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第Ⅵ巻 風歌の導き
第2話 風歌の場
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ノマ=ルグの集落を離れ、草原の奥へ向かう道は不気味なほど静かだった。
本来なら絶えず吹き抜ける風が音を運び、草を揺らし、遠くの祈り歌が微かに聞こえるはずだ。
けれど――今は、何もない。
「……ここまで来ても、風の気配がないな」
エインは空を見上げながらつぶやいた。
炎核が胸の奥でざらつき、
“動きのない空気”が異物のように感じられる。
ティナは灯を抱きしめ、不安そうに周囲を見回した。
「なんか……息が詰まりそう……」
「風が止むというのは、それだけで異常だからね」
シオンが言う。
「ノマ=ルグの祈りと生活は、すべて風と一体だ。
風が沈んでいるということは、この国の“心臓”が止まっているのと同じだよ。」
その少し前を歩いていたレイナが、かすかに振り向いた。
唇が震え、小さな声が漏れる。
「……ふか……の……ま……なか……」
息に混じったその声は、単語が崩れ、どこか苦しげだ。
ティナが心配そうに身を寄せる。
「レイナちゃん、無理しなくていいよ……」
カレナが代わりに説明するように言った。
「彼女が言いたいのは、
“風歌の場は草原の真ん中にある”……ということ。」
レイナは申し訳なさそうにうつむいた。
本来なら歌巫女として澄んだ声を持つ少女。
その声がいまは、風に乗らず、ただのかすれた息音に落ちている。
「気にするな」
セトが短く言う。
「風の民でも、声を奪われればこうなる。お前が悪いわけじゃない。」
レイナは小さく頷いた。
そのまま歩き続けると、草原の地形がゆるやかに凹んでいる場所が見えてきた。
中心には、大地が円形に落ち込んだ巨大な縦穴――。
「……これが」
エインが足を止める。
「風歌の場。」
カレナが縦穴の縁に立つ。
本来なら、底から強い風が吹き上がり、
風の声が草原中に響く聖域だった。
だが今は――
底は暗く、風ひとつ動かない。
髪さえ揺れない空気。
耳が痛くなるほどの沈黙。
「完全に……沈んでるね」
ティナが灯を抱き寄せる。
「風脈そのものが止まっている」
シオンが星盤をかざし、波動を読む。
「残響がほとんどない。
まるで“風という存在そのもの”が消されたみたいだ。」
セトは縁に手を当て、閉ざされた風の気配を読む。
「……誰かが入り込んだ跡がある。
ここの風を殺すような……そんな干渉だ。」
「殺す……?」
ティナが息をのむ。
「風は生きているからね。」
カレナが静かに答えた。
「風が歌い、歌が祈り、祈りが命になる。
ここが沈黙したということは――
ノマ=ルグの“命の流れ”が止まったということ。」
エインは縦穴の闇を見つめる。
炎核が、かすかに反応していた。
(……何かが、ここで“風の代わりに”息をしているような……)
そんな気配が胸を締めつける。
ティナが小さく言った。
「……風が、怖がってる。」
「感じるのか?」
エインが問うと、
「うん……灯が、そう言ってるみたい……」
ティナは灯を見つめながら答えた。
カレナはティナの灯の揺れに目を細める。
「……あなたの灯は、風に代わって“声”を拾っているのかもしれない。」
セトが振り返る。
「理由はどうあれ――
ここに“風を奪った何者か”がいるのは確かだ。」
静かな草原に、沈黙がさらに深く落ちる。
カレナは全員を見まわし、凛とした声で告げた。
「――風の声を取り戻しましょう。
あなたたちの灯と炎と理の力を貸して。」
エインは一つだけ力強く頷いた。
こうして、
沈黙した“風歌の場”の調査が始まった。
縦穴の縁から内部へ降りるため、カレナが風歌の場の側壁に沿って作られた細い石段を指し示した。
風が吹けば危険なはずの細道だが、今は揺らぎすらない。
「気をつけて。……風がない石段は、わたしたちも慣れていないの。」
カレナはレイナを支えながら言った。
彼女の声には、慣れない“静寂”への不安が混じっている。
エインはティナを庇いながら進み、シオンは慎重に星盤を展開した。
縦穴の内側に降りるにつれ、空気はさらに冷たく、重くなる。
まるで深い湖の底に沈んでいくようだ。
「……風の気配が、完全に途切れてる」
シオンの声が低く響く。
「残響すらない。これは自然現象じゃないよ。」
セトが石壁を指でなぞる。
風の民なら誰もが感じる“流れの痕跡”が、そこにはほとんど残っていなかった。
「ここには誰かがいた。
風を乱し、抑え、……そして“奪った”。」
セトの声は固い。
淡々としているが、風を尊ぶ民としての怒りが底に沈んでいた。
ティナが足元を見つめる。
「……ねぇ、ここ……」
薄暗い階段を照らす灯の光が、壁のある場所に反射した。
かすかな“擦り跡”が浮かぶ。
人が触れたような跡ではない。
もっと薄い、擦るような――
「……これは……」
カレナが息をのむ。
「“風擦り痕(かぜすりあと)”。
風そのものが“削られた”痕跡……。」
エインも手を触れてみる。
何かが通った“残り香”のような、わずかな震えが指先に伝わる。
(風ではない……声でもない……
これは、何の“律”だ?)
