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第二章
玄奘、辯機と校正す(壱)
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読み上げられる草稿を度々止めて、玄奘は幾許かの修正を指示する。その都度、律儀に別の巻に書き写しながら、辯機は細かな点まで玄奘に確認していった。
この報告書で触れているのは、玄奘自ら足を踏み入れ、見聞した二十八か国だけではなく、天竺や西域以外にも伝聞したことのある百余国もの情報を含んでいる。その内容も広範にわたり、仏教に関する各国の事情や地理・風俗、さらには政治的な事柄にまで言及しており、本来であれば、細かなところにまで気を配って記述したいところなのだが、「ともかく急げ」との主上からの思し召しだ。記憶をなんとか掘り起こし、少しでも正しい形に近づけていくしかない。
それを心得ているからか、辯機はさらに何点か詳細に確認すると、玄奘の意向を踏まえた修正案に作り直すべく、一旦、自身にあてがわれている坊へと戻っていく。すると、それと入れ替わるようにして、馬玄智が椀を乗せた盆を手にして、玄奘の元に姿をみせた。おそらく二人のやり取りが一段落つくまで、どこか表で控えていたのだろう。それが証拠に、
「和上、白湯をどうぞ」
そう言って渡された椀のなかの湯は、すっかり冷めていた。
幼い頃から玄奘が手解きをしてやっていたこともあり、このほんの一年ほどの間に玄智の漢語は驚くほどに上達している。容貌にはどうしても天竺人の母の気配が濃厚に漂っているが、言葉だけなら本朝人のなかに混じっても、さほど違和感を覚えることはないだろう。
まだ少年といってもよい年齢だが、玄智に対する玄奘の信頼は厚い。いや、信頼という言葉よりも、親愛といった方が正確かもしれない。なぜなら玄智は、高昌王の命を受け、天竺まで玄奘と行動をともにしてくれた僧侶が、現地の女性との間に残した忘れ形見なのである。
当然その僧は天竺で還俗したわけで、本当なら玄奘との関係も疎遠になっておかしくはなかったのだが、異国の地で学ぶ玄奘にとって、玄智の父は数少ない旧知の人間であり、その後も親交は続いたのだ。そして、玄智がまだ八歳にもならなかった頃、彼は疫病に倒れて瀕死の状態に陥った際、玄奘に息子の行く末を託したのである。
将来、玄奘が中国に帰国することがあれば、息子を同行させてくれないかと彼が懇願したのには訳があった。彼が天竺で娶った女性、玄智の母が、現地では卑しい身分とされる階級の出身だったからだ。当時の北天竺では、ヒンドゥー教が仏教を凌ぐ地位を確立しつつあった時期であり、それに基づくカースト制も固まりつつあった。玄智の父は、こうした状況を懸念して、息子の将来をまったく何の縁(ゆかり)も柵(しがらみ)もない中国での人生に賭けたのである。
その思いは、玄奘にも良く理解できた。だから、その五年後、実際に『唐』に帰国することになった際、悩みながらも玄智を伴ってきたのだが、
(しかし、本当にそれで良かったのだろうか?)
