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第二章
玄奘、辯機と校正す(参)
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報告書の編纂を全面的に辯機に委ね、譯経作業に心血を注ぐことができたお蔭で、玄奘はこの時点で「大菩薩蔵論」二十巻、「仏地経」一巻、「六門陀羅尼経」一巻、「顕揚聖教論」二十巻、「大乗阿毘達磨雑集論」十六巻の漢訳を終え、主上に奉呈できる準備を既に整えていた。
これをあわせて主上の御高覧を仰ぐことにより、少しでも仏教への関心を高めてもらおうというのが玄奘の腹積もりである。主上の仏教に対する関心は、あくまで学問の探究に近いものであり、決して信仰という領域には足を踏み入れていない。
そんな主上に副次的にでも仏教に親しんでもらうには、
(政治的に利用されるかもしれない報告書をお届けするのも、一つの方便だ‼)
玄奘はそこまでいまの状況を割り切っていた。
「で、辯機よ。主上への御報告だが、旬日のうちにも参内することが可能かどうか、まずはお伺いを立ててみてはくれぬか」
「えっ、参内されるのでございますか⁉」
辯機は驚いたような表情を見せた。
「報告書をその筋に提出するだけではいけませぬか?」
「いや、それはなるまい」
玄奘は醒めた表情を見せ、ゆっくりと首を横に振る。
「ご披見賜れば、その内容について、必ずご下問があろう」
正式な報告書はともかく、もう一方に関しては、直ぐにでも確認されたいことが陛下にはきっとおありになるはずだ。
「そのとき、その場でお答えできるよう傍らに控えておらねば、せっかくご報告申し上げる意義が半減してしまうではないか」
玄奘は辯機を静かに諭した。このあたりの呼吸を悟るには、辯機はまだ若い。彼が真に成長するまで、主上のお相手は一身に引き受けねばなるまいと、玄奘は腹をくくっている。いまはまだ玄奘個人に向けられているにすぎない興味を、いかに仏教への帰依に結び付けているか。困難な命題ではあるが、それを現実のものにしてみせる自信が玄奘にはあった。
(儂は覇者の扱いに慣れている‼)
天竺においても、その絶対的な権力者、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)の信頼を最終的に勝ち取ることができたことが、その自信の拠り所となっていることに間違いはなかった。
王が玄奘に関心を持ってくれたそもそもの始まりは、遥か東方から訪れた異国の僧に対する単なる好奇心からだったはずである。しかし、最後王から王から仏法の師と仰がれるところにまで、その意識は昇華したのだ。
(王の心に響いた儂の言葉が、陛下にお判りいただけないはずがない)
玄奘は主上に対して、どこか戒日王と同じような臭いを感じ取っていた。偉大なる帝王がその晩年を迎え、満たされない何かを必死で追い求めている焦燥感のようなものを。
既に遠くなりかけている天竺での記憶を、玄奘は呼び起こす。
天竺を訪れた玄奘にとって予想外だったのは、ヒンドゥー教の隆盛がみられる一方で、仏教はその教義の研究が中心となっており、宗教としては、既に民衆から遠く遊離した存在へと変質してしまっていたことである。そんな仏教の唯一の救い主となっていたのが、当時、天竺北部の統一に成功し、賢帝の誉れ高かった戒日王だった。彼自身、当初はシヴァ神を奉じるヒンドゥー教徒だったにもかかわらず、仏教を主題とする戯曲を著わすなど、仏教に対しても積極的に興味を抱き、教団への援助を続けてくれていたのである。
貞観五(六三一)年の夏、こうした状況下にあった天竺にようやく到着した玄奘は、まず、グプタ朝(※四)の頃から続くナーランダ僧院において、シーラパドラ(戒賢)という老僧に師事することとなった。この僧院には各地から数千人もの学僧が集い、仏教教学がその中心ではあったが、それ以外にもヒンドゥ教の元となったバラモン教の教学や哲学、医学、天文学、さらには数学の研究なども行われており、現代風に表現するなら総合大学のような性格を有する研究機関となっていた。
当然、そこに入学するためには厳しい試験が待ち受けており、それに挑戦する俊英たちの実に八割が敗北し、早々に帰国させられたと云われている。また、無事に入学できたとしても、互いに切磋琢磨する日々が続き、多くの者が挫折する一方で、学業と徳行に秀でた者は、多くの栄光を享受することもできた。無論、玄奘はその後者で、学識とその徳の高さを称賛されると、すべての雑徭を免除され、外出するに際しては、象の輿に乗ることが許されるなど、僧院内でも十人にしか許されない、特別待遇を受けるようになっていた。