炎核が沈黙した空間を測るように脈打つ。
シオンが星盤に目を凝らし、震えるように呟いた。
「……複数の……波形……?」
「複数?」
ティナが聞き返す。
「うん。
命律でも祈りでもない。
ただ……いくつもの声が、重なっているみたいだ。」
その背後で、レイナがふらりと立ち止まる。
瞳がぼんやりと揺れ、どこか遠くを見るように。
「……だれ……か……いた……」
かすれた声。
でも、その言葉は確かだった。
ティナが支える。
「レイナちゃん……?」
「ここ……で……
……うた……って……た……」
言葉が途切れ、レイナは胸元を押さえた。
まるで見えない誰かに喉を掴まれたように苦しそうだ。
エインが一歩前に出る。
「誰かが……いたのか?」
レイナは必死に首を振る。
「ちがう……
……ひとり……じゃ……ない……
“なにか”……が……たくさん……」
カレナがレイナを抱き寄せる。
「無理に思い出さなくていい。
ここはあなたの声が奪われた場所……。」
その言葉の直後――
縦穴の底から、
ひゅう……と“風とは違う細い音”が聞こえた。
「……風?」
ティナが顔を上げる。
だが違った。
あれは風ではない。
細く、混ざり合い、何層にも重なった――
**“囁き声”**だった。
……かえして……
……こえ……を……
……あなた……の……
ティナの灯が揺れ、炎核が警戒するように脈打つ。
「――下がれ!」
セトが叫ぶ。
その瞬間、縦穴の天井近くに“白い影”が一瞬だけ揺れた。
誰かの形に似ている。
だが、その輪郭は風のように薄く、確かめる前に消えた。
「今の……何?」
ティナが震える声で言う。
シオンは星盤を握りしめ、険しく答えた。
「……“誰かの声の残響”だよ。
でも、あんな混ざり方……ありえない。
これは……“侵されてる”。」
カレナは静かに言う。
「この場には――“声を奪う何者か”がいる。」
沈黙が、さらに深く降りてきた。
そして、壁の奥からまた囁きが響いた。
……もっと……
……もっと……ほしいの……
その声は、
まるで“誰かの声を真似ている”ようだった。
縦穴の奥から響いた“囁き”が消えると、
風歌の場は再び、耳を押しつぶすほどの沈黙に支配された。
ティナは胸に抱えた灯を見つめる。
灯は風がないはずの空気の中で、わずかに揺れていた。
「……なんで……?」
ティナが、灯にそっと触れる。
炎は彼女の指先に共鳴するように、ふるりと震えた。
カレナが驚いたように息をのむ。
「灯が……揺れている……?
