玄奘遷化【その栄光と残照】

織田正弥

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第四章

王玄策、天竺で躍動す(壱)

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「奸臣、阿羅那順(アルジュナ)を引き立て、王長史は来月の中頃には、京師に凱旋する予定とのことでございます‼」
 緊張した面持ちながら、報告する兵部侍郎(※一)、張詮機の声音はどこかしら弾んでいた。尤も、いまや朝廷随一の権力者である長孫無忌に対して、遥か異国での戦闘とはいえ、勝ち戦の報告ができるとなれば、自然と浮かれてしまうのを咎めるのは野暮というものだろう。なにしろ、実に稀にみる逆転劇なのだから。
 当初、『唐』の使節団一行が天竺国境付近で軍勢の襲撃を受け、使節団全員が死亡という第一報のあったことから混乱は始まったのだ。無論、朝廷はその対応に追われ、東方の高句麗との戦線がまだ終息していないなか、
「すわ、今度は西方か⁉」
と、西域都護府に臨時の出兵を命じるなど、百官みな狼狽していたところに、今度は一転して、正使・副使はともに無事に生存との続報である。
 それでなんとか愁眉を開き、善後策を検討すべく、ようやく主上のご臨席を得て朝議を催そうとしていた矢先に、続いて今度は生き延びた正使の王玄策が、あろうことか周辺の友好国から兵力を借りて反転攻勢に転じ、敵を瞬く間に打ち破ったという朗報である。
 その後も勝利に関する詳細な報告は続き、ついには敵の将帥を捕虜として凱旋するとの報が本日もたらされたわけである。兵部としては、国内の兵力をまったく用いることなく、最高の戦果だけを得られたのだから、まさに棚ぼたと称すべきところで、笑いが止まらないに違いない。
 無論、無忌としても大いに喜ぶべきところなのだが、
「ご苦労。報告、大儀であった」
 満面の笑みで、執務室から退出していく張侍郎を見送った彼の心の内では、なにかしら喉の奥に引っかかる魚の小骨のような、妙な違和感があった。
(この一件、どうしてこんな波斯の幻術のような展開になった?)
 無忌には、それが不思議でならない。
 ことの直接的な発端は、昨年の末、右衛率府長史(※二)の王玄策が使節として天竺へと派遣されたことだが、実は、天竺と本朝との間に本格的な修好関係が生まれたのは、それほど古い話ではない。その始まりは、貞観十五(六四一)年に北天竺に覇を唱える王者、尸羅逸多王(戒日王、ハルシャ・ヴァルダナ)が使者を『唐』へ派遣してきたことにあった。
 それまで特になんの交流もなかったのに、戒日王が突然、我が国に修好を求めてきた背景には、天竺に遊学し、その才徳を戒日王に愛された玄奘という僧侶の存在があると、当時、朝廷内では専らの噂となっていたものだ。それというのも、戒日王の使者たちの口から、しばしばその名が語られていたからである。戒日王からの諮問を受けた際、玄奘が語った東方の大国とその聖王に関する情報が王の興味を惹いたことで、使節の来訪が現実のものとなったのだという。
(陛下が玄奘の名を記憶に留められ、興味を持たれるようになったのは、まずあれが始まりだったろうか、……)
 だが、あの時点では、その関心もまだ漠然としたものだったに違いない。そして、玄奘が本朝に帰国し、実際にその人物を目の当たりにしてみると、想像していたよりもはるかな傑物であったことは嬉しい誤算だったはずで、決して一目惚れというような単純な話ではない。
 かなり以前から玄奘という人間に関する情報を集め、その属性を把握していたからこそ、いまの過剰な信頼につながっている。無忌はそう考えていた。
 一方、無忌はと云えば、これまで玄奘と会話を交わしたことは幾度となくあり、その知識と学才に感心はしていたが、その人物そのものに主上ほど注意を払うことはなかった。
(ああ、この者が天竺王に我が国との交流を勧めたという僧侶か・・・・・・)
 と、頭の端に留めていた程度である。
 しかし、いま改めて考え直してみると、今回、この騒動が勃発するに至ったのも、天竺と本朝との交流がこれほど頻繁かつ本格的なものとなっていたからであり、そこにはどうしても玄奘の存在を抜きにしては語ることができない。
 天竺から初めて訪れた使者に対し、主上はその返礼として、雲騎尉の粱懐璥なる者を派遣したのだが、この使者が到着すると、戒日王は非常に驚き、国人にこう尋ねたと伝わっている。
「これまで摩訶震旦(=中国)からの使いが我が国に来たことがあったか?」
 実のところ戒日王にとってみても、いざ中国に向けて使者を送ってはみたものの、お伽噺の国を相手にしているような感覚で、本当に返事があろうとは思っていなかったのかも知れない。それほど両国間の公式な使節の往来は画期的な出来事だったわけで、玄奘の果たした役割の大きさは、やはり高く評価すべきだろう。
 本朝と天竺との間の国家間の交流ということになると、過去の文献を紐解いてみても、『(西)漢』の武帝が張騫を大月氏(※三)に派遣した事例ぐらいしか見付けることはできない。しかし、これにしても、当時の大月氏はバクトリア(※四)の地を支配する政権であり、厳密な意味では天竺との通交とは言えないだろう。
 この体験を奇貨として、戒日王は使節の帰国に改めて答礼使を随行させることとして、『唐』との関係をさらに深めようと試みている。それに応えて、貞観十七(六四三)年、主上もまた衛尉氶(※五)だった李義表を使者として天竺に遣わすが、この時、戒日王は国境まで大臣を派遣して使節を迎えさせたうえに、都の城内を隅から隅まで自由に見学させ、まったく敵意のないことを実際の態度として示してみせた。
 これはあまりにも破天荒な歓迎ぶりで、報告を受けた無忌も驚いたものだが、さらにこの後、戒日王は再び使者を『唐』に遣わし、火珠や菩提樹、鬱金(サフラン)などを献上している。
(なにがここまで戒日王を友好的にさせた?)
 そこに無忌は、どうしても玄奘の存在というものを感じずにはいられなかった。
 こうしてみると、両国の修好活動はどちらかというと、天竺側の方が一方的に積極的だったように思われるかもしれないが、しかし、『唐』の側でも決してこれを軽視していたわけではない。
