「うん、いいよ」

真朱マロ

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第三話 「平気だよ」

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「平気だよ」

 教室に入ろうと扉に手をかけた時、中から聞こえた。
 どこかホワンとしたやわらかな声は、間違いなく美菜だ。

 また、安請け合いしているんじゃないだろうな?
 帰宅直前の放課後なので、とても怪しい。
 俺はつい眉をひそめた。
 だいたい、口癖が良くない。

「うん、いいよ」

 なんでもそんなふうに答えて、陽だまりみたいに笑ってしまう。
 断るという選択肢を、持っていないみたいだ。
 そのせいで困った時に、誰もが美菜を頼ろうとする。
 まるで便利屋さんだった。

 まぁそれでも。
 俺と付き合いだしたとわかってからは、美菜への急なお願いはそれなりに減っていたのに。

 前もっての相談以外は「うん、いいよ」なんて、頼まれる隙もなかったはずだ。
 たいていの奴は俺の顔色をうかがって、怒ってもないのに不機嫌だと勝手に解釈してくれた。

 美菜に頼みたいのに、俺が怖くて言いだせない。
 普通にしていても目つきが悪いとか、怖いとか言われる顔なのだからちょうどよかった。
 二人で帰ることも、急なお願いで邪魔されずにすむ。

 まぁそれでも美菜はホワンとしている子なので、俺といてもクラスから浮き上がらないのは救いだ。
 それにしても「平気だよ」とは。
 美菜の口から出ると、不安を誘う言葉だ。

 今度は新手のお願いか?
 このまま教室に入るべきか悩んだ俺の耳に、一緒に話しているらしい女子の声が届いた。

「だって、桐生君だよ?」
「しょっちゅうケンカしてるって聞くし」

 俺の話かよ。
 ケンカをするほど暇じゃない。
 ふざけんなよ。
 ムカッとしたら、クスクスと美菜は笑っていた。

「ケンカなんてする暇、ないけどなぁ……だって、ずっと海にいるもん」

 その通り。

「え~だって、ねぇ……?」

 不審そうだな、お前ら。
 ずいぶんな言われようだが、いつものことだ。
 美菜は再び「平気だよ」と言った。

「あのね、隼人君は子供のころから空手してるんだよ?」
「うん、噂で聞いた~」
「かなり強いみたいだね~うちの学校に空手部なくって残念~って先輩が」
「今でもね、道場通ってるから! その辺の人を相手にしなくても、発散できるの」

 おい。
 美菜の言葉に、少し頭を悩ませた。
 なんかそれ、おかしくないか?
 俺のことをかばっているようで、何やら誤解があるような……気のせいか?
 俺の苦悩なんて知りもせずに、美菜はほわほわっとした口調で続ける。

「隼人君、海にしか興味ないもん。私のうち、海岸が見える喫茶店だから……面白いんだよ? あのね、レモンチーズケーキを出したらね」

 よせって、コラ。
 その先に続く内容に予想がついて、俺はガラッと扉を開ける。

 ピタッと会話が止まった。
 美菜だけがふわっと笑って「隼人君、おかえり~」なんて手を振っている。
 この微妙な空気に気がついていないようだ。
 ある意味、大物かもしれない。

 俺は知らん顔して教室に入る。
 美菜と会話していた女子は、気まずそうに顔を見合わせている。
 俺が立ち聞きしていたかどうか、問いかける勇気がないだけだ。

 まったく、勝手に悩んでろ。
 好きなことを言っていたんだから、不安になるなら自業自得だ。
 俺は涼しい顔で、美菜に声をかける。

「帰るぞ」
 え? などと美菜は目を丸くする。

「帰らないのか?」
「ううん、帰る」

 美菜は慌ててカバンに教科書を突っ込んでいる。
 準備をして話をすればいいのに、相変わらずのんびりしている。
 そこがまぁ、かわいいんだけど。

 待ってね、待ってね、なんて必死で焦っている姿は、かなり気にいっていた。
 よしできた! なんて、美菜は顔を輝かせる。
 カバンに荷物を詰めただけのはずだが、大きな瞳が満足げにキラキラしている。
 どうしてそこまで嬉しくなれるんだか、俺にはちっとも分からないけどな。