この沈黙で、どうして……?」
「ティナ、何か感じる?」
シオンが慎重に問いかける。
ティナは目を閉じ、小さな声で答える。
「うん……なんかね……
“風の記憶”みたいな……やさしい声が……」
その場の空気が、微かに動いた。
しかし風ではない。
“祈りの揺らぎ”だけが、灯の周囲に漂った。
(……風の記憶……)
エインはその言葉に反応し、ティナの灯を見つめる。
確かに、炎核もほんのわずか反応していた。
それは炎の反応ではなく、
**“風の亡失に触れた時の、炎の共鳴”**に近い。
ティナはふらりと縦穴の壁へ歩き寄る。
壁には風の流れを導くための古い文様が刻まれている。
「ここ……なんか……呼んでる」
「ティナ、危ないよ」
エインが制止しようとする。
だがティナは壁へ手を伸ばした。
すると――
灯が、壁の模様を照らした瞬間。
風の音が、一瞬だけ戻ってきた。
《ひゅ……う……》
それは、草原にいつも吹く、あの穏やかな風の音だった。
一瞬――ほんの一息だけ。
カレナが震えるように呟いた。
「……風……?
今の、風の声……?」
しかしその直後、
壁に反射していた灯の光が“別の影”に吸われた。
「っ……!」
ティナが思わず手を引く。
影は、まるで壁の模様から滲み出るように揺れた。
それは“人の形”に近い。
だが、輪郭が曖昧で、どこか複数の誰かが混じっているような影。
セトが剣に手をかける。
「……またか。
あの影……“声を混ぜたもの”が形になりはじめている。」
シオンは星盤を握りしめた。
「さっきの風の音……
ティナの灯が“記憶に触れた”から引き出されたんだ。
でもそれと同時に、“侵声”も刺激された……。」
ティナは胸の灯を守るように抱えた。
「エイン……ごめん、ちょっと……怖い……」
「大丈夫だ。灯は奪わせない。」
エインはティナの肩に手を置き、影を睨む。
影は壁に戻るようにひたりと貼り付き、
最後にひどく歪んだ囁きを残した。
……ちがう……
その“声”は……
あなたのじゃ……ない……
「……声を……返せって言ってた」
ティナの声が震える。
「九歌の誰かの声、かもしれない」
カレナが答える。
「奪われた声は、影となってこの場に残る……。
本来ありえないはずなのに。」
沈黙が満ちる風歌の場で、
灯だけが、ほのかに揺れていた。
エインはゆっくり立ち上がり、壁の痕跡を見つめる。
(……風が、“奪われた声”ごと封じられている……)
その時――
壁の奥からまた、微かな囁きがこぼれた。
……まだ……たりない……
もっと……あなたの……声を……
ティナが小さく震える。
その瞬間、エインは確信した。
「――声だけじゃない。
“風の祈り”そのものが狙われてる。」
シオンがうなずき、低く言う。
「これは……命律波の変質体。
“影になりすまし、声を奪う存在”だ。」
名前をまだ知らぬ敵の影は、沈黙の風歌の場に確かに存在していた。
夜気が冷たくなる。篝火に照らされる草原は穏やかに見えるのに、どこか“音の欠けた空間”があった。
エインはそれに気づいていた。
風の流れ――いや、“風が歌うはずの場所”に、わずかな沈黙が混じっている。
シオンが星盤を閉じて立ち上がる。
「……気配が、変ですね。風が揺らいでいるのではなく、誰かが“揺らぐ音”を消している」
ティナが小聖火灯を抱え直す。
「さっきから……なんだか、胸がざわざわする。誰かに見られてるみたい」
その直後だった。
草原の向こうから、ノマ=ルグの斥候兵が一人駆けてきた。
風紋のマントを纏い、肩で息をしながら叫ぶ。
「カレナ様! “声なき風”が……東の谷で、隊が全滅しました!」
風の歌巫女カレナの表情が凍る。
「……全滅? そんなはずが……」
斥候兵は必死に続ける。
「命律波の反応はありませんでした! ただ──ただ、仲間が次々に互いを襲い始めて……!」
ティナが小さく息を呑む。
「仲間同士が……?」
エインは斥候兵の足元へ視線を向けた。
草を踏む音が――遅れて聞こえている。
彼の声の震えは本物だ。
だが、この“音の遅れ”はエインが知る現象。
命律波の共鳴乱れ。
そして、“誰かが音を盗んでいる”時の違和感。
(……こいつ、違う)
その兵が顔を上げた瞬間だった。
「あの……カレナ様に、お伝えしなければ……“次はここが狙われる”と……」
言葉は正しい。
