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明くる日は朝から雨が降り続いた。
卯の花腐しといった降り方で客足は途絶えがちで、夕時早めに大戸を下ろした。風邪をひいたのか鼻水が止まらぬ半次郎は、店仕舞いが済むと茂吉をつかまえて頭を下げた。
「この雨の中申し訳ないのやけど、昨日教えてもらった下絵師の家に、前金の足らん分を届けてもらいたい、よろしゅう頼みます。どうも風邪みたいで調子悪くて」
「えらい張り切り過ぎと違いますか、若旦那さん。落ち着かなあきまへん。まあ、届けるだけなら行ってきますわな」
半次郎は文箱の底に秘蔵していたニ朱銀三粒を、懐紙に包んで茂吉に託した。とうとう最後の全財産で、何かの時、どうしても欲しい読本を買うときにと、貯めていた金である。
「下絵師の豊太郎はん、凄腕やなあ。ちょっと見てる間に図案の下絵を何枚も描き散らして、どれも見事な出来やった」
「仕事が早いと評判らしいですね……」
茂吉は眉根を寄せて仕着せの上に半合羽を着込み、番傘を手に店の潜り戸から出かけていった。
二日ほどして半次郎の鼻水も止まった。長雨が上がってからは初夏の陽気で、東山山麓は新緑の萌黄色に染まり目映いほどだ。
半次郎は店の仕事を終えた夕刻、いそいそと西陣へと向かっていた。赤紫から群青へと滲んでいく西空を目指して二条通を行けば、袷の結城木綿が汗で背に張りつく。
織屋建が並ぶ西陣を北へ抜けて、寺之内通を脇道に入る。小体な豊太郎の家が見えてきた。
表戸の前まで来てみれば、戸が少し開いている。
「不用心やなあ。豊太郎はん、富美屋です」
そう声をかけて戸の内を覗くが、暗い家内には人気がない。思い切って戸を大きく開けた。
「これは……一体どういうことや!」
先日の色とりどりの光景が嘘のように、中はがらんとしている。灯のない室内に目を凝らせば、壁一面に貼られていた図案や浮世絵の写し、畳に散らばっていた絵皿や画紙などが消え失せていた。家具調度、火鉢に文机、手文庫、座布団やらも跡形もない。もぬけの殻である。
よくよく見渡せば、土間の右手奥、竈の脇に放られた破れ笊に折り畳んだ紙が載っていた。
飛びついて開いてみる。先夜に描いた図案のうち一枚だけが残されていた。
「なんかあったんやろうか……」
半次郎は絵師の家を飛び出し、『織定』の家へと駆けた。
織屋の定七は、戸口から入った途端に騒ぎたてる半次郎の顔を平然と見返した。
「ああ、豊太郎な、あれは図案の下絵師やなくて本来の絵師に戻りたいて、前から言ってたらしい。家におらんのやったら西陣から出て行ったんやろうな」
「そんな、前金を渡して雪華の図案、お願いしていたんですよ」
「それで金が貯まったから出て行ったんや。絵の腕前は大したもんやったからな。江戸で絵の師匠に破門されたとか聞いてたけど、ほとぼり冷めたから戻って出直すつもりなんかもしれん」
淡々と語る定七を前に、半次郎は呆然と残された図案に見入るばかりである。
「あの絵師の下絵で帯作ると決めて、有り金はたいて前金を渡しましたんや。もう下絵を頼む金はありまへん」
「あんた、一杯食わされたんや。しっかりせなあきまへん」
定七は厳しい口調で言って、半次郎の肩を強く叩いた。
「その下絵、見せてみ。……ふうん、肝心の色が挿せてないのか。それに立涌文様は大胆やのに、雪華の他に柄がなくては帯としてもの足らん。これでは図案にならんな」
定七は下絵を突き返してくる。
「まあ別の下絵師を探すことや」
定七はそう言うと、土間に立ち尽くす半次郎に背を向けて空引き機を操る職人の方へ戻っていく。
項垂れたまま半次郎は表戸を出た。
頭の中にいくつも浮かんで耀いていた雪華柄が、急に真っ白に霞んでいく。
「富美屋さん、待っとくなはれ。これを」
後ろから声を掛けられて、立ち止まる。振り返る気力もない半次郎の前に、小柄な女が何かを差し出してきた。
「これ、内儀さんからです。ほな」
小さな紙きれを半次郎の懐にねじ込んで帰っていく。顔を覚えていなかったが、定七の織屋で働いていた娘のようである。
紙切れをよく見ると、三軒ほどの住まいと名が小さい字で書いてあった。
