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18、秘密
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「それでは奥様、何かございましたらお呼びください」
「ええ、わかったわ」
静かに扉を閉められ、タバサが部屋から遠ざかるのを確認すると、セシリアは抽斗から四つ折りの書置きを出して机に広げて置き、次に戸棚にある箱を取り出した。
中にはもう何度も使用して、外用の靴になりつつあるルームシューズが入っている。取り出してバルコニーに置くと、今履いている部屋履きを脱ぎ、外用のものに履き替えた。
そのまま、階段を下りていく。もう怖いとは思わなかった。むしろ何かから自由になったような解放感を味わい、高揚感と期待に胸を高鳴らせた。
セシリアの脱走は、一度だけでは終わらなかった。
最初は慣れないことをやってすごく疲れたし、何よりばれたかもしれないと思って気が気ではなかった。もうこんなことはやめよう……そう思っていたのだが、二、三日経つと、また外へ出ていた。
不安や疲労があっても、あの日感じた喜びは得難かった。もう一度やりたくてたまらなかった。
二度目も成功すると、もう大丈夫だろうという自信と余裕を手に入れてセシリアは手際よく外へ出るようになった。
そしてもっと大胆になった。
(気持ちよさそう……)
太陽は毎日容赦なく熱を大地に浴びせてくる。その眩しい光は泉にも降り注ぎ、きらきらと宝石のような輝きを放っていた。
恵みの水に吸い寄せられるようにセシリアは首を覆うシャツの釦に手をかけ、気づいたら全ての服を脱ぎ捨てて泉に飛び込んでいた。
(あぁ、冷たい! 気持ちいい!)
こんなこと貴族の夫人が――若い女性がしていいことではない。
わかってはいるが、衝動は抑えられず、また禁忌だからこそ破りたかった。
冷たい水に全身を浸からせ――長い髪はさすがに乾かすのが大変なので濡れないよう気を付けて、縦横無尽に水の中を泳いでいると、今まで蓄積されていた悲しみや鬱憤が全て流れ落ちていき、自分が生まれ変わっていく気がした。
(ここにいる間は、何も気にしなくていい。わたしは平民でも貴族でもない……)
いや、人間にはもともと身分の差などないのだ。誰かが勝手に作って、それをみんなが信じて従っているだけ。魚や鳥からすれば、自分たちはみんな同じ存在、ただの人間にしか見えないのだ。
無理矢理な理屈だが、今はその真実がスッと心に入ってくる。
心ゆくまで泳いで泉から上がると、犬猫が全身をぶるぶるっと震わせて水気を飛ばすように頭を振って、ハンカチで濡れた身体を拭いた。
暑いのですぐ乾き、手早く衣服を纏う。昼寝をすると言っているので、コルセットはつけておらず、自分でも脱ぎ着できる。
(次はちゃんと拭くものを持ってきて、服ももっと簡素なものにしよう)
水浴びをするためにあれこれと考えている自分が何だかおかしい。
でも、たまらなく楽しかった。
(さぁ、急いで帰らなくちゃ)
タバサに見つからないように。彼女だけでなく、他の使用人やクライヴにも、この秘密は決してばれてはいけない。
「――最近、何か変わったことはあるか?」
「え?」
夕食時、突然そんなことをクライヴに訊かれ、セシリアは目を丸くする。
「いいえ、特には……どうしてです?」
「タバサや使用人が、きみが明るくなったと言っていた」
セシリアは微笑んで、そうですねと答えた。
「わたしのことを心配して、いろいろと気遣ってくれたおかげだと思います」
「そうか……」
「クライヴ様にも、ご心配をおかけしました」
セシリアはいつになく明るい口調でそう言った。