抑揚も、恐怖も、本物の兵のもの。
なのに――風だけが、その声を運ばない。
カレナが一歩近づこうとした瞬間、エインが前に出た。
「止まれ」
ティナが叫ぶ。
「エイン、どうしたの!?」
エインは赤い瞳で斥候兵を射抜く。
「……お前、さっきから“風に触れてない”。ノマ=ルグの兵なら、呼吸すら風と揃うはずだ」
斥候兵がゆっくりと笑った。
表情は本物の人間のものなのに、その“音”は生きていない。
「――気づくのですね、No.25」
ティナの背筋が震える。
シオンが息を飲んだ。
兵の声が変質していく。
喉の震えが無くなり、声帯を通らず――空気が直接“言葉の形”になった。
「これはただの挨拶です。
“声なき風”が近くにいることを……お知らせするための」
草原の風が一瞬、完全に止まった。
斥候兵の影が揺れ――
その身体が崩れ落ちる。中身が抜け落ちた、空の殻となって。
ティナが思わず後ずさる。
「い、今の……人じゃなかった……?」
シオンが即座に解析する。
「……これは、“声の殻”。
他者の声と仕草を記録し、真似るだけの抜け殻……命律波による、模倣体」
エインは一歩踏み出し、静かに言った。
「来てるぞ。
“風を盗む奴”が……」
夜の草原のどこかで、誰かが小さく笑ったような気がした。
その笑い声さえ、風には乗らない。
影は、すでに紛れ込んでいた。
斥候兵の“殻”が崩れ落ちたあと、草原には重苦しい沈黙が垂れ込めた。
風の国にとって、沈黙は死と同義だ。
カレナは震える指先で胸元の風鈴飾りを押さえる。
それは風巫女の象徴――微風でも鳴るように調律された祈りの鈴だ。
しかし今は、どれだけ揺らしても――音は鳴らなかった。
「……音が、返らない。
私たちの風が……奪われている……」
普段は自由奔放な歌巫女の声は、悲しみと恐れに震えていた。
エインは斥候兵の残骸を見下ろしながら言う。
「ただの命令じゃない。これは“声の命令”だ。人の声を奪って殻を作るなんて……」
ティナが小聖火灯を抱え、カレナへ歩み寄る。
「……大丈夫。まだ灯は消えてないよ。風が戻る場所は、きっとある」
カレナはかすかに笑った。
「ありがとう。灯の子。……あなたの声は、不思議と風に届くのね」
シオンが星盤を展開しながら口を開く。
「敵の目的は“情報収集”です。
今の殻は単なる偵察。統率された殺意ではなく、“音の地図”を描いているだけ」
「音の地図……?」
ティナが首を傾げる。
シオンは静かに説明した。
「ノマ=ルグは風で会話し、風で心を読む文化圏。
その“風の道”をすべて掌握したいのでしょう。
――『侵聲(しんせい)』の侵入経路を作るために」
その言葉に、カレナの瞳が鋭く光る。
「……侵聲。
あの“声のない嘲笑”……あれの名はまだ知らないけど……」
彼女は小さく息を吸い、胸に手を当てた。
「仲間を奪った音を……この草原の風から消した音を……私は許さない」
エインが目を細める。
「戦うつもりか、歌巫女」
「歌うつもり」
カレナは微笑んだ。
「風は祈りを運ぶ。奪われても、歌が残っていれば奪い返せる。
私は“この草原の声”を取り戻すために――あなたたちと共に行く」
ティナが嬉しそうにうなずく。
「一緒に……風を取り戻そう」
カレナはティナの手をそっと握り返した。
「ありがとう。灯の子。
あなたの灯は……風にも音にも、届く気がするわ」
シオンが視線を遠くへ向け、低く告げる。
「――来ます。
“歌を盗む者”が、本格的に動き出します」
その瞬間。
風が、一筋だけ“逆流”した。
草原全体が、誰かの呼吸に合わせて脈打つように。
それは、まだ姿を見せぬネイラの“予告”。
音を奪う侵聲の支配が、ゆっくりと草原を覆い始めていた。
ノマ=ルグの戦いは、ここから始まる。
本来なら絶えず吹き抜ける風が音を運び、草を揺らし、遠くの祈り歌が微かに聞こえるはずだ。
けれど――今は、何もない。
「……ここまで来ても、風の気配がないな」
エインは空を見上げながらつぶやいた。
炎核が胸の奥でざらつき、
“動きのない空気”が異物のように感じられる。
ティナは灯を抱きしめ、不安そうに周囲を見回した。
「なんか……息が詰まりそう……」
「風が止むというのは、それだけで異常だからね」
シオンが言う。
「ノマ=ルグの祈りと生活は、すべて風と一体だ。
