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しおりを挟む第一章 宣言
幼い頃は、あんなにも仲が良かったのに……
そう思ってしまってからである。自分の感情が、置き去りにされてゆくような感覚になったのは。
束の間の安逸を貪ることさえ許されない世界で、愛やら運命やらなにやらを謳うのは滑稽だと嗤う者もいるが、私はそれが永遠であり確固たる約束だと信じて疑わなかった。
(けれど、もう終わりかしら)
だって、彼は私を見つけてはくれない。私はどれだけ距離が離れていても、どれだけ彼が落ちぶれても、みっともなくなっても、見つける自信、愛する自信があったのに。
観念の臍を固める、その時が来たのだと悟った。
◇ ◇ ◇
アスカリオ帝国は、この世に生きている者ならば誰もが知っているであろう国の一つである。アスカリオ語は万国共通語と指定され、千紫万紅に彩られた帝都立公園は観光場所としても名を馳せているなどアスカリオの並外れた影響力が窺える。
そんな帝国で、我がクロローム家は公爵に叙されていた。帝国では公爵位は三家しか名乗ることが許されておらず、そのことからも畏敬するに値する家柄であると言える。それだけではなく、皇族に次ぐ権力を有し、歴史ある名家であることから、他の貴族から一目置かれているのも無理からぬことであった。
そのような家で長女として生を受けた私は、皇太子殿下と同い年であるということが災いし厳しく育てられた。家柄や権力等の釣り合いが取れるという理由で、皇太子殿下の婚約者として白羽の矢が立ってからは、一層熱の入る教育に一種の諦めさえ抱いていた。
毎日、侍女たちによって手入れが行き届いた金色の髪に、吹き出物一つない白い肌。コルセット知らずの細い腰を維持するため食事管理は徹底されている。
美しく、賢く、お淑やかな第一皇子殿下の婚約者、ジョージアナ公女。私はクロローム家が思い描いた美しい人形として生きていかなければならなかったのである。そんな贅沢で優雅だが、窮屈で厳しい生活に虚しさを感じていた時である。私よりも濃く美しい金髪と、禍々しいなにかが蠢く妖艶な紅い瞳をお持ちのランドン殿下にお会いしたのは。
出会った時は殿下に特別な感情は抱かなかった。殿下の幼いながらも完成された美貌には確かに驚いたが、それよりも蜜を湛える花に集る蜂の如く彼に群がっている令嬢たちに、かなり引いてしまったことを覚えている。人気のない殿方も大変そうだが、魅力的過ぎるというのも考え物だ。
殿下も殿下で大変だと同情を覚えたぐらいであった。
――興味が生まれたのはいつだっただろうか……
「失礼します、殿下」
生徒会役員とその関係者のみが使用を許可されている部屋の重々しい木製の扉を開くと、そこには椅子に座り、なにやら書類を読んでおられる殿下がいらっしゃった。宮中では皇太子として、学園では生徒会長として忙殺されている殿下の顔色は、心なしかあまりよろしくないように見える。
「ジョージアナじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に」
優し気な微笑を浮かべ、甘い蜂蜜のような声色で問うてくる殿下。
そんな彼を見て、脳裏に過るのは殿下との眩しく初々しくも、素敵な記憶であった。
隠れん坊という遊びの楽しさを教えてくださったことや、効率の良い勉強の仕方を教えてくださったこと。学園に通うことが少し緊張すると零した私に、僕がいるから大丈夫だと仰って、安心させてくださったこと。
全てが現実で起こったのことなのに、夢の世界で起こった出来事のようだと意識の底で悲しんだ。
殿下は、学園に入学してから徐々に、しかし確実に、私を避けるようになった。そして、まるで初恋に溺れ愛に縛られる私を嘲笑うように、殿下は私ではない令嬢を自身のお隣に置くようになったのである。
(今でも覚えているわ)
あの時の、目の前が暗い闇に染まるような絶望。魂が引き裂かれるような痛みに、呼吸の仕方さえ奪うような混乱。
全幅の信頼を置いていた相手に裏切られるという感覚は、想像を絶するものであった。
(それでも、嫌いになんてなれなくて)
私はこうして二年という月日が経った今でも、殿下の心を惨めにも、愚かにも、渇望しているのである。