いまもその思いは拭い去れない。
確かに、天竺での玄智の未来は明るいものではなかったかもしれない。しかし、母親や親身になってくれる一族の者たちもいたのだ。いくら父親の遺言であり、玄智もそれを強く望んだからといって、やはり無情ではなかったかと、いまも玄奘に悔やむ気持ちは残されていた。
(だが、あの子が身近にいてくれるお蔭で、私の心が癒されていることも事実だ)
仏法に捧げた身とはいえ、玄奘も人間である。孤独な気持ちに蝕まれることも多い。だが、そんなときに玄智と天竺での他愛もない四方山話を交わすことで、玄奘の心は和んだ。彼にとって玄智という少年は、私的な部分でかけがえのない存在であると云えた。
「それでは、なにかご用がございましたら、お呼びください」
軽く頭を下げて、玄智は静かに坊から下がっていく。
玄奘が仕事に専念している時はいつもこうだ。必要最低限の用だけを済ませると、決して余計なことは話さずに姿を消すが、必ずどこか側近くに控えている。そうした彼の佇まいが、玄奘の心に平穏をもたらしてくれるのだ。
碗の白湯でゆっくりと喉を湿らしながら、そうして二刻(三十分程度)ほども穏やかに玄奘が瞑想していると、
「和上、これでいかがでしょう?」
指示を受けた箇所の修正案を巻物にまとめ、改めて辯機が玄奘の前に姿を現した。
「うむ。手間をかけたな」
そう一言添え、玄奘はそれに目を走らせると、
「そうだな、ここと、……後、この部分を修正してもらおうか」
第二巻の健駄邏国(=ガンダーラ、※二)と第十巻の瞻波国(=チャンパー、※三)に関する記述に、玄奘は再度の修正を指示する。だが、その他の部分については概ね了として、辯機に笑みをみせた。
「それでは、この部分を直し終えましたら、いつなりとも主上に奉呈することは叶いますが、どういたしましょうか?」
「うむ、主上にお見せするのなら、なるべく早い方がよかろう」
そう鷹揚に答えた玄奘だったが、一瞬厳しい表情へと変わり、
「で、あちらの方はどうなっている?」
声を潜めて、そう辯機に問いかける。
「はい、そちらも抜かりなく」
合わせるように小声で辯機が答えると、ようやく玄奘は表情を緩めた。
その穏やかな笑顔を目にしただけで、
(ああ、私はいま、本当に和上のお役に立っている!)
辯機の全身はいま、打ち震えるような快感にとらわれていた。
朝廷に提出する公の報告の取りまとめを手伝ってほしい。そう頼まれただけでも青天の霹靂だったのに、それとは別に、誰にも秘密でこの件でも力を貸してもらえないかと、玄奘から直々に頭を下げられたあの日の感激を、辯機はいまでも忘れることができない。そして、その感覚は、二人だけで秘密裏に作業を進めていくうちに、より一段と高まっている。
(やはり、この方の膝下で仏の道に立ち戻ろうと決意したことに間違いはなかった‼)
これまでの仏道人生は、常に迷走ばかりだったと、辯機の懊悩は深い。
十五の年に道岳和尚の門を叩いて以来、本当の意味で、自分が仏の道に精進していたと云える日々が、果たしてどれほどあっただろうか。しかし、ようやくいま、すべての雑念を捨てて学び、尽くしたいと思える本物の師に出会えたのだ。
(この機会を絶対に逃したくない)
玄奘と云う生涯の師に出会えた幸運に、辯機は心の底から感謝していた。
【注】
※一 「ヒンドゥー教」
紀元前二〇〇〇年頃にアーリア人がインド北西部に侵入し、紀元前
一五〇〇年頃に成立したヴェーダに基づくバラモン教を起源とする宗
教。紀元前五世紀頃の政治的変化や仏教の隆盛により、民間の宗教を取
り入れ、ヒンドゥー教へと変化した。
紀元前五~四世紀に広まり、紀元後四~五世紀には仏教を凌ぐように
なる。四世紀のグプタ朝時代に体系化され、民衆生活に密着した固有の
