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第2章 隠された真実
第8話 封じられた声
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朝の桐ノ宮警察署は、普段よりも妙に静かだった。
廊下に漂うのは、事件を追う活気ではなく、誰もが言葉を選びながら歩く緊張感。
篠原台北交差点の死亡事故から数日。
被害者女性は結局息を引き取ったと病院から連絡が入った。
だが、公式発表は「体調不良の運転者が操作を誤り、交差点で衝突」。
飲酒も赤信号無視も、一切触れられていなかった。
新聞の地方欄は小さく「乗用車とタクシー衝突、1名死亡」とだけ報じた。
テレビはほとんど取り上げない。
――高山健介が議員の息子だと知っている者は知っていた。だが、それ以上は口にされない。
「西條」
副隊長に呼ばれ、執務室に入る。
机の上に報告書の改訂版が置かれていた。
「これが最終版だ。お前の記録は削除された」
美由紀はページをめくる。
〈飲酒:確認できず〉
〈信号:当事者供述に相違あり、状況不明〉
「これは嘘です」
声が震えた。
「現場で検知器に数値が出ました。目撃者も、赤信号だったと証言している」
副隊長は灰皿に煙草を押しつけ、低く答えた。
「わかってる。だが、これは“決定”だ。上の、いや――県警本部でもなく、もっと上からのな」
「もっと上……警察庁ですか」
副隊長は答えなかった。
だがその沈黙が、何よりの肯定だった。
昼休み、署の屋上。
美由紀は冷たい風に吹かれながら、自分のノートを開いた。
交差点の図、証言者の言葉、呼気検知の数値。
すべてを写し、残していた。
「また書いてんのか」
加瀬が缶コーヒーを片手に現れた。
「はい」
「消されるぞ」
「わかってます」
「……それでもか」
美由紀は顔を上げた。
「これが、現場の声ですから」
加瀬は煙草に火をつけ、しばらく黙っていた。
やがて小さく吐き出しながら言った。
「人情に負けるな。けど、人情がなきゃ走れねえ」
「またですか」
「俺の持ち札はこれしかねえ」
二人の間に、かすかな笑いが生まれた。
その夜、氷室が再び現れた。
柔らかい笑顔と落ち着いた声で、だが言葉は冷たい刃を含んでいた。
「ご苦労さま。報告書、拝見したよ。よくできている。調和が取れている」
「……調和ではなく、隠蔽です」
美由紀は一歩も引かずに言った。
氷室は笑みを保ったまま、目だけで射抜くように見つめた。
「君は危ういね。正義を信じすぎている。……警察官は正義だけで生きられない」
「でも、現場は嘘をつきません」
「現場は嘘をつかなくても、報告は嘘になる」
氷室は肩をすくめた。
「その矛盾を呑み込める人間だけが残る。呑み込めない人間は――消える」
言葉は柔らかい。だが、宣告に等しかった。
翌朝。
詰所に一枚の文書が回ってきた。
「桐ノ宮交機、内部調査対象者:西條美由紀」
室内が凍りつく。
美由紀は読み上げる声を止め、紙を握りしめた。
理由は「報告手続きの不備」。
だが誰もが、それが口実であることを理解していた。
「やっぱりな……」加瀬が低く呟いた。
「こうやって潰すんだ」
副隊長が黙って立ち上がり、書類を取り上げた。
「西條。お前は黙ってろ。こっちは俺が引き受ける」
「でも……」
「お前が声を上げたら、余計に潰される」
副隊長の声は厳しかったが、その目には確かな庇護の色があった。
夜。
美由紀はロッカー室で、もう一度ノートを開いた。
現場で聞いた女子高生の叫び声、父親の「お願いします」、検知器の数値。
すべてが鮮明に甦る。
(このまま消されるわけにはいかない。私は――残る)
窓の外、パトカーの赤色灯が夜に揺れていた。
その光が、彼女の決意を静かに照らしていた。
廊下に漂うのは、事件を追う活気ではなく、誰もが言葉を選びながら歩く緊張感。
篠原台北交差点の死亡事故から数日。
被害者女性は結局息を引き取ったと病院から連絡が入った。
だが、公式発表は「体調不良の運転者が操作を誤り、交差点で衝突」。
飲酒も赤信号無視も、一切触れられていなかった。
新聞の地方欄は小さく「乗用車とタクシー衝突、1名死亡」とだけ報じた。
テレビはほとんど取り上げない。
――高山健介が議員の息子だと知っている者は知っていた。だが、それ以上は口にされない。
「西條」
副隊長に呼ばれ、執務室に入る。
机の上に報告書の改訂版が置かれていた。
「これが最終版だ。お前の記録は削除された」
美由紀はページをめくる。
〈飲酒:確認できず〉
〈信号:当事者供述に相違あり、状況不明〉
「これは嘘です」
声が震えた。
「現場で検知器に数値が出ました。目撃者も、赤信号だったと証言している」
副隊長は灰皿に煙草を押しつけ、低く答えた。
「わかってる。だが、これは“決定”だ。上の、いや――県警本部でもなく、もっと上からのな」
「もっと上……警察庁ですか」
副隊長は答えなかった。
だがその沈黙が、何よりの肯定だった。
昼休み、署の屋上。
美由紀は冷たい風に吹かれながら、自分のノートを開いた。
交差点の図、証言者の言葉、呼気検知の数値。
すべてを写し、残していた。
「また書いてんのか」
加瀬が缶コーヒーを片手に現れた。
「はい」
「消されるぞ」
「わかってます」
「……それでもか」
美由紀は顔を上げた。
「これが、現場の声ですから」
加瀬は煙草に火をつけ、しばらく黙っていた。
やがて小さく吐き出しながら言った。
「人情に負けるな。けど、人情がなきゃ走れねえ」
「またですか」
「俺の持ち札はこれしかねえ」
二人の間に、かすかな笑いが生まれた。
その夜、氷室が再び現れた。
柔らかい笑顔と落ち着いた声で、だが言葉は冷たい刃を含んでいた。
「ご苦労さま。報告書、拝見したよ。よくできている。調和が取れている」
「……調和ではなく、隠蔽です」
美由紀は一歩も引かずに言った。
氷室は笑みを保ったまま、目だけで射抜くように見つめた。
「君は危ういね。正義を信じすぎている。……警察官は正義だけで生きられない」
「でも、現場は嘘をつきません」
「現場は嘘をつかなくても、報告は嘘になる」
氷室は肩をすくめた。
「その矛盾を呑み込める人間だけが残る。呑み込めない人間は――消える」
言葉は柔らかい。だが、宣告に等しかった。
翌朝。
詰所に一枚の文書が回ってきた。
「桐ノ宮交機、内部調査対象者:西條美由紀」
室内が凍りつく。
美由紀は読み上げる声を止め、紙を握りしめた。
理由は「報告手続きの不備」。
だが誰もが、それが口実であることを理解していた。
「やっぱりな……」加瀬が低く呟いた。
「こうやって潰すんだ」
副隊長が黙って立ち上がり、書類を取り上げた。
「西條。お前は黙ってろ。こっちは俺が引き受ける」
「でも……」
「お前が声を上げたら、余計に潰される」
副隊長の声は厳しかったが、その目には確かな庇護の色があった。
夜。
美由紀はロッカー室で、もう一度ノートを開いた。
現場で聞いた女子高生の叫び声、父親の「お願いします」、検知器の数値。
すべてが鮮明に甦る。
(このまま消されるわけにはいかない。私は――残る)
窓の外、パトカーの赤色灯が夜に揺れていた。
その光が、彼女の決意を静かに照らしていた。
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