(私の望みは、たった一つだけなのに)
――選ばれた令嬢と選ばれなかった私、一体なにが違うのか……
雁字搦めになった感情が私の心を再び縛ろうと、蛇のように絡みつく。その鎖から逃れるように、私は固く拳を握り、ふうっと息を吐いた。
(でも、これ以上、縋りついては駄目よ)
道を踏み外す前に、殿下に取り返しがつかないほど嫌われる前に……。自身の感情と決別しなくてはならない。その時が、来てしまったのだから。
「私は殿下のことをお慕い申し上げておりました」
突然の告白に、殿下は目を丸くして私を見つめる。私はそんな殿下を様々な感情を込めて見つめながら、努めて厳かな声で続けた。
「たとえ、殿下が皇太子ではなくただの男性になっても、その麗しいお顔が爛れても、足がなくなっても、変わらず愛を捧げられると自負しておりました」
「……ジョージアナ、あのことをまだ怒っているのかい? それについては謝るよ」
「いいえ、違いますわ」
間髪入れずに否定した。あのこととはおそらく、昨日、身分の低い令嬢と共にいたことだろう。
心の生傷がずきりと疼く。痛いと、辛いと、酷いと悲痛な声を上げる。私はそんな感情を敢えて見て見ぬ振りをした。ここで苦言を呈せば、縋れば、また同じことを繰り返すことになると分かっているからだ
もう殿下を捨てると決めた。
もう気にかけないと、己の恋心から殿下を解放して差し上げると、覚悟を決めたのだ。
私は凛とした声音で一言一言嚙みしめるように、申し上げた。
「殿下のことを愛していました、ですがそれをやめます。今まで、殿下の女性関係について口出しをして申し訳ございませんでした」
「……もしかして、別の方法で僕の気を引こうとしているの?」
胡乱げな感じに聞かれ、私は再び「いいえ」と否定した。
「今、この時より殿下への一切の干渉をやめると宣言させていただいているのです」
「そうなんだ。……でも、その宣言、わざわざする必要はあるかい?」
冷淡で突き放すような言い方である。実際、突き放すつもりで仰っているのだろう。
年月を経ると共に人は変わる。移ろいゆく心を止めることはできない。
(どうしてそのことに早く気づかなかったのか)
愚か者は一体誰なのか、分からなくなる。
「これは私自身への宣言でもありましたので。貴重なお時間を奪ってしまい、申し訳ございませんでした。二日三日はまだ心の整理ができないかもしれませんので、伝達事項等は公爵家を通していただきますようお願いします。では、失礼します」
殿下がなにか仰ってくださるのではないか、という淡い期待はもうなかった。裏切られることがおそろしいからではなく、期待するだけ無駄であると悟っていたからである。
私は殿下に深くお辞儀をすると、未練や恋情といったままならぬ感情を全て断ち切る思いで、お部屋から静かに退室した。
その日の空は、薄暗くどんよりと曇っており、快晴ではないあたりが実に私らしいと、自嘲の笑みをひっそりと零した。
◇ ◇ ◇
殿下に「もう愛するのをやめます」と宣言してからも、やはり私の心持ちは良好とは言えなかった。
殿下の女性関係は相変わらず華麗なままで、私の胸には嫉妬と絶望という汚い感情ばかりが残されてゆく。
厳格な父に婚約の解消を願っても、家名を重んじる母に泣き縋っても、どうにもならない。
(やはり、正解だったのよ……)
見知らぬ令嬢たちと一緒にいらっしゃる殿下を見かけて、私は無慈悲で残酷な現実から目を背けるように、私の心を奪うだけ奪って苦しめる殿下から逃げるように、その光景から目を逸らした。
いつもならば、心の中で芽生えた感情のまま殿下を問い詰めて苦言を呈したあと、屋敷に戻って悲劇の主人公の如く泣いていたことだろう。
だが、もうそのようなことはできない。
干渉しないと、愛するのをやめたと申し上げたのだ。賽は投げられた、後戻りはできない。
――温かく甘く、私を苛んできた恋情とお別れするとは、こういうことなのである。
私は友人のクレア様とミランダ様の元へと向かいながら、やはりあの宣言はお互いのためにも必要だったのだと改めて実感した。
◇ ◇ ◇
あれから七日という、長くも短い月日が流れたある日のことである。昼休みに、友達と三人で学園の中庭にある露台で昼餉をとっていると、露台から少し離れた場所を殿下と下級貴族令嬢が並んで歩いて行くのが見えた。