神々への信仰として発展・定着した。
※二 「健駄邏国(ガンダーラ)」
現在のパキスタン北西部に存在した古代王国。首都バクラームなどを
中心に栄えた。
カーブル川北岸に位置し、その西端は現在のアフガニスタンの首都カ
ーブル付近まで、東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部ま
で達していた。
ガンダーラ王国は紀元前六世紀から十一世紀に存続し、一世紀から五
世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。
※三 「瞻波国(チャンパー)」
前六〇〇年頃北インドに栄えた十六大国の一つ、アンガ国の首都チャ
ンパーの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にもインドの
六大都市の一つとして栄えた。
七世紀前半に玄奘がここを訪れ、瞻波国として「大唐西域記」に記し
ている。玄奘がこの地を訪れた際、仏教寺院が損壊しつつも存在してい
たことが記録されている。
この報告書で触れているのは、玄奘自ら足を踏み入れ、見聞した二十八か国だけではなく、天竺や西域以外にも伝聞したことのある百余国もの情報を含んでいる。その内容も広範にわたり、仏教に関する各国の事情や地理・風俗、さらには政治的な事柄にまで言及しており、本来であれば、細かなところにまで気を配って記述したいところなのだが、「ともかく急げ」との主上からの思し召しだ。記憶をなんとか掘り起こし、少しでも正しい形に近づけていくしかない。
それを心得ているからか、辯機はさらに何点か詳細に確認すると、玄奘の意向を踏まえた修正案に作り直すべく、一旦、自身にあてがわれている坊へと戻っていく。すると、それと入れ替わるようにして、馬玄智が椀を乗せた盆を手にして、玄奘の元に姿をみせた。おそらく二人のやり取りが一段落つくまで、どこか表で控えていたのだろう。それが証拠に、
「和上、白湯をどうぞ」
そう言って渡された椀のなかの湯は、すっかり冷めていた。
幼い頃から玄奘が手解きをしてやっていたこともあり、このほんの一年ほどの間に玄智の漢語は驚くほどに上達している。容貌にはどうしても天竺人の母の気配が濃厚に漂っているが、言葉だけなら本朝人のなかに混じっても、さほど違和感を覚えることはないだろう。
まだ少年といってもよい年齢だが、玄智に対する玄奘の信頼は厚い。いや、信頼という言葉よりも、親愛といった方が正確かもしれない。なぜなら玄智は、高昌王の命を受け、天竺まで玄奘と行動をともにしてくれた僧侶が、現地の女性との間に残した忘れ形見なのである。
当然その僧は天竺で還俗したわけで、本当なら玄奘との関係も疎遠になっておかしくはなかったのだが、異国の地で学ぶ玄奘にとって、玄智の父は数少ない旧知の人間であり、その後も親交は続いたのだ。そして、玄智がまだ八歳にもならなかった頃、彼は疫病に倒れて瀕死の状態に陥った際、玄奘に息子の行く末を託したのである。
将来、玄奘が中国に帰国することがあれば、息子を同行させてくれないかと彼が懇願したのには訳があった。彼が天竺で娶った女性、玄智の母が、現地では卑しい身分とされる階級の出身だったからだ。当時の北天竺では、ヒンドゥー教が仏教を凌ぐ地位を確立しつつあった時期であり、それに基づくカースト制も固まりつつあった。玄智の父は、こうした状況を懸念して、息子の将来をまったく何の縁(ゆかり)も柵(しがらみ)もない中国での人生に賭けたのである。
その思いは、玄奘にも良く理解できた。だから、その五年後、実際に『唐』に帰国することになった際、悩みながらも玄智を伴ってきたのだが、
(しかし、本当にそれで良かったのだろうか?)
