝廷にまだ己が罪を問う気があるかどうかを探るべく煙幕を張って試してみる狡猾さ。そして、一度決断するや、それを見事に実行してみせる行動力。さらには、無謀とも思える主上への拝謁に躊躇なく踏み込める胆力。どの点を取ってみても、僧侶らしからぬ卓越した才能だ。
実際、その才略と気概に惚れ込んだ主上は、拝謁を終えるや否や玄奘に対して、
「このまま還俗し、朕に仕えよ」
そう強引に口説いたのだが、玄奘は頑なにそれを固辞したらしい。すると主上は、
「それならこのまま高句麗の戦役に同行し、朕の相談役になってほしい」
と、さらに食い下がったのだが、これも玄奘にとっては無理な注文だった。僧侶の守るべき戒律では、戦闘を目にすることがそもそも許されていない。
「なに、これもならぬのか……」
主上は大いにご不満だったらしいが、さすがにこれ以上の無理強いはされなかった。網の中に入ってきた魚を料理するのに、時間は十分にあると判断されたのだろうか。しかし、当然、将来的な含みを残されていることは間違いない。
(この一癖ある男をあの者の監視に付けようとされていることが、それを示している)
主上の詔を携え、玄奘の翻訳事業の準備を支援するために玄齢のもとまで遣わされてきた許敬宗の全身を舐めるように見ながら、玄齢はそう裏を読んでいた。
単に翻訳事業の手伝いをさせるだけなら、礼部の役人でも貼り付けておけばよい。それなのに、わざわざ定州(※三)に駐屯する皇太子の補佐役に付けていたこの男を引き剝がし、玄奘のお目付け役に据えるということは、彼の懐に潜り込ませ、その言動を逐一監視・報告する役割を担っていると考えるのが自然だ。
(延族(許敬宗の字)なら、まさに適任だな)
主上がまだ秦王であった頃からの学士仲間だが、自分より一回り以上歳若で、性格的にも難があるために、玄齢自身はあまり信用を置いている相手ではないが、人を誑し込む巧さに関してだけはその能力を認めている。そんな複雑な評価を宰相から与えられていることを知っているのか、いつの間にか許敬宗の報告は始まっていた。
「経典の翻訳所として、主上がお選びにになられましたのは長安城内の弘福寺でございます」
この寺院は、主上がいまは亡き皇太后の供養のために建立されたものであり、翻訳事業が皇帝からの許可を得たものであることを示すには、まさに格好の場所だ。それだけ玄奘に対する主上の配慮は厚いということだろう。
「ですが、和上が主上に願い出られたのは、初めは嵩山の少林寺(※四)だったようです」
できれば世俗から離れた場所で、翻訳事業に没頭したい。それが玄奘の希望だったが、主上はそれを許されず、この世紀の大事業を己の目の届く場所で実施し、世に広く喧伝することを望み、最終的に弘福寺ということになったらしい。
「和上は翻訳場が京師のなかに決まったことがお気に召さなかったようで、『市井の民が物珍しさに集まり、騒ぎ立てられてはなにかと事業に障りが出て困る。警備の兵を常駐させてほしい』という注文が付けられてしまいました。その分、余計な物入りで困ります」
紙や墨、筆に硯といった用意しなければならない物品も膨大で、対高句麗の戦役でいくら金があっても足りないなか、
「経費をどのように工面したものか、本当に頭の痛いところで」
と、口ではこぼしてみせるものの、許敬宗の表情には余裕が見える。きっとそのあたりの算段は、主上の詔を笠に着て、どこぞの役所と既にうまく話をつけているのだろう。しかし、
「けれど、本当の問題は、この翻訳事業を玄奘和上の指示のもと、実務を補助してくれる碩学・俊才をいかに迅速に掻き集めるかということです」
ここに話が及ぶと、さすがの許敬宗も少々困ったような表情をみせた。世俗の雑事には長けている男だが、さすがに仏教界にまでは顔が広くないようだ。
「それは儂の方でなんとかしよう。任せておけ」
そう云って玄齢が許敬宗に頷いてみせると、彼もそれを期待していたのだろう。彼には珍しく、正直ほっとしたような顔をしてみせた。
仏教そのものに関心はないが、朝廷の長老たる玄齢の立場なら、仏教界の重鎮と呼ばれる者たちからも大なり小なり、色々と陳情を受けることも多い。そうした人脈を使えば、人材を集めることはそれほど難しくはないだろう。
(そうだ、あの者もそのなかに加えておこう……)
玄齢の脳裏に、不意にそんな考えが浮かんだ。會昌寺に住持する辯機という若年の僧だ。
(年こそまだ若いが、都のうちでもその学才は知られいる。決しておかしな人選ではない)
そんなふうに自ら言い聞かせるのは、そこに私的な思惑が絡んでいることを彼自身意識しているからだが、その思いに無理に蓋をして、玄齢はそのための具体的な手順を考え始めていた。
【注】
※三 「定州」
現在の中華人民共和国河北省定州市一帯
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現在の中華人民共和国河南省にある寺院。禅宗の開祖、達磨による禅
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