私は気にせず食事を進めたが、事情を知らぬ二人は違ったようだ。
「まあ、またですわ」
「なんてはしたないのかしら」
「ジョージアナ様、少々お待ちになっていて。わたくし、文句を言いに行ってきますわ」
そう言ってぶんぶんと片腕を回し、殴る準備をしているミランダ様を私は「必要ないわ」と止めた。
そんな私を不思議そうに、どこか訝しむように見て来る二人の友人。無理もない、いつもの私なら苦笑を浮かべつつも止めようとはしなかっただろう。いつかは、私を見てくれるのではないか……という愚かな期待を抱いていたからである。
だが、今後一切干渉しないと約束したのだ。殿下への恋情を断ち切ると宣言し、物理的にも距離を置かなければ。
これがなにを意味するのか張本人である私が一番理解している。
「殿下は帝国の宝。宝を独り占めしようなんて傲慢だったのよ」
「! そんなっ、ジョージアナ様は殿下の婚約者ではありませんか。当然の権利ですわ」
もう一人の友人クレア様が驚いたように反論するが、私は静かに首を振った。
「いいえ、その権利は行使できないただの紙切れだって漸く分かったの。私は所詮ただの婚約者、皇太子にとって都合の良い駒に過ぎない」
私は殿下の特別にはなれなかったと、静かに言葉を落とした。声から滲み出る感情は悔しさでも嘆きでも憤りでもなく、諦観であった。
「ジョージアナ様……」
勘の鋭い彼女たちのことである、殿下が私を愛することはないと気づいていたのだろう。ただ、無慈悲な現実から目を背け闇雲に愛を乞うていた私には言えなかっただけで。
「殿下は分からず屋ですね」
俯く私に、憤懣やるかたないという表情でミランダ様が言った。
「他人に愛されるということがどれだけ尊いものか、ご存知ないのですわ。それが無限ではない、ということも」
「全くです」
クレア様はぷくうと頬を膨らませ、ミランダ様の言葉に同意したあと、ついでにとばかり「いつか殿下は痛い目にあわれますよ」と至極真面目な口調で不吉な予言をした。
「痛い目? 地獄の炎で炙られるとかかしら」
「殿下にとっては同じようなものでしょう」
なにやら真剣に皇太子の不吉な未来について語り合う二人を見て、不謹慎なことにも私はふふっと声に出して笑った。決して穏やかとは言い難い話題であったが、そんな二人が愛おしくて仕方なかったのである。
幼い頃から、殿下は私にとって太陽のような存在であった。太陽を中心にして、私の世界は回っていた。
(でも、今は違う)
私のために憤り、私のために真剣に物事を考え、私の覚悟や決意を汲み取ってくれる彼女たちに心がじんわりと温もりを帯びた。殿下によって容赦なく抉られた傷口が、癒えていくような感覚さえ覚える。
己にとってなにが大切なのか、なにが必要なものなのか。今度こそ冷静な判断力をもって吟味しなくてはならない。
そんなことを考えているとミランダ様が「そうだわ!」と弾んだ声で言った。
「いつまでもこのようなお話をするのはやめましょう。ジョージアナ様のなさったことは英断ですし、殿下には天誅が下ることでしょう。はい、以上です」
そう言い切ったあと、ミランダ様は私たちの手をぎゅっと握った。
「実はわたくし、前々からやってみたかったことがあるんです。ジョージアナ様、クレア様、気分転換も兼ねてよろしければお供願えませんか?」
そう言ってにやりと微笑んだミランダ様の笑顔は、悪戯っ子特有の笑みであった。
◆ ◆ ◆
ジョージアナの「もう愛するのをやめます」という宣言以降、僕は彼女がなにを覚悟してそのようなことを言ったのかなんて考えることもなく、自由を楽しんでいた。
下級令嬢たちと一緒にいても、苦言を呈されることも、涙声で縋られることもない。ジョージアナたちになにかを言われたと訴えて来る令嬢もいなくなり、解放感さえ覚える。数年ぶりに大空を自由に羽ばたける鳥のような、そんな感覚に近かった。
しかし、それが三日も続く頃には奇妙ななにかを感じていた。歯と歯の隙間になにかが挟まっているようなはっきりとしたものではなく、なにかを失ったような、なにかを忘れているような……なんとも形容し難いものであった。
五日目になる頃には、漸くそれが違和感だと気づいた。