風が沈んでいるということは、この国の“心臓”が止まっているのと同じだよ。」
その少し前を歩いていたレイナが、かすかに振り向いた。
唇が震え、小さな声が漏れる。
「……ふか……の……ま……なか……」
息に混じったその声は、単語が崩れ、どこか苦しげだ。
ティナが心配そうに身を寄せる。
「レイナちゃん、無理しなくていいよ……」
カレナが代わりに説明するように言った。
「彼女が言いたいのは、
“風歌の場は草原の真ん中にある”……ということ。」
レイナは申し訳なさそうにうつむいた。
本来なら歌巫女として澄んだ声を持つ少女。
その声がいまは、風に乗らず、ただのかすれた息音に落ちている。
「気にするな」
セトが短く言う。
「風の民でも、声を奪われればこうなる。お前が悪いわけじゃない。」
レイナは小さく頷いた。
そのまま歩き続けると、草原の地形がゆるやかに凹んでいる場所が見えてきた。
中心には、大地が円形に落ち込んだ巨大な縦穴――。
「……これが」
エインが足を止める。
「風歌の場。」
カレナが縦穴の縁に立つ。
本来なら、底から強い風が吹き上がり、
風の声が草原中に響く聖域だった。
だが今は――
底は暗く、風ひとつ動かない。
髪さえ揺れない空気。
耳が痛くなるほどの沈黙。
「完全に……沈んでるね」
ティナが灯を抱き寄せる。
「風脈そのものが止まっている」
シオンが星盤をかざし、波動を読む。
「残響がほとんどない。
まるで“風という存在そのもの”が消されたみたいだ。」
セトは縁に手を当て、閉ざされた風の気配を読む。
「……誰かが入り込んだ跡がある。
ここの風を殺すような……そんな干渉だ。」
「殺す……?」
ティナが息をのむ。
「風は生きているからね。」
カレナが静かに答えた。
「風が歌い、歌が祈り、祈りが命になる。
ここが沈黙したということは――
ノマ=ルグの“命の流れ”が止まったということ。」
エインは縦穴の闇を見つめる。
炎核が、かすかに反応していた。
(……何かが、ここで“風の代わりに”息をしているような……)
そんな気配が胸を締めつける。
ティナが小さく言った。
「……風が、怖がってる。」
「感じるのか?」
エインが問うと、
「うん……灯が、そう言ってるみたい……」
ティナは灯を見つめながら答えた。
カレナはティナの灯の揺れに目を細める。
「……あなたの灯は、風に代わって“声”を拾っているのかもしれない。」
セトが振り返る。
「理由はどうあれ――
ここに“風を奪った何者か”がいるのは確かだ。」
静かな草原に、沈黙がさらに深く落ちる。
カレナは全員を見まわし、凛とした声で告げた。
「――風の声を取り戻しましょう。
あなたたちの灯と炎と理の力を貸して。」
エインは一つだけ力強く頷いた。
こうして、
沈黙した“風歌の場”の調査が始まった。
縦穴の縁から内部へ降りるため、カレナが風歌の場の側壁に沿って作られた細い石段を指し示した。
風が吹けば危険なはずの細道だが、今は揺らぎすらない。
「気をつけて。……風がない石段は、わたしたちも慣れていないの。」
カレナはレイナを支えながら言った。
彼女の声には、慣れない“静寂”への不安が混じっている。
エインはティナを庇いながら進み、シオンは慎重に星盤を展開した。
縦穴の内側に降りるにつれ、空気はさらに冷たく、重くなる。
まるで深い湖の底に沈んでいくようだ。
「……風の気配が、完全に途切れてる」
シオンの声が低く響く。
「残響すらない。これは自然現象じゃないよ。」
セトが石壁を指でなぞる。
風の民なら誰もが感じる“流れの痕跡”が、そこにはほとんど残っていなかった。
「ここには誰かがいた。
風を乱し、抑え、……そして“奪った”。」
セトの声は固い。
淡々としているが、風を尊ぶ民としての怒りが底に沈んでいた。
ティナが足元を見つめる。
「……ねぇ、ここ……」
薄暗い階段を照らす灯の光が、壁のある場所に反射した。
かすかな“擦り跡”が浮かぶ。
人が触れたような跡ではない。
もっと薄い、擦るような――
「……これは……」
カレナが息をのむ。
「“風擦り痕(かぜすりあと)”。
風そのものが“削られた”痕跡……。」
エインも手を触れてみる。
何かが通った“残り香”のような、わずかな震えが指先に伝わる。
(風ではない……声でもない……
これは、何の“律”だ?)