すると、その噂が戒日王の元にも届いたのだろう。丁度この頃、遥か東方に『唐』という新たな大国が誕生したことに関心を寄せていた王は、この国から訪れた求法僧、玄奘に対して非常な興味を抱き、対面することを望んだのである。
王との最初の謁見が叶ったあの日のことを、玄奘はいまでもはっきりと思い出すことができる。このとき、王は四十代後半、北天竺の統一に成功して君臨すること既に三十年を経過し、その威厳は他を圧するものがあった。
にもかかわらず、玄奘はこの荘厳なる覇者に対して、なぜかその栄光が、
(そう長くは続かないのではないか⁉)
そんな不吉な予感がしたことを記憶している。ただ、それが何に由来するものなのか、いまとなっては彼にも判らない。そんな王から、あの日、玄奘はこう尋ねられたのだ。
「法師は支那から来られたという。儂の聞くところでは、汝の国に聖人が出現し、『秦王破陣楽』なる楽を作って称えられているとのことだが、試みに私のために、その秦王の人となりを話してはくれぬか」
にこやかな表情でそう問いかける晦日王の瞳には、少年の頃なら誰もが持っていたはずの好奇の色が満ちていた。噂でしか届かない『唐』の真実の情報に、よほど飢えていたのだろう。
これに対して、自分の持っている知識の範囲内で、玄奘は、主上の秦王時代の神の如き武勇と、即位後の理想的な政治について語って聞かせたのだが、そこには多少の誇張と、幾許かの脚色が含まれていたことは否めない。玄奘が『唐』から出国したのは貞観三(六二九)年のことで、それ以降の情報は持ち合わせていなかったし、秦王時代の武勇伝に関しても、仏道修行に励んでいた玄奘には、はるか遠い世界の出来事でしかなかったからである。
だが、それでも、漢族の一人として、民族の英雄を偶像化し、祖国を理想的な国として他国の人に知ってもらいたいという意識を持つことは、決して悪いことではないはずだと、玄奘はいまもそう信じている。
「我が国の衆生がみな『秦王破陣楽』を歌うのは、長く乱れていた世を平和に導き、安寧の世を築いてくれた君主の恩徳を懐かしみ、心から感謝しているからです」
『秦王破陣楽』とは、秦王時代の主上が劉武周と戦った際に作曲されたもので、『唐』ではその御代を通じて、宴会の時には必ず舞い歌われたと云い、いわば主上が武将として絶頂期にあった頃に作られたものである。
もしも、このときの多少潤色された解説が、それまで以上に王の東方への関心を高め、この五年後、『唐』に向けて歴史的な使節を送ったことにつながったのだとすれば、その立役者は間違いなく玄奘であったといえるだろう。
【注】
※四 「グプタ朝」
三二〇年~五五〇年頃まで、パータリプトラを都として栄えたインド
の王朝
これをあわせて主上の御高覧を仰ぐことにより、少しでも仏教への関心を高めてもらおうというのが玄奘の腹積もりである。主上の仏教に対する関心は、あくまで学問の探究に近いものであり、決して信仰という領域には足を踏み入れていない。
そんな主上に副次的にでも仏教に親しんでもらうには、
(政治的に利用されるかもしれない報告書をお届けするのも、一つの方便だ‼)
玄奘はそこまでいまの状況を割り切っていた。
「で、辯機よ。主上への御報告だが、旬日のうちにも参内することが可能かどうか、まずはお伺いを立ててみてはくれぬか」
「えっ、参内されるのでございますか⁉」
辯機は驚いたような表情を見せた。
「報告書をその筋に提出するだけではいけませぬか?」
「いや、それはなるまい」
玄奘は醒めた表情を見せ、ゆっくりと首を横に振る。
「ご披見賜れば、その内容について、必ずご下問があろう」
正式な報告書はともかく、もう一方に関しては、直ぐにでも確認されたいことが陛下にはきっとおありになるはずだ。
「そのとき、その場でお答えできるよう傍らに控えておらねば、せっかくご報告申し上げる意義が半減してしまうではないか」
玄奘は辯機を静かに諭した。このあたりの呼吸を悟るには、辯機はまだ若い。彼が真に成長するまで、主上のお相手は一身に引き受けねばなるまいと、玄奘は腹をくくっている。いまはまだ玄奘個人に向けられているにすぎない興味を、いかに仏教への帰依に結び付けているか。困難な命題ではあるが、それを現実のものにしてみせる自信が玄奘にはあった。
(儂は覇者の扱いに慣れている‼)
天竺においても、その絶対的な権力者、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)の信頼を最終的に勝ち取ることができたことが、その自信の拠り所となっていることに間違いはなかった。
王が玄奘に関心を持ってくれたそもそもの始まりは、遥か東方から訪れた異国の僧に対する単なる好奇心からだったはずである。しかし、最後王から王から仏法の師と仰がれるところにまで、その意識は昇華したのだ。