彼や使用人たちが指摘した通り、自分は明るくなったと思う。毎日がとても楽しい。
密かに笑みを浮かべるセシリアをクライヴはじっと見ていたが、彼女は明日のことを考えることで頭がいっぱいになり、気づかなかった。
◆
次の日もセシリアは泉に来ていた。今日はきちんとタオルも持参している。ドレスも暑いからとタバサに言って、シュミーズドレスを着せてもらった。
それらをすべて脱いで草原へ落とすと、大きな岩を支えにしながら、爪先からそっと水に浸からせていく。今日は一際暑く、早く水の中に入りたかった。
水音を立てて入水すると、セシリアは笑顔を浮かべる。そのまま魚になった心地で自由に泳ぎ回った。疲れると、半分だけ身体を陸に上がらせ、青い空を眺めて目を瞑った。そしてまた水が恋しくなったように泳ぐことを繰り返した。
どれくらいそうしていただろうか。
そろそろ上がって、後は木陰で休もうと思ったセシリアは泉から出る。
タオルに手を伸ばそうとしたところで、草を踏む音がして何気なく顔を上げ、凍り付いた。
人がいた。しかも男性で、もっとも知られてはいけない相手――クライヴだった。
「ク、クライヴ様……」
セシリアは頭の中が真っ白になった。
どうして彼がここにいるのか。一体いつから見ていたのか。
氷のような冷たい瞳で自分を見つめている。裸であることに今さら強い羞恥を覚え、ばっと胸を隠す。
「あの、クライヴ様、少しお待ちいただけますか。わたし、すぐに着替えますので……」
クライヴはセシリアの下手な時間稼ぎに一切耳を傾けず、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
怒られる。タバサたちを欺いて、嘘をついて、こんな場所まで来てしまったから。公爵家の、クライヴの妻であるのに、裸になって泳いでいたりしたから……。
セシリアは怖くなって、無意識に後ろへ下がっていた。いっそ水の中へ逃げ込んでしまおうと思い、身体の向きを変えるが、恐怖と焦りで足がもつれ、身体が傾く。幸い、目の前は水面だ。どうせならもうこのまま泉へ飛び込んでしまおうと覚悟を決めるが、ぐいっとセシリアは腕を引っ張られ、腰を引き寄せられる。
気づけば、クライヴの胸に頬を押し当てて、抱きしめられていた。
「ええ、わかったわ」
静かに扉を閉められ、タバサが部屋から遠ざかるのを確認すると、セシリアは抽斗から四つ折りの書置きを出して机に広げて置き、次に戸棚にある箱を取り出した。
中にはもう何度も使用して、外用の靴になりつつあるルームシューズが入っている。取り出してバルコニーに置くと、今履いている部屋履きを脱ぎ、外用のものに履き替えた。
そのまま、階段を下りていく。もう怖いとは思わなかった。むしろ何かから自由になったような解放感を味わい、高揚感と期待に胸を高鳴らせた。
セシリアの脱走は、一度だけでは終わらなかった。
最初は慣れないことをやってすごく疲れたし、何よりばれたかもしれないと思って気が気ではなかった。もうこんなことはやめよう……そう思っていたのだが、二、三日経つと、また外へ出ていた。
不安や疲労があっても、あの日感じた喜びは得難かった。もう一度やりたくてたまらなかった。
二度目も成功すると、もう大丈夫だろうという自信と余裕を手に入れてセシリアは手際よく外へ出るようになった。
そしてもっと大胆になった。
(気持ちよさそう……)
太陽は毎日容赦なく熱を大地に浴びせてくる。その眩しい光は泉にも降り注ぎ、きらきらと宝石のような輝きを放っていた。
恵みの水に吸い寄せられるようにセシリアは首を覆うシャツの釦に手をかけ、気づいたら全ての服を脱ぎ捨てて泉に飛び込んでいた。
(あぁ、冷たい! 気持ちいい!)