炎核が沈黙した空間を測るように脈打つ。
シオンが星盤に目を凝らし、震えるように呟いた。
「……複数の……波形……?」
「複数?」
ティナが聞き返す。
「うん。
命律でも祈りでもない。
ただ……いくつもの声が、重なっているみたいだ。」
その背後で、レイナがふらりと立ち止まる。
瞳がぼんやりと揺れ、どこか遠くを見るように。
「……だれ……か……いた……」
かすれた声。
でも、その言葉は確かだった。
ティナが支える。
「レイナちゃん……?」
「ここ……で……
……うた……って……た……」
言葉が途切れ、レイナは胸元を押さえた。
まるで見えない誰かに喉を掴まれたように苦しそうだ。
エインが一歩前に出る。
「誰かが……いたのか?」
レイナは必死に首を振る。
「ちがう……
……ひとり……じゃ……ない……
“なにか”……が……たくさん……」
カレナがレイナを抱き寄せる。
「無理に思い出さなくていい。
ここはあなたの声が奪われた場所……。」
その言葉の直後――
縦穴の底から、
ひゅう……と“風とは違う細い音”が聞こえた。
「……風?」
ティナが顔を上げる。
だが違った。
あれは風ではない。
細く、混ざり合い、何層にも重なった――
**“囁き声”**だった。
……かえして……
……こえ……を……
……あなた……の……
ティナの灯が揺れ、炎核が警戒するように脈打つ。
「――下がれ!」
セトが叫ぶ。
その瞬間、縦穴の天井近くに“白い影”が一瞬だけ揺れた。
誰かの形に似ている。
だが、その輪郭は風のように薄く、確かめる前に消えた。
「今の……何?」
ティナが震える声で言う。
シオンは星盤を握りしめ、険しく答えた。
「……“誰かの声の残響”だよ。
でも、あんな混ざり方……ありえない。
これは……“侵されてる”。」
カレナは静かに言う。
「この場には――“声を奪う何者か”がいる。」
沈黙が、さらに深く降りてきた。
そして、壁の奥からまた囁きが響いた。
……もっと……
……もっと……ほしいの……
その声は、
まるで“誰かの声を真似ている”ようだった。
縦穴の奥から響いた“囁き”が消えると、
風歌の場は再び、耳を押しつぶすほどの沈黙に支配された。
ティナは胸に抱えた灯を見つめる。
灯は風がないはずの空気の中で、わずかに揺れていた。
「……なんで……?」
ティナが、灯にそっと触れる。
炎は彼女の指先に共鳴するように、ふるりと震えた。
カレナが驚いたように息をのむ。
「灯が……揺れている……?
