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開幕
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妖精や魔法など、目に見えないものは絶対に信じないというような頑固さはなかったが、民や貴族たちが崇拝する、素晴らしい神は決して存在しないだろうと思っていた。
もしも、彼らの言うように素晴らしい神が本当にいるのだとしたら、その神はひと匙の慈悲をかけるのも面倒に思うぐらい、私にちっとも興味がないに違いない。
――そう、思っていたのに……。
「今日は良い天気ですね」
何度も何度も脳内で反芻し、それでも手から零れ落ちる砂のようにするすると消えていったはずの彼女の声が、鼓膜を心地よく震わせる。
いったい、なにが起こっているのか。とんと理解できず、呆然としている私に気づかぬのか、彼女は極めて優雅に、しかし忙しなく動いていた。
棺の蓋が完全に閉まるその寸前まで握っていた彼女の白い手が、癖が強い私の茶髪を器用に結い上げる。薄桃色の紐で蝶々結びをし、中央に造花を飾るその手は手慣れたものだ。
(なにがどうなっているの……)
死後、天国で生前親しかった人と再会するというのは御伽噺ではよくある話である。
だがしかし、私が住んでいた皇女宮という場所は置いておいたとしても、感動も歓喜も涙もなにもないこの状況。
此れは如何に。
情報量の多さと世の常識をすべてひっくり返すような事態に、開いた口が塞がらない。
その間も、彼女は穏やかに言葉を紡ぐ。
「朝餉はどこでお召し上がりになりましょう? 日差しが強いですが、外で食べるのも気持ちよさそうですよ。最近は雨が続いていてお散歩もできませんでしたし、運動も兼ねてどうでしょう?」
豪奢な耳飾りで私の両耳を華やかにしながら、彼女……リリーは花が咲くような笑みを浮かべた。
雲1つとない青空を連想させる瞳に、30過ぎという年齢を感じさせない屈託のない笑顔。ふわりと鼻孔を擽るのは、金木犀の香りだ。
懐かしくも愛おしいそれらに、きゅうっと胸が締め付けられる。
(もう2度と会えぬと思っていたのに)
あまりにも、あまりにも都合の良い話だ。
死に損なった私が生と死の境目で見る記憶の1つか、地獄行きの馬車に乗る前の束の間の夢幻か。あるいは、薄情な神なりの餞別か。
(そんなこと、考えるだけ無駄だよね……)
大好きな人ともう1度会えたのだから、これ以上のことはあるまい。
リリーに抱きつきその温もりを確かめながら、非現実的な状況にとうとう悲鳴を上げた頭の片隅でそんなことを思う。
「あらあら、どうなさったんですか。今日はいつにも増して甘えたさんですね」
ふふふっと、鈴の音を転がすように笑うリリー。
懐かしい匂いと優しさに包まれながら、私はそっと瞼を閉じた。溢れそうになる涙も、ちくりと心臓をつつく煩わしい痛みも無視して。
――神はたしかに、存在していたのだ。
*
亡き乳母と再会を果たせた日から、今日で3日目。
私の願望が作り出したような、摩訶不思議でまったく原理が分からぬこの事態は、決して自身が描いていたような儚いものではなかったのだと、私は気づいてしまった。
………否。
本当はとっくに気づいていた。
鏡越しにうつる自身の姿が、5年ほど幼くなっているのも。
取り上げられたはずの人形が、きれいな姿のまま寝台の上を陣取っているのも。
自身の記憶通りに、物事が進んでいることも。
全部全部全部、気づいていたが気づかぬふりをしていた。
それこそ、魔法やら竜やらが登場する御伽噺でもない限り有り得ない……という理由もあるが、1番は、それを認めてしまえば、束の間の幸せさえ終わってしまうような気がしてならなかったのである。
漸く、私の手に転がり落ちて来た「幸運」。
大事に大事にするつもりだったそれが、蝋燭の炎のようにふっと消えていってしまわれては堪らぬ。
なんの予告もなく転がり落ちてきたそれを、故人と再会できるという「幸運」に置き換えることで、非情な現実から目を背けたかったとも言えよう。
なにを隠そう、突如私のもとへ転がり落ちてきたなにかは、「幸運」ではなく、大罪を犯したくせに償わず卑怯な手口で逃げようとした私への、罰だったのである。
時を巻き戻し機会を与えてやるかわりに、次は決して逃げるではないという、神からの贈り物。
かくも運命というものは残酷なものだったかと、頭を抱えたくなった。
「ダリア皇女殿下にご挨拶いたします。アチェロ侯爵の息子、ギルバートにございます」
そう言って、恭しく頭を下げる少年を複雑な心持ちで見つめる。
闇夜のような黒髪から、長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳がのぞく。聡明さがうかがえる瞳には、かつて自身を騙すために愛を囁いていたときのような、熱や甘さはどこにも見当たらない。
ギルバート・アチェロ。
私が愛してやまぬ人。
無知蒙昧だが腐っても皇族であった私を上手に利用し、帝国ロージュールの新たな帝となった冷酷で素晴らしい人。
彼を見た瞬間、私は抗うことを諦めた。
自身が5年前に回帰するという不可思議な体験をしているということを。「14歳の皇女ダリア」として、いやでも生きていかねばならぬということを。
現実に起きっていることとして、受け入れざるを得なくなったからだった。
もしも、彼らの言うように素晴らしい神が本当にいるのだとしたら、その神はひと匙の慈悲をかけるのも面倒に思うぐらい、私にちっとも興味がないに違いない。