僕の隣に当たり前のようにいたジョージアナがいない。お茶を一緒にしないかと誘いにも来ない上、皇太子宮にも姿を見せることはない。
降り積もる違和感に恐怖と一抹の不安が加わったが、忙しいのだろう、気分ではなかったのだろうと結論付けることで、僕は気づかない振りを貫き通した。
――この時、きちんとジョージアナと向き合っていたら、救いようのない愚かな過ちに直ぐに気づけたことだろうに……
◇ ◇ ◇
(さっき、僕に気づいていたはずだ)
露台で友達と昼餉を楽しんでいたジョージアナを思い出しながら、苛立ちとも不安とも言える感情を誤魔化すように下唇を噛んだ。
目が合った時、ジョージアナになにかを言われるのではないかとおそれた。しかしそれと同じぐらい、なにかを言ってくれるのではないかと期待もしていた。
――なのに、彼女は文句を言いに来るどころかこちらを見て見ぬ振りをした……
令嬢たちが楽し気に笑いお喋りに夢中になっている姿を眺めながら、思考と胸を蝕む得体の知れぬなにかを振り払おうと紅茶を飲んでいると、側にやってきた側近であるエドワードが「少しよろしいですか」と、粛々とした雰囲気を醸し出しながら僕に耳打ちをした。
「ジョージアナ公女が先程、ご友人であるミジュエット候のご息女とアーガスト伯のご息女と共に早退なさったようです。体調がよろしくないとのこと」
「……早退?」
ジョージアナらしくない行動である。どれだけ体調が思わしくなくても、化粧と根性と矜持でそれを隠し、後で寝込むことが常だったジョージアナが、少々の体調不良如きで午後の授業を抜けるとは思えない。それに午後の授業は僕のクラスと合同で実験をする科目がある。それを常々楽しみにしていたジョージアナが抜けるなんて……
そこまで考えて、はっとした。そういえばジョージアナは僕のことを愛するのをやめる、と言っていたなと唐突に思い出したのだ。
(いや、あれはただの作戦に決まっている)
なにしろ、僕が浮気紛いのことをしようものなら物凄い剣幕で怒る令嬢なのだ。彼女とて本気ではないはずである。
――本当に……?
「殿下ぁ? どうなさいましたの?」
背中を剣の切っ先でなぞられているような、なんとも表現できぬ恐怖に暫し放心していると、なにも知らぬ令嬢が甘えた声で猫のように僕の腕にすり寄ってきた。僕はその拘束から逃れてから努めて何事もなかったかのように柔く微笑んだ。
「なんでもないよ。それより、クッキーでも食べるかい」
「殿下が食べさせてください~」
「どうしたの、今日はえらく甘えん坊だね?」
そんな風に令嬢と特に意味のない会話を繰り広げていると、側近がいつの間にかいなくなっていた。
(全く変わった人だ)
あの側近はきっとジョージアナに淡くも確かな恋心を抱いている。僕とジョージアナが話していると、必ずジョージアナに熱い視線を送っているのだから、ただの憶測ではないだろう。
だから、報告しなくてもいいことまで報告してくるのだ。
「あなたの婚約者は私がずっと見ている、あなたはそんなことをしている場合なのか」という、警告と牽制を兼ねて。
昔のようにジョージアナと仲良くしなくてもいいのか、と問われたら答えは「別に良い」だ。
ジョージアナは僕がどう足掻いたところで僕の将来の妃であり、未来の国母である。そこに好きだの嫌いだのという私情を挟むなんて愚の骨頂。
でも、ジョージアナはそうではないようだった。愛という幻影に惑わされていた。
「皇太子という地位に相応しい言動を心がけるようお願いいたします」と言って諭したかと思えば、「私ではいけませんか」と言って僕に縋りつこうとする。
ジョージアナがいやなわけでも、特別嫌いなわけでもない。これは本心だ。むしろ、賢く美しい女性が婚約者で幸せ者だとさえ思っている。
だが、僕にとってそういう対象ではなかった。本当にそれだけなのである。
(例の宣言だって、気にすることもないだろう)
「殿下? なにを考えていらっしゃるのですかー?」
「……ちょっとぼおっとしていただけだよ」
上目遣いでそんなことを訊いてくる令嬢に、僕は優しく微笑んだ。どこか作り物めいた笑顔である。
父である陛下は「胡散臭いからやめろ」と仰っていたが、この微笑一つで頑固な古狸や癇癪持ちな貴婦人、純粋無垢な令嬢まで意のままに操れるのだ。利用しない手はないだろう。