 今回、使節団の正使に王玄策を任じたのもその現われであり、彼は以前、融州(※六)の県令から天竺行きの使節団の副使に任じられた経験があった。当然、天竺には旧知の人脈があり、両国の親睦をより一層深めるには絶好の人選であるといえ、これは噂だが、主上に彼の抜擢を勧めたのは玄奘だと無忌は耳にしていた。ちなみに、王玄策が今回携行した戒日王への親書も、主上の命によって玄奘が梵語に翻訳したものである。
 これほどの配慮と準備をして、王玄策は天竺へ向かったのだ。ところが、である。
 使節団が実際に天竺に赴いてみると、その状況は一変していた。使節団が天竺国境に到着するよりも少し前、戒日王がこの世を去っていたのだ。
(しかも、後継者を定めていなかったのが拙かった……)
 無忌の率直な感想である。
 王朝を永続させるための最大の肝は、国内外が安定し、政治的にも余裕のあるうちに後継者を適切に定めておき、それを広く明らかにしておくことだ。主上の不興を買っていることは承知の上で、無忌がいま皇太子を後見し、廟堂に睨みをきかせているのは、そんな信念があるからである。
 だが、戒日王はそれをしなかった。おそらく、側近に人を得ていなかったのだろう。
 彼の国内政策は中央集権的なものではなく、王の属人的な威厳によって半独立的な諸侯の盟主として奉られていた部分があり、王の死とともに、あれほど強固に思われた王朝の権威は急速に雲散霧消し、天竺国内はあっという間に大混乱に陥ったのである。
 当然、そこに野心家が台頭する隙が生じる。
 戒日王の大臣の一人、帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が王朝の簒奪を狙って自ら即位を宣言し、軍を動かして国境付近を固めると、丁度そこに来合わせた『唐』の使節団の入国を拒み、これを襲ったのである。
 この時、王玄策が率いていた騎兵は僅かに数十騎。とても敵することなどできるはずもなく、兵士らはみな殺害され、諸国からの貢物はすべて阿羅那順に奪われるという、悲劇的な災厄に見舞われることとなった。
(これだけを見れば、王玄策は実に不運だったということになるわけだが、……)
 どうにも胡乱な話だと、無忌にはまずこの報告を受けたときから、そんな疑問を持っていた。
 現地に到着するまで、戒日王の安否に関して、使節団がなんの情報も掴んでいなかったというのがそもそも変だ。使節団は先触れの者を必ず派遣していたはずだし、天竺国内には王玄策と気脈を通じていた者もいただろう。王の死がいくら極秘にされていたとしても、まったく動静が掴めなかったというのは奇妙ではないか。
(それに、阿羅那順の動きもおかしい……)
 自分がもし彼の立場なら、国内の混乱に乗じて兵を挙げたばかりだ。国内をまだ固めきれてもいないのに、他国からの使者に略奪行為を働くような愚挙は絶対に冒さない。国内の動向に他国が介入してくる口実を与えてしまうことになるからだ。
 それに万が一、なにかの弾みでそういう状況に陥ったのだとしても、
(肝腎の使節団の正使と副使、ともに逃してしまうというのは、あまりにも間が抜けている)
 この時、正使の王玄策は辛くも危機を脱して逃亡し、吐蕃(※七)西部の辺境地帯に身を潜めたと報告を受けている。しかも、彼は自らの判断で直ちに周辺諸国に檄を飛ばし、阿羅那順を討つための援兵を依頼するという手際の良さを見せていた。
 当初、使節団が襲撃されたとの報を受けて蒼くなっていた朝廷は、この続報に愁眉を開き、安堵の胸を撫で下ろしたことは先に述べたとおりだが、しかし、ただ一人無忌だけは、この展開にも不審の念を抱いていたのである。
(『唐』の使節団の正使とはいえ、たかだか右衛率長史にすぎない王玄策が出した触れに、周辺諸国がそう簡単に動くものか?)
 それも自国とはまったく関係のない、他国の内乱を鎮圧するために、だ。
 ところが、実際には、吐蕃からは兵一千、泥婆羅(ネパール)からは七千騎もの兵がたちどころに彼の元に集まったのだという。こうして逆襲の体制は整い、王玄策、そして副使の蒋師仁がこの八千の兵を二軍に分けて進軍し、再び天竺国境付近で阿羅那順の軍と遭遇するとこれを大いに打ち破った。三千の首級を得るとともに、「溺死する者、一万人」という大勝だったらしい。
 この敗戦で阿羅那順は前線から逃亡し、自らの領地で再起を図ろうとしたものの捕らえられ、その一方で、彼の妻と息子を奉じて抵抗を継続しようとした残党も一掃されて、天竺内の騒動は意外にも短期間で終息したのである。
(あまりにも出来過ぎだ)
 最初から段取りがついていたとしか思えない。
 無忌の推測は、もはや確信へと変わっている。そして、天竺という異境の地で、周辺の諸国も巻き込み、これほど見事な一幕の劇を準備できる者がいるとすれば、
(玄奘しかいない‼)
 彼の勘がそう囁いていた。
 今度の一件によって、西域を初めとして、天竺やその周辺諸国における主上の権威は大いに伸展して特に、特に、これまで互いに手探り状態だった西方の大国、天竺との関係はその均衡が一気に崩れ、大『唐』がもたらした平和に天竺国内の諸勢力が首を垂れる構図へと変わっている。実際、これよりしばらくの間は、天竺諸侯は相次いで朝貢のための使者を『唐』に送り込む状況が続いている。現代まで俯瞰してみても、インドに存在した政治勢力が中国の政権に対して礼を尽くし、自ら一歩へりくだって朝貢関係を結んだのは、歴史上、この時期のみの特異な現象であるといってよいだろう。
 これは余談だが、主上はこの後、天竺から寄せられた各種の貢物のうち、糖霜(白砂糖)に興味を持ち、中天竺に位置する『摩伽陀(マガダ)』国に使者を派遣し、この国の熬糖法を学ばせている。さらに、揚州(※八)に勅を発して各種の砂糖黍を献上させ、その汁を圧縮して薬剤のように精製してみたところ、その色と味は、天竺産のものより数段勝っていたため、これ以降、国内での砂糖づくりが盛んになるという副産物が生じている。
 その後、『唐』で栽培・生産力が高まった砂糖は、日本にも薬として輸入されるようになるが、それを最初にもたらしたのは鑑真だと伝えられている。
(これほど見事な結末まで、玄奘は読み切っていたのだろうか?)
 これまではただ「仏教の守護神」としてしか思っていなかった玄奘という存在は、実はとんでもない怪物だったのではないか。
(あの者との向き合い方は、以降、気を付けねばならんな・・・・・・)
 敵には回したくない人物だ。しかし、あまり近づきすぎるのも考えものだろう。
 背筋に何か冷たいものが流れながら、無忌はそんなことを考えていた。