いまもその思いは拭い去れない。
確かに、天竺での玄智の未来は明るいものではなかったかもしれない。しかし、母親や親身になってくれる一族の者たちもいたのだ。いくら父親の遺言であり、玄智もそれを強く望んだからといって、やはり無情ではなかったかと、いまも玄奘に悔やむ気持ちは残されていた。
(だが、あの子が身近にいてくれるお蔭で、私の心が癒されていることも事実だ)
仏法に捧げた身とはいえ、玄奘も人間である。孤独な気持ちに蝕まれることも多い。だが、そんなときに玄智と天竺での他愛もない四方山話を交わすことで、玄奘の心は和んだ。彼にとって玄智という少年は、私的な部分でかけがえのない存在であると云えた。
「それでは、なにかご用がございましたら、お呼びください」
軽く頭を下げて、玄智は静かに坊から下がっていく。
玄奘が仕事に専念している時はいつもこうだ。必要最低限の用だけを済ませると、決して余計なことは話さずに姿を消すが、必ずどこか側近くに控えている。そうした彼の佇まいが、玄奘の心に平穏をもたらしてくれるのだ。
碗の白湯でゆっくりと喉を湿らしながら、そうして二刻(三十分程度)ほども穏やかに玄奘が瞑想していると、
「和上、これでいかがでしょう?」
指示を受けた箇所の修正案を巻物にまとめ、改めて辯機が玄奘の前に姿を現した。
「うむ。手間をかけたな」
そう一言添え、玄奘はそれに目を走らせると、
「そうだな、ここと、……後、この部分を修正してもらおうか」
第二巻の健駄邏国(=ガンダーラ、※二)と第十巻の瞻波国(=チャンパー、※三)に関する記述に、玄奘は再度の修正を指示する。だが、その他の部分については概ね了として、辯機に笑みをみせた。
「それでは、この部分を直し終えましたら、いつなりとも主上に奉呈することは叶いますが、どういたしましょうか?」
「うむ、主上にお見せするのなら、なるべく早い方がよかろう」
そう鷹揚に答えた玄奘だったが、一瞬厳しい表情へと変わり、
「で、あちらの方はどうなっている?」
声を潜めて、そう辯機に問いかける。
「はい、そちらも抜かりなく」
合わせるように小声で辯機が答えると、ようやく玄奘は表情を緩めた。
その穏やかな笑顔を目にしただけで、
(ああ、私はいま、本当に和上のお役に立っている!)
辯機の全身はいま、打ち震えるような快感にとらわれていた。
朝廷に提出する公の報告の取りまとめを手伝ってほしい。そう頼まれただけでも青天の霹靂だったのに、それとは別に、誰にも秘密でこの件でも力を貸してもらえないかと、玄奘から直々に頭を下げられたあの日の感激を、辯機はいまでも忘れることができない。そして、その感覚は、二人だけで秘密裏に作業を進めていくうちに、より一段と高まっている。
(やはり、この方の膝下で仏の道に立ち戻ろうと決意したことに間違いはなかった‼)
これまでの仏道人生は、常に迷走ばかりだったと、辯機の懊悩は深い。
十五の年に道岳和尚の門を叩いて以来、本当の意味で、自分が仏の道に精進していたと云える日々が、果たしてどれほどあっただろうか。しかし、ようやくいま、すべての雑念を捨てて学び、尽くしたいと思える本物の師に出会えたのだ。
(この機会を絶対に逃したくない)
玄奘と云う生涯の師に出会えた幸運に、辯機は心の底から感謝していた。
【注】
※一 「ヒンドゥー教」
紀元前二〇〇〇年頃にアーリア人がインド北西部に侵入し、紀元前
一五〇〇年頃に成立したヴェーダに基づくバラモン教を起源とする宗
教。紀元前五世紀頃の政治的変化や仏教の隆盛により、民間の宗教を取
り入れ、ヒンドゥー教へと変化した。
紀元前五~四世紀に広まり、紀元後四~五世紀には仏教を凌ぐように
なる。四世紀のグプタ朝時代に体系化され、民衆生活に密着した固有の
神々への信仰として発展・定着した。
※二 「健駄邏国(ガンダーラ)」
現在のパキスタン北西部に存在した古代王国。首都バクラームなどを
中心に栄えた。
カーブル川北岸に位置し、その西端は現在のアフガニスタンの首都カ
ーブル付近まで、東端はインダス川を越えてカシミール渓谷の境界部ま
で達していた。
ガンダーラ王国は紀元前六世紀から十一世紀に存続し、一世紀から五
世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。
※三 「瞻波国(チャンパー)」
前六〇〇年頃北インドに栄えた十六大国の一つ、アンガ国の首都チャ
ンパーの遺址とされ、マガダ国による占領後の釈迦の時代にもインドの
六大都市の一つとして栄えた。
七世紀前半に玄奘がここを訪れ、瞻波国として「大唐西域記」に記し
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