この沈黙で、どうして……?」
「ティナ、何か感じる?」
シオンが慎重に問いかける。
ティナは目を閉じ、小さな声で答える。
「うん……なんかね……
“風の記憶”みたいな……やさしい声が……」
その場の空気が、微かに動いた。
しかし風ではない。
“祈りの揺らぎ”だけが、灯の周囲に漂った。
(……風の記憶……)
エインはその言葉に反応し、ティナの灯を見つめる。
確かに、炎核もほんのわずか反応していた。
それは炎の反応ではなく、
**“風の亡失に触れた時の、炎の共鳴”**に近い。
ティナはふらりと縦穴の壁へ歩き寄る。
壁には風の流れを導くための古い文様が刻まれている。
「ここ……なんか……呼んでる」
「ティナ、危ないよ」
エインが制止しようとする。
だがティナは壁へ手を伸ばした。
すると――
灯が、壁の模様を照らした瞬間。
風の音が、一瞬だけ戻ってきた。
《ひゅ……う……》
それは、草原にいつも吹く、あの穏やかな風の音だった。
一瞬――ほんの一息だけ。
カレナが震えるように呟いた。
「……風……?
今の、風の声……?」
しかしその直後、
壁に反射していた灯の光が“別の影”に吸われた。
「っ……!」
ティナが思わず手を引く。
影は、まるで壁の模様から滲み出るように揺れた。
それは“人の形”に近い。
だが、輪郭が曖昧で、どこか複数の誰かが混じっているような影。
セトが剣に手をかける。
「……またか。
あの影……“声を混ぜたもの”が形になりはじめている。」
シオンは星盤を握りしめた。
「さっきの風の音……
ティナの灯が“記憶に触れた”から引き出されたんだ。
でもそれと同時に、“侵声”も刺激された……。」
ティナは胸の灯を守るように抱えた。
「エイン……ごめん、ちょっと……怖い……」
「大丈夫だ。灯は奪わせない。」
エインはティナの肩に手を置き、影を睨む。
影は壁に戻るようにひたりと貼り付き、
最後にひどく歪んだ囁きを残した。
……ちがう……
その“声”は……
あなたのじゃ……ない……
「……声を……返せって言ってた」
ティナの声が震える。
「九歌の誰かの声、かもしれない」
カレナが答える。
「奪われた声は、影となってこの場に残る……。
本来ありえないはずなのに。」
沈黙が満ちる風歌の場で、
灯だけが、ほのかに揺れていた。
エインはゆっくり立ち上がり、壁の痕跡を見つめる。
(……風が、“奪われた声”ごと封じられている……)
その時――
壁の奥からまた、微かな囁きがこぼれた。
……まだ……たりない……
もっと……あなたの……声を……
ティナが小さく震える。
その瞬間、エインは確信した。
「――声だけじゃない。
“風の祈り”そのものが狙われてる。」
シオンがうなずき、低く言う。
「これは……命律波の変質体。
“影になりすまし、声を奪う存在”だ。」
名前をまだ知らぬ敵の影は、沈黙の風歌の場に確かに存在していた。
夜気が冷たくなる。篝火に照らされる草原は穏やかに見えるのに、どこか“音の欠けた空間”があった。
エインはそれに気づいていた。
風の流れ――いや、“風が歌うはずの場所”に、わずかな沈黙が混じっている。
シオンが星盤を閉じて立ち上がる。
「……気配が、変ですね。風が揺らいでいるのではなく、誰かが“揺らぐ音”を消している」
ティナが小聖火灯を抱え直す。
「さっきから……なんだか、胸がざわざわする。誰かに見られてるみたい」
その直後だった。
草原の向こうから、ノマ=ルグの斥候兵が一人駆けてきた。
風紋のマントを纏い、肩で息をしながら叫ぶ。
「カレナ様! “声なき風”が……東の谷で、隊が全滅しました!」
風の歌巫女カレナの表情が凍る。
「……全滅? そんなはずが……」
斥候兵は必死に続ける。
「命律波の反応はありませんでした! ただ──ただ、仲間が次々に互いを襲い始めて……!」
ティナが小さく息を呑む。
「仲間同士が……?」
エインは斥候兵の足元へ視線を向けた。
草を踏む音が――遅れて聞こえている。
彼の声の震えは本物だ。
だが、この“音の遅れ”はエインが知る現象。
命律波の共鳴乱れ。