(王の心に響いた儂の言葉が、陛下にお判りいただけないはずがない)
玄奘は主上に対して、どこか戒日王と同じような臭いを感じ取っていた。偉大なる帝王がその晩年を迎え、満たされない何かを必死で追い求めている焦燥感のようなものを。
既に遠くなりかけている天竺での記憶を、玄奘は呼び起こす。
天竺を訪れた玄奘にとって予想外だったのは、ヒンドゥー教の隆盛がみられる一方で、仏教はその教義の研究が中心となっており、宗教としては、既に民衆から遠く遊離した存在へと変質してしまっていたことである。そんな仏教の唯一の救い主となっていたのが、当時、天竺北部の統一に成功し、賢帝の誉れ高かった戒日王だった。彼自身、当初はシヴァ神を奉じるヒンドゥー教徒だったにもかかわらず、仏教を主題とする戯曲を著わすなど、仏教に対しても積極的に興味を抱き、教団への援助を続けてくれていたのである。
貞観五(六三一)年の夏、こうした状況下にあった天竺にようやく到着した玄奘は、まず、グプタ朝(※四)の頃から続くナーランダ僧院において、シーラパドラ(戒賢)という老僧に師事することとなった。この僧院には各地から数千人もの学僧が集い、仏教教学がその中心ではあったが、それ以外にもヒンドゥ教の元となったバラモン教の教学や哲学、医学、天文学、さらには数学の研究なども行われており、現代風に表現するなら総合大学のような性格を有する研究機関となっていた。
当然、そこに入学するためには厳しい試験が待ち受けており、それに挑戦する俊英たちの実に八割が敗北し、早々に帰国させられたと云われている。また、無事に入学できたとしても、互いに切磋琢磨する日々が続き、多くの者が挫折する一方で、学業と徳行に秀でた者は、多くの栄光を享受することもできた。無論、玄奘はその後者で、学識とその徳の高さを称賛されると、すべての雑徭を免除され、外出するに際しては、象の輿に乗ることが許されるなど、僧院内でも十人にしか許されない、特別待遇を受けるようになっていた。
すると、その噂が戒日王の元にも届いたのだろう。丁度この頃、遥か東方に『唐』という新たな大国が誕生したことに関心を寄せていた王は、この国から訪れた求法僧、玄奘に対して非常な興味を抱き、対面することを望んだのである。
王との最初の謁見が叶ったあの日のことを、玄奘はいまでもはっきりと思い出すことができる。このとき、王は四十代後半、北天竺の統一に成功して君臨すること既に三十年を経過し、その威厳は他を圧するものがあった。
にもかかわらず、玄奘はこの荘厳なる覇者に対して、なぜかその栄光が、
(そう長くは続かないのではないか⁉)
そんな不吉な予感がしたことを記憶している。ただ、それが何に由来するものなのか、いまとなっては彼にも判らない。そんな王から、あの日、玄奘はこう尋ねられたのだ。
「法師は支那から来られたという。儂の聞くところでは、汝の国に聖人が出現し、『秦王破陣楽』なる楽を作って称えられているとのことだが、試みに私のために、その秦王の人となりを話してはくれぬか」
にこやかな表情でそう問いかける晦日王の瞳には、少年の頃なら誰もが持っていたはずの好奇の色が満ちていた。噂でしか届かない『唐』の真実の情報に、よほど飢えていたのだろう。
これに対して、自分の持っている知識の範囲内で、玄奘は、主上の秦王時代の神の如き武勇と、即位後の理想的な政治について語って聞かせたのだが、そこには多少の誇張と、幾許かの脚色が含まれていたことは否めない。玄奘が『唐』から出国したのは貞観三(六二九)年のことで、それ以降の情報は持ち合わせていなかったし、秦王時代の武勇伝に関しても、仏道修行に励んでいた玄奘には、はるか遠い世界の出来事でしかなかったからである。
だが、それでも、漢族の一人として、民族の英雄を偶像化し、祖国を理想的な国として他国の人に知ってもらいたいという意識を持つことは、決して悪いことではないはずだと、玄奘はいまもそう信じている。
「我が国の衆生がみな『秦王破陣楽』を歌うのは、長く乱れていた世を平和に導き、安寧の世を築いてくれた君主の恩徳を懐かしみ、心から感謝しているからです」
『秦王破陣楽』とは、秦王時代の主上が劉武周と戦った際に作曲されたもので、『唐』ではその御代を通じて、宴会の時には必ず舞い歌われたと云い、いわば主上が武将として絶頂期にあった頃に作られたものである。
もしも、このときの多少潤色された解説が、それまで以上に王の東方への関心を高め、この五年後、『唐』に向けて歴史的な使節を送ったことにつながったのだとすれば、その立役者は間違いなく玄奘であったといえるだろう。
【注】
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