こんなこと貴族の夫人が――若い女性がしていいことではない。
わかってはいるが、衝動は抑えられず、また禁忌だからこそ破りたかった。
冷たい水に全身を浸からせ――長い髪はさすがに乾かすのが大変なので濡れないよう気を付けて、縦横無尽に水の中を泳いでいると、今まで蓄積されていた悲しみや鬱憤が全て流れ落ちていき、自分が生まれ変わっていく気がした。
(ここにいる間は、何も気にしなくていい。わたしは平民でも貴族でもない……)
いや、人間にはもともと身分の差などないのだ。誰かが勝手に作って、それをみんなが信じて従っているだけ。魚や鳥からすれば、自分たちはみんな同じ存在、ただの人間にしか見えないのだ。
無理矢理な理屈だが、今はその真実がスッと心に入ってくる。
心ゆくまで泳いで泉から上がると、犬猫が全身をぶるぶるっと震わせて水気を飛ばすように頭を振って、ハンカチで濡れた身体を拭いた。
暑いのですぐ乾き、手早く衣服を纏う。昼寝をすると言っているので、コルセットはつけておらず、自分でも脱ぎ着できる。
(次はちゃんと拭くものを持ってきて、服ももっと簡素なものにしよう)
水浴びをするためにあれこれと考えている自分が何だかおかしい。
でも、たまらなく楽しかった。
(さぁ、急いで帰らなくちゃ)
タバサに見つからないように。彼女だけでなく、他の使用人やクライヴにも、この秘密は決してばれてはいけない。
「――最近、何か変わったことはあるか?」
「え?」
夕食時、突然そんなことをクライヴに訊かれ、セシリアは目を丸くする。
「いいえ、特には……どうしてです?」
「タバサや使用人が、きみが明るくなったと言っていた」
セシリアは微笑んで、そうですねと答えた。
「わたしのことを心配して、いろいろと気遣ってくれたおかげだと思います」
「そうか……」
「クライヴ様にも、ご心配をおかけしました」
セシリアはいつになく明るい口調でそう言った。
彼や使用人たちが指摘した通り、自分は明るくなったと思う。毎日がとても楽しい。
密かに笑みを浮かべるセシリアをクライヴはじっと見ていたが、彼女は明日のことを考えることで頭がいっぱいになり、気づかなかった。
◆
次の日もセシリアは泉に来ていた。今日はきちんとタオルも持参している。ドレスも暑いからとタバサに言って、シュミーズドレスを着せてもらった。
それらをすべて脱いで草原へ落とすと、大きな岩を支えにしながら、爪先からそっと水に浸からせていく。今日は一際暑く、早く水の中に入りたかった。
水音を立てて入水すると、セシリアは笑顔を浮かべる。そのまま魚になった心地で自由に泳ぎ回った。疲れると、半分だけ身体を陸に上がらせ、青い空を眺めて目を瞑った。そしてまた水が恋しくなったように泳ぐことを繰り返した。
どれくらいそうしていただろうか。
そろそろ上がって、後は木陰で休もうと思ったセシリアは泉から出る。
タオルに手を伸ばそうとしたところで、草を踏む音がして何気なく顔を上げ、凍り付いた。
人がいた。しかも男性で、もっとも知られてはいけない相手――クライヴだった。
「ク、クライヴ様……」
セシリアは頭の中が真っ白になった。
どうして彼がここにいるのか。一体いつから見ていたのか。
氷のような冷たい瞳で自分を見つめている。裸であることに今さら強い羞恥を覚え、ばっと胸を隠す。
「あの、クライヴ様、少しお待ちいただけますか。わたし、すぐに着替えますので……」
クライヴはセシリアの下手な時間稼ぎに一切耳を傾けず、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
怒られる。タバサたちを欺いて、嘘をついて、こんな場所まで来てしまったから。公爵家の、クライヴの妻であるのに、裸になって泳いでいたりしたから……。
セシリアは怖くなって、無意識に後ろへ下がっていた。いっそ水の中へ逃げ込んでしまおうと思い、身体の向きを変えるが、恐怖と焦りで足がもつれ、身体が傾く。幸い、目の前は水面だ。どうせならもうこのまま泉へ飛び込んでしまおうと覚悟を決めるが、ぐいっとセシリアは腕を引っ張られ、腰を引き寄せられる。
気づけば、クライヴの胸に頬を押し当てて、抱きしめられていた。
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