半次郎は礼を言うのも忘れて、とぼとぼと西陣の通を南へと引き返していった。晩になって糸のような雨が降り出して、汗で湿った縞木綿の背をさらに濡らしていった。
卯の花腐しといった降り方で客足は途絶えがちで、夕時早めに大戸を下ろした。風邪をひいたのか鼻水が止まらぬ半次郎は、店仕舞いが済むと茂吉をつかまえて頭を下げた。
「この雨の中申し訳ないのやけど、昨日教えてもらった下絵師の家に、前金の足らん分を届けてもらいたい、よろしゅう頼みます。どうも風邪みたいで調子悪くて」
「えらい張り切り過ぎと違いますか、若旦那さん。落ち着かなあきまへん。まあ、届けるだけなら行ってきますわな」
半次郎は文箱の底に秘蔵していたニ朱銀三粒を、懐紙に包んで茂吉に託した。とうとう最後の全財産で、何かの時、どうしても欲しい読本を買うときにと、貯めていた金である。
「下絵師の豊太郎はん、凄腕やなあ。ちょっと見てる間に図案の下絵を何枚も描き散らして、どれも見事な出来やった」
「仕事が早いと評判らしいですね……」
茂吉は眉根を寄せて仕着せの上に半合羽を着込み、番傘を手に店の潜り戸から出かけていった。
二日ほどして半次郎の鼻水も止まった。長雨が上がってからは初夏の陽気で、東山山麓は新緑の萌黄色に染まり目映いほどだ。
半次郎は店の仕事を終えた夕刻、いそいそと西陣へと向かっていた。赤紫から群青へと滲んでいく西空を目指して二条通を行けば、袷の結城木綿が汗で背に張りつく。
織屋建が並ぶ西陣を北へ抜けて、寺之内通を脇道に入る。小体な豊太郎の家が見えてきた。
表戸の前まで来てみれば、戸が少し開いている。
「不用心やなあ。豊太郎はん、富美屋です」
そう声をかけて戸の内を覗くが、暗い家内には人気がない。思い切って戸を大きく開けた。
「これは……一体どういうことや!」
先日の色とりどりの光景が嘘のように、中はがらんとしている。灯のない室内に目を凝らせば、壁一面に貼られていた図案や浮世絵の写し、畳に散らばっていた絵皿や画紙などが消え失せていた。家具調度、火鉢に文机、手文庫、座布団やらも跡形もない。もぬけの殻である。
よくよく見渡せば、土間の右手奥、竈の脇に放られた破れ笊に折り畳んだ紙が載っていた。
飛びついて開いてみる。先夜に描いた図案のうち一枚だけが残されていた。
「なんかあったんやろうか……」
半次郎は絵師の家を飛び出し、『織定』の家へと駆けた。
織屋の定七は、戸口から入った途端に騒ぎたてる半次郎の顔を平然と見返した。
「ああ、豊太郎な、あれは図案の下絵師やなくて本来の絵師に戻りたいて、前から言ってたらしい。家におらんのやったら西陣から出て行ったんやろうな」
「そんな、前金を渡して雪華の図案、お願いしていたんですよ」
「それで金が貯まったから出て行ったんや。絵の腕前は大したもんやったからな。江戸で絵の師匠に破門されたとか聞いてたけど、ほとぼり冷めたから戻って出直すつもりなんかもしれん」
淡々と語る定七を前に、半次郎は呆然と残された図案に見入るばかりである。
「あの絵師の下絵で帯作ると決めて、有り金はたいて前金を渡しましたんや。もう下絵を頼む金はありまへん」
「あんた、一杯食わされたんや。しっかりせなあきまへん」
定七は厳しい口調で言って、半次郎の肩を強く叩いた。
「その下絵、見せてみ。……ふうん、肝心の色が挿せてないのか。それに立涌文様は大胆やのに、雪華の他に柄がなくては帯としてもの足らん。これでは図案にならんな」
定七は下絵を突き返してくる。
「まあ別の下絵師を探すことや」
定七はそう言うと、土間に立ち尽くす半次郎に背を向けて空引き機を操る職人の方へ戻っていく。
項垂れたまま半次郎は表戸を出た。
頭の中にいくつも浮かんで耀いていた雪華柄が、急に真っ白に霞んでいく。
「富美屋さん、待っとくなはれ。これを」
後ろから声を掛けられて、立ち止まる。振り返る気力もない半次郎の前に、小柄な女が何かを差し出してきた。
「これ、内儀さんからです。ほな」
小さな紙きれを半次郎の懐にねじ込んで帰っていく。顔を覚えていなかったが、定七の織屋で働いていた娘のようである。
紙切れをよく見ると、三軒ほどの住まいと名が小さい字で書いてあった。
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