【注】
 ※一 「兵部侍郎」
  国防を担当する役所、兵部の次官。官品は「正四品下」
 ※二 「右衛率府長史」
  宿衛にあたる右衛率府の属僚(文官)。官品は「従六品上」
 ※三 「大月氏」
  イラン系の遊牧氏族であるとされる月氏(民族名)は、始め現在の中
 国の甘粛省付近(黄河上流域)を拠点としていたが、前三世紀末、匈奴
 に攻撃されて敗れ、主力は西方に逃れて、まず天山山脈北方のイリ地方
 に移動した。この移動した月氏を「大月氏」と呼ぶ。
  大月氏はさらに北方から烏孫に攻撃されてイリ地方を追われ、パミー  
 ル高原を越えて、アム川上流のソグディアナ、さらにバクトリアの地に
 入り、「大月氏国」を建てた。大月氏国では、アム川上流のオアシス都
 市を土着の五人の有力者たち(翕侯、ヤブグ)に支配させていたが、や
 がてその五翕侯の一人、クシャーン・ヤブグが月氏の支配を覆し、北部
 インドに進出して「クシャーナ朝」を建国している。
  なお、中国の資料では、このクシャーナ朝も大月氏国と呼び、明確な
 区分がなされていない
 ※四 「バクトリア」
  アムダリア川の上流、ヒンドゥークシュ山脈の北側に広がる盆地を指
 す。現在のアフガニスタン北部
 ※五 「衛尉氶」
  宮門の警備を司る役所の属官。官品は「従七品上」
 ※六 「融州」
  現在の広西チワン族自治区
 ※七 「吐蕃」
  七世紀初めから九世紀中頃にかけてチベットにあった統一王国
 ※八 「揚州」
  現在の江蘇省揚州市
 
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