――そう、思っていたのに……。
「今日は良い天気ですね」
何度も何度も脳内で反芻し、それでも手から零れ落ちる砂のようにするすると消えていったはずの彼女の声が、鼓膜を心地よく震わせる。
いったい、なにが起こっているのか。とんと理解できず、呆然としている私に気づかぬのか、彼女は極めて優雅に、しかし忙しなく動いていた。
棺の蓋が完全に閉まるその寸前まで握っていた彼女の白い手が、癖が強い私の茶髪を器用に結い上げる。薄桃色の紐で蝶々結びをし、中央に造花を飾るその手は手慣れたものだ。
(なにがどうなっているの……)
死後、天国で生前親しかった人と再会するというのは御伽噺ではよくある話である。
だがしかし、私が住んでいた皇女宮という場所は置いておいたとしても、感動も歓喜も涙もなにもないこの状況。
此れは如何に。
情報量の多さと世の常識をすべてひっくり返すような事態に、開いた口が塞がらない。
その間も、彼女は穏やかに言葉を紡ぐ。
「朝餉はどこでお召し上がりになりましょう? 日差しが強いですが、外で食べるのも気持ちよさそうですよ。最近は雨が続いていてお散歩もできませんでしたし、運動も兼ねてどうでしょう?」
豪奢な耳飾りで私の両耳を華やかにしながら、彼女……リリーは花が咲くような笑みを浮かべた。
雲1つとない青空を連想させる瞳に、30過ぎという年齢を感じさせない屈託のない笑顔。ふわりと鼻孔を擽るのは、金木犀の香りだ。
懐かしくも愛おしいそれらに、きゅうっと胸が締め付けられる。
(もう2度と会えぬと思っていたのに)
あまりにも、あまりにも都合の良い話だ。
死に損なった私が生と死の境目で見る記憶の1つか、地獄行きの馬車に乗る前の束の間の夢幻か。あるいは、薄情な神なりの餞別か。
(そんなこと、考えるだけ無駄だよね……)
大好きな人ともう1度会えたのだから、これ以上のことはあるまい。
リリーに抱きつきその温もりを確かめながら、非現実的な状況にとうとう悲鳴を上げた頭の片隅でそんなことを思う。
「あらあら、どうなさったんですか。今日はいつにも増して甘えたさんですね」
ふふふっと、鈴の音を転がすように笑うリリー。
懐かしい匂いと優しさに包まれながら、私はそっと瞼を閉じた。溢れそうになる涙も、ちくりと心臓をつつく煩わしい痛みも無視して。
――神はたしかに、存在していたのだ。
*
亡き乳母と再会を果たせた日から、今日で3日目。
私の願望が作り出したような、摩訶不思議でまったく原理が分からぬこの事態は、決して自身が描いていたような儚いものではなかったのだと、私は気づいてしまった。
………否。
本当はとっくに気づいていた。
鏡越しにうつる自身の姿が、5年ほど幼くなっているのも。
取り上げられたはずの人形が、きれいな姿のまま寝台の上を陣取っているのも。
自身の記憶通りに、物事が進んでいることも。
全部全部全部、気づいていたが気づかぬふりをしていた。
それこそ、魔法やら竜やらが登場する御伽噺でもない限り有り得ない……という理由もあるが、1番は、それを認めてしまえば、束の間の幸せさえ終わってしまうような気がしてならなかったのである。
漸く、私の手に転がり落ちて来た「幸運」。
大事に大事にするつもりだったそれが、蝋燭の炎のようにふっと消えていってしまわれては堪らぬ。
なんの予告もなく転がり落ちてきたそれを、故人と再会できるという「幸運」に置き換えることで、非情な現実から目を背けたかったとも言えよう。
なにを隠そう、突如私のもとへ転がり落ちてきたなにかは、「幸運」ではなく、大罪を犯したくせに償わず卑怯な手口で逃げようとした私への、罰だったのである。
時を巻き戻し機会を与えてやるかわりに、次は決して逃げるではないという、神からの贈り物。
かくも運命というものは残酷なものだったかと、頭を抱えたくなった。
「ダリア皇女殿下にご挨拶いたします。アチェロ侯爵の息子、ギルバートにございます」
そう言って、恭しく頭を下げる少年を複雑な心持ちで見つめる。
闇夜のような黒髪から、長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳がのぞく。聡明さがうかがえる瞳には、かつて自身を騙すために愛を囁いていたときのような、熱や甘さはどこにも見当たらない。
ギルバート・アチェロ。
私が愛してやまぬ人。
無知蒙昧だが腐っても皇族であった私を上手に利用し、帝国ロージュールの新たな帝となった冷酷で素晴らしい人。
彼を見た瞬間、私は抗うことを諦めた。
自身が5年前に回帰するという不可思議な体験をしているということを。「14歳の皇女ダリア」として、いやでも生きていかねばならぬということを。
現実に起きっていることとして、受け入れざるを得なくなったからだった。
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美しい描写でとても引き込まれました!
続きが楽しみです😙
感想ありがとうございます(о´∀`о)
そう言ってもらえて嬉しいです♡
また更新したさい遊びに来てくださいませ、お待ちしております!
こんにちは。
早速拝見させて頂きました笑
ここから巻き戻るのですね。
これからの展開を楽しみにしております😄
こんにちは(о´∀`о)
そう言ってもらえて嬉しいです♡
更新はまちまちになってしまうかと思いますが、最後まで付き合ってくださったら光栄です!