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第3章 組織の影
第9話 孤立の証言
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桐ノ宮警察署の廊下は、普段よりも歩調が速かった。
誰もが視線を合わせないようにすれ違い、声を潜めている。
掲示板に貼られた一枚の紙――「県警本部監察官室による事情聴取対象者:西條美由紀」――は、署内の空気を確実に変えていた。
机に向かう美由紀を、遠巻きに見る同僚たち。
口を開きかけては、すぐに背を向ける。
話しかければ巻き込まれる。そういう警戒心が漂っていた。
(やっぱり、こうなるんだ)
心の中で呟きながらも、美由紀は手を止めなかった。
机の上には、例のノートが広がっている。
赤信号の証言、呼気検知の数値、被害者家族の言葉。
一文字一文字を丁寧に記録したページは、今や自分の存在証明だった。
昼下がり。
詰所に、監察官室の職員が現れた。
濃紺のスーツに冷たい目。机の周囲は一瞬で緊張に包まれる。
「西條美由紀。篠原台事故の報告について事情を聴く。監察官室へ」
立ち上がると、周囲の視線が一斉に逸れた。
加瀬だけが、無言で煙草を潰し、ほんの一瞬だけ頷いた。
監察官室。
無機質な机と椅子。壁際に録音用の機械が置かれている。
小さな会議室のような空間に、美由紀と二人の監察官が向き合った。
「あなたの記録には、公式報告書にない内容が含まれている」
監察官の声は冷徹だった。
「飲酒検知の数値、赤信号の証言……。なぜそれを書いたのか」
「それが事実だからです」
美由紀は迷わず答えた。
「だが、報告書には“信号不明・飲酒確認できず”とある」
「それは改ざんです」
沈黙。
監察官の目が鋭く光った。
「組織の決定を“改ざん”と呼ぶのか」
「事実を消すなら、それは改ざんです」
室内の空気が張り詰める。
やがて監察官はファイルを閉じ、冷ややかに告げた。
「発言は記録する。君の立場は危うい」
取調べを終えて署に戻ると、机の上に匿名のメモが置かれていた。
〈気をつけろ。監察は氷室の息がかかっている〉
誰が書いたのか分からない。だが、確かに味方の存在を感じさせる走り書きだった。
夕方、加瀬が詰所の外で声をかけてきた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃありません」
「正直でいいな」
加瀬は缶コーヒーを差し出した。
「お前が孤立してるのは分かってる。でもな、全部敵じゃねえ」
「……?」
「副隊長も、本当は庇ってる。あの人のやり方は不器用だがな」
加瀬は煙草に火をつけ、暗くなり始めた空を見上げた。
「俺だって、最後までお前を見捨てねえよ」
「……ありがとうございます」
美由紀は初めて、心から礼を言った。
夜。
署の廊下で、意外な人物が声をかけてきた。
交通部の記録管理係に所属する女性警部補、谷口だった。
普段は会計課の資料整理を手伝ったり、書庫にこもっていることが多い人物だ。
「西條さん。これ……落とし物かもしれないけど」
差し出されたのは、事故現場の写真ファイルだった。
公式報告書には掲載されなかったアングルの写真。
SUVの運転席ドア近くに、酒瓶が転がっているのがはっきり写っていた。
「どうしてこれを」
谷口は小さく首を振った。
「私の名前は出さないでください。ただ……現場は、嘘をつかない」
その言葉に、美由紀の胸が震えた。
深夜。
机に戻り、写真をノートに挟んだ。
目撃証言、呼気数値、そして酒瓶の証拠。
点が線になり、やがて揺るがない形を描いていく。
氷室の影は濃く、組織は自分を潰そうとしている。
だが、その中に確かに“味方”がいる。
それだけで、孤独の闇にわずかな光が差し込んでいた。
窓の外、パトカーの赤色灯が夜を走り抜けた。
その光は短くとも、確かに道を照らしていた。
誰もが視線を合わせないようにすれ違い、声を潜めている。
掲示板に貼られた一枚の紙――「県警本部監察官室による事情聴取対象者:西條美由紀」――は、署内の空気を確実に変えていた。
机に向かう美由紀を、遠巻きに見る同僚たち。
口を開きかけては、すぐに背を向ける。
話しかければ巻き込まれる。そういう警戒心が漂っていた。
(やっぱり、こうなるんだ)
心の中で呟きながらも、美由紀は手を止めなかった。
机の上には、例のノートが広がっている。
赤信号の証言、呼気検知の数値、被害者家族の言葉。
一文字一文字を丁寧に記録したページは、今や自分の存在証明だった。
昼下がり。
詰所に、監察官室の職員が現れた。
濃紺のスーツに冷たい目。机の周囲は一瞬で緊張に包まれる。
「西條美由紀。篠原台事故の報告について事情を聴く。監察官室へ」
立ち上がると、周囲の視線が一斉に逸れた。
加瀬だけが、無言で煙草を潰し、ほんの一瞬だけ頷いた。
監察官室。
無機質な机と椅子。壁際に録音用の機械が置かれている。
小さな会議室のような空間に、美由紀と二人の監察官が向き合った。
「あなたの記録には、公式報告書にない内容が含まれている」
監察官の声は冷徹だった。
「飲酒検知の数値、赤信号の証言……。なぜそれを書いたのか」
「それが事実だからです」
美由紀は迷わず答えた。
「だが、報告書には“信号不明・飲酒確認できず”とある」
「それは改ざんです」
沈黙。
監察官の目が鋭く光った。
「組織の決定を“改ざん”と呼ぶのか」
「事実を消すなら、それは改ざんです」
室内の空気が張り詰める。
やがて監察官はファイルを閉じ、冷ややかに告げた。
「発言は記録する。君の立場は危うい」
取調べを終えて署に戻ると、机の上に匿名のメモが置かれていた。
〈気をつけろ。監察は氷室の息がかかっている〉
誰が書いたのか分からない。だが、確かに味方の存在を感じさせる走り書きだった。
夕方、加瀬が詰所の外で声をかけてきた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃありません」
「正直でいいな」
加瀬は缶コーヒーを差し出した。
「お前が孤立してるのは分かってる。でもな、全部敵じゃねえ」
「……?」
「副隊長も、本当は庇ってる。あの人のやり方は不器用だがな」
加瀬は煙草に火をつけ、暗くなり始めた空を見上げた。
「俺だって、最後までお前を見捨てねえよ」
「……ありがとうございます」
美由紀は初めて、心から礼を言った。
夜。
署の廊下で、意外な人物が声をかけてきた。
交通部の記録管理係に所属する女性警部補、谷口だった。
普段は会計課の資料整理を手伝ったり、書庫にこもっていることが多い人物だ。
「西條さん。これ……落とし物かもしれないけど」
差し出されたのは、事故現場の写真ファイルだった。
公式報告書には掲載されなかったアングルの写真。
SUVの運転席ドア近くに、酒瓶が転がっているのがはっきり写っていた。
「どうしてこれを」
谷口は小さく首を振った。
「私の名前は出さないでください。ただ……現場は、嘘をつかない」
その言葉に、美由紀の胸が震えた。
深夜。
机に戻り、写真をノートに挟んだ。
目撃証言、呼気数値、そして酒瓶の証拠。
点が線になり、やがて揺るがない形を描いていく。
氷室の影は濃く、組織は自分を潰そうとしている。
だが、その中に確かに“味方”がいる。
それだけで、孤独の闇にわずかな光が差し込んでいた。
窓の外、パトカーの赤色灯が夜を走り抜けた。
その光は短くとも、確かに道を照らしていた。
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