そして、“誰かが音を盗んでいる”時の違和感。
(……こいつ、違う)
その兵が顔を上げた瞬間だった。
「あの……カレナ様に、お伝えしなければ……“次はここが狙われる”と……」
言葉は正しい。
抑揚も、恐怖も、本物の兵のもの。
なのに――風だけが、その声を運ばない。
カレナが一歩近づこうとした瞬間、エインが前に出た。
「止まれ」
ティナが叫ぶ。
「エイン、どうしたの!?」
エインは赤い瞳で斥候兵を射抜く。
「……お前、さっきから“風に触れてない”。ノマ=ルグの兵なら、呼吸すら風と揃うはずだ」
斥候兵がゆっくりと笑った。
表情は本物の人間のものなのに、その“音”は生きていない。
「――気づくのですね、No.25」
ティナの背筋が震える。
シオンが息を飲んだ。
兵の声が変質していく。
喉の震えが無くなり、声帯を通らず――空気が直接“言葉の形”になった。
「これはただの挨拶です。
“声なき風”が近くにいることを……お知らせするための」
草原の風が一瞬、完全に止まった。
斥候兵の影が揺れ――
その身体が崩れ落ちる。中身が抜け落ちた、空の殻となって。
ティナが思わず後ずさる。
「い、今の……人じゃなかった……?」
シオンが即座に解析する。
「……これは、“声の殻”。
他者の声と仕草を記録し、真似るだけの抜け殻……命律波による、模倣体」
エインは一歩踏み出し、静かに言った。
「来てるぞ。
“風を盗む奴”が……」
夜の草原のどこかで、誰かが小さく笑ったような気がした。
その笑い声さえ、風には乗らない。
影は、すでに紛れ込んでいた。
斥候兵の“殻”が崩れ落ちたあと、草原には重苦しい沈黙が垂れ込めた。
風の国にとって、沈黙は死と同義だ。
カレナは震える指先で胸元の風鈴飾りを押さえる。
それは風巫女の象徴――微風でも鳴るように調律された祈りの鈴だ。
しかし今は、どれだけ揺らしても――音は鳴らなかった。
「……音が、返らない。
私たちの風が……奪われている……」
普段は自由奔放な歌巫女の声は、悲しみと恐れに震えていた。
エインは斥候兵の残骸を見下ろしながら言う。
「ただの命令じゃない。これは“声の命令”だ。人の声を奪って殻を作るなんて……」
ティナが小聖火灯を抱え、カレナへ歩み寄る。
「……大丈夫。まだ灯は消えてないよ。風が戻る場所は、きっとある」
カレナはかすかに笑った。
「ありがとう。灯の子。……あなたの声は、不思議と風に届くのね」
シオンが星盤を展開しながら口を開く。
「敵の目的は“情報収集”です。
今の殻は単なる偵察。統率された殺意ではなく、“音の地図”を描いているだけ」
「音の地図……?」
ティナが首を傾げる。
シオンは静かに説明した。
「ノマ=ルグは風で会話し、風で心を読む文化圏。
その“風の道”をすべて掌握したいのでしょう。
――『侵聲(しんせい)』の侵入経路を作るために」
その言葉に、カレナの瞳が鋭く光る。
「……侵聲。
あの“声のない嘲笑”……あれの名はまだ知らないけど……」
彼女は小さく息を吸い、胸に手を当てた。
「仲間を奪った音を……この草原の風から消した音を……私は許さない」
エインが目を細める。
「戦うつもりか、歌巫女」
「歌うつもり」
カレナは微笑んだ。
「風は祈りを運ぶ。奪われても、歌が残っていれば奪い返せる。
私は“この草原の声”を取り戻すために――あなたたちと共に行く」
ティナが嬉しそうにうなずく。
「一緒に……風を取り戻そう」
カレナはティナの手をそっと握り返した。
「ありがとう。灯の子。
あなたの灯は……風にも音にも、届く気がするわ」
シオンが視線を遠くへ向け、低く告げる。
「――来ます。
“歌を盗む者”が、本格的に動き出します」
その瞬間。
風が、一筋だけ“逆流”した。
草原全体が、誰かの呼吸に合わせて脈打つように。
それは、まだ姿を見せぬネイラの“予告”。
音を奪う侵聲の支配が、ゆっくりと草原を覆い始めていた。
ノマ=ルグの戦いは、ここから始まる。
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