 まぁとにかく。
 美菜に任せていると、クラスメイトとのお別れの挨拶だけで、20分ほど時間を取られてしまう。
 サッとカバンをさらって、俺は先に教室を出た。
 あれ? と驚く声を無視して先を歩いていると、美菜は走って追いかけてきた。

「もぅ、ひどいなぁ~みんなにサヨナラを言いそびれちゃった」

 そうか? と俺は知らん顔で答える。
 これが一番早い。
 お前のサヨナラは長すぎるからな。

 このむくれた顔を見ていると、とてもそんなことは言えないけど。
 ひどい! と繰り返す姿が可愛いなんて、俺もどうかしている。

「日直は?」
 クリクリッとした目が見上げてくる。
 今日が俺の当番だってこと、抜けているようでも忘れてなかったみたいだ。

「代わってくれって頼まれた」
「いつになったの?」
「お前と同じ日」

 ふぅん、と美菜はくすぐったそうに笑った。

「みんな、お節介だねぇ……」

 いや、たぶん違うと思うけどな。
 俺は日直だの掃除当番だの、代理を立てられるほど怖がられているだけだ。
 嫌がらないのは、美菜だけかもしれない。

 でも。
 照れちゃうね、なんて笑ってる美菜を見てると、どうでもいい気がする。
 まぁ、そういうことにしておこう。

「どうでもいいけど、お前、誰にでもしゃべるなよ」
「え? なにを?」
「俺が甘い物、苦手だってこと」

 しばらく美菜は絶句していた。
 そして、上目使いに俺をにらんだ。

「……ひどい! 聞いてたんだ?」
 おお、珍しく強気でくるな。

「勝手にしゃべってるからだろ? 俺の耳に蓋はない」
 偶然だと胸を張ると、美菜は口をとがらせた。

「ズルイな~今度みんなに教えてやろう。隼人君の弱点は甘いもので、いつもこ~んな顔になるって!」

 自分の目じりに指をあてて、妙にゆがんだ顔を作る。
 その表情は面白いばかりだけど、さすがに笑う気にはなれなかった。

 本当に甘い物が苦手だった。
 視覚だけで絶望的な気分になる。
 雑誌に掲載された、デザート特集の写真を見ただけで、条件反射のように胸やけがするぐらい苦手なのに。

「だから、よせって」
「平気だよ」
「平気じゃない」

 こいつ、と思って手を伸ばし、やわらかな髪をくしゃくしゃにする。
 美菜はキャッと首をすくめた。
 スルッと俺の手を逃れて、三歩ほど前に出ると振り返る。

「平気だよ」
 珍しく、自信に満ちた口調だった。

「すごく顔をしかめるのに、私の作ったケーキを全部食べてくれるって、みんなに教えてあげるの!」
 クスクス笑いながら、美菜は走って逃げた。

「おい、よけいなことすんな!」
 なんて俺の言葉は、聞こえないフリをしている。

 まったく、もう。

 そんなことよりも、もっと、話すことがあるのに。
 俺たちは付き合いだして一カ月以上たつのに、まだ、肝心なことをお互いに伝えていない。

 美菜があんまりあどけなく笑うので。
 好きだ、なんて照れくさくて口にできなかった。
 ついでに。

「俺のこと、どう思ってる?」

 なんて、問いかけられない。
 とても単純で、簡単な問いかけのはずなのに、声に出すのをためらってしまうのだ。

 だけど。
 そんな言葉なんて、必要ないかもしれない。

「平気だよ」

 目を細める俺の前で、振り向いた美奈は、あふれだす光に似たまぶしい笑顔でいた。

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