勿論、例外はいる。
僕は令嬢の視線から逃れるように、喋りかけてきた別の令嬢の会話に耳を傾けながら、今頃、ジョージアナはどうしているのだろうかと考えた。
頑固で我慢強いジョージアナが早退するということは、それだけ体調が思わしくないということである。大したことがなければそれで良いのだが、病というのは気軽に人の命を弄び、最終的には無慈悲にも奪っていくおそろしいものだ。
(放課後、お見舞いに行こう)
そう決めた僕は、愚かなことにも気づいていなかった。
――ジョージアナの「愛するのをやめます」という宣言が、未来永劫続くものであるということに。
◇ ◇ ◇
授業終了のベルが鳴ると、必ずジョージアナが「このあと、お茶でも如何ですか?」と赤薔薇がぶわっと咲いたような満面の笑みを浮かべて誘ってくれる。
そんな彼女がいないという事実が、何故か胃を締め付けるような気持ちの悪さをもたらし、僕は早々に迎えの馬車に乗った。
「宮廷に戻られますか?」
待機していた側近に聞かれ、僕は迷わず答えた。
「いや、ジョージアナの屋敷に行く」
「え!? ジョージアナ公女のお屋敷にですか?」
「そうだけど。なにか問題でも?」
「いいえ。畏まりました」
側近がやや驚いたように了承したので、失礼だなと眉を寄せる。まさか、僕が婚約者の体調不良でさえ気にしない人間だとでも思っているのだろうか。
僕はなにもジョージアナを蛇蝎の如く嫌っているわけではない。ただ、婚約者としてしか見ていないだけで、虐げたいとかいじめたいとかそんな感情を抱いているわけではないのだ。
(僕はそんなにも薄情な婚約者に見えているのだろうか)
とある令嬢と遊んでいるのをジョージアナに知られた時、泣きも怒りもせず淡々と呆れたように僕を見ていた彼女の姿をふと思い出した。
『せめて、お相手を絞ってください。節操のない方だと悪評が立つのは殿下です』
(確かに僕は薄情なのかもしれない)
勝手に、彼女が僕に対する愛や恋なんかに現を抜かしているからそう言っているだけかと、妬みや嫉みの類の感情のせいだと、思い込んでいたが。
「僕を思って言ってくれていた言葉もあったのだろうな」
「? 殿下?」
「見舞いに行くのに手ぶらっておかしいよね。近くの花屋とか、お菓子屋とかで、馬車を止めてくれないか。ジョージアナに見舞いの品を買うから」
相手は皇族さえ無暗に手を出せぬ公爵家の姫君。本来ならば希少かつ高価な花や、平民ではとても手が出せないようなお菓子が見舞いの品としては相応しいのだろう。
だが、なんとなくジョージアナにはどこにでもあるような花が似合うだろうと、そう思った。決して蔑視んでいるわけではなく、彼女なら喜んでくれるだろうという温かな気持ちからだった。
「いらっしゃいませー、どんなお花をお求めですか?」
僕の服装を見て上客が来たと愛想の良い笑顔を浮かべつつも、しっかり秋波も送ってくる強かな女店員に、皇太子然とした微笑で返しながら問うた。
「女性に贈りたいのだが、良い花はあるか?」
聡明で優雅な女性だと付け足すと、女店員はやや目を丸くしたあと、どこか楽しそうに飾られている花を見渡す。
「んー、でしたらデージーとかはどうでしょう。この通り、華やかな見た目ですし優雅な女性にぴったりですよ」
大輪の赤薔薇姫と呼ばれているジョージアナには少々地味に思えたが、紅く色づいた艶やかな花は確かに彼女に似合うだろう。購入しようと控えていた側近に声をかけようとした時であった。
「あらまあ、奇遇ですね旦那様。どこぞのご令嬢にでも贈るおつもりですの?」
軽蔑が見え隠れするどこか聞き覚えがある声がしたほうを見ると、そこには町娘の恰好をしながらも高貴さが隠しきれていないジョージアナと、その友人たちが様々な感情をこめてこちらを見ていた。
「! ジョージアナ……」
「でん……旦那様、ごきげんよう。珍しいですね、旦那様自らお花を購入なさるなんて」
そう言ってふわっと穏やかに微笑んだジョージアナからは、嫉妬も憤怒もなにも感じられなかった。
そこにあるのは淡々とした凪いだ海のような感情で、極めて穏やかなものだった。
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