「うん、いいよ」

真朱マロ

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第七話 「大丈夫、平気だよ」後編

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 十二月の終わり。
 終業式の後。

 今日は海が荒れてるから、波には乗れそうにない。
 午後から何をしようかと、今にも降り出しそうな曇天を見上げていたら、携帯が鳴った。
 出ると、美菜だった。

「もしもし? 今すぐ、会える?」

 切羽詰まったような声だったので、何かあったのか問いかけたけど、今すぐ会いたいと言うので急いで家を出た。
 とにかく、様子が変だった。
 このところずっとおかしかったけれど、やけに切羽詰まっていたから。妙な胸騒ぎがする。

 いつもの海岸に、美菜は立っていた。
 ワンピースの上にコートを羽織った余所行きの恰好で、俺に背中を向けていた。
 暗い海に浮き上がるような、明るいピンク色がやけに頼りなげだった。

 まっ黒な雲が今にも降り出しそうで、海も荒れていた。
 白い波頭がはじけて、繰り返し打ち寄せている。

「美菜」

 呼びかけると、振り向いた。
 泣いているので、驚いてしまった。
 急いで歩み寄ると、美菜も俺に向かって歩いてきた。

「どうした?」

 問いかけると、大きな目から涙が一粒こぼれた。
 それでもゴシゴシと手の甲でぬぐうと、ふわっと笑った。
 右手を差し出すので、よくわからなかったけれど、右手で握りかえした。

 冷たかった。
 俺の手にスッポリと入る小さな手が、氷みたいに冷え切っていた。

 いつからここに立っていたんだろう?

 瞳も真っ赤だ。
 ずっと泣いていたのだと、すぐにわかった。
 初めて見る涙にかける言葉が見つからず、俺の口は貝のように固く閉じてしまう。

 ザーザーと襲いかかるような激しい波の音の中で、しばらく俺たちは無言だった。
 消えそうな声で、美菜はそっと言った。

「さよならを伝えようと思って」

 さよなら?
 俺にはよくわからなかった。
 どういうことか問いかける前に、美菜はふわっと笑った。

「あのね、家族で暮らすことになって。私、遠くに行くの」

 当たり前に出された地名が外国だったので、俺は絶句する。
 どこの映画の話だと思うぐらい、現実味がなかった。

 だけど、美菜は淡々と説明した。
 難病の弟がいて、両親と海外で治療をしながら手術の順番を待っている。
 本当に手術の順番が回ってくるのか、海外での治療が効果があるのか、それ以前にいつまで時間がかかるかすら、あてのない話だったので美菜は日本に残ったのだ。

 あの喫茶店は、美菜の祖父の夢だったらしい。
 ずっと夢だった自分の店を持つことで、家族が離れ離れになったまま、大切な肉親の命がいつ消えるかわからない不安を紛らわしていたのだ。

 先週、母親から電話があったのだと美菜は言った。
 あてのなかった生活に、区切りがついた知らせだった。
 父親の海外での仕事も軌道に乗って、やっと弟の手術のめどがついたので、家族で暮らすことになったのだと、途切れることなく説明する。

「手術もね。もしも、なんて考えたくないけど、百パーセント成功するとは限らないみたいなの」
 高校を卒業までなんて言っていたら、後悔するかもしれない。
 大切な家族と暮らすことも今しかできないかもしれない、その「今しか」の重さとちゃんと向き合う必要があるの、と美奈は言った。

「今できることをするって決めたから」
 そんなふうに肩をすくめて、美菜は俺の手を握った。
 キュッと握りしめる細い指が、小刻みに震えている。

 ただ海外に行ってしまうと、今度はいつ日本に帰ってこれるか、それこそわからなくなる。二度と帰ってこないかもしれないの。
 そんなふうにポツンと付け足した。

 俺は何も言えなくて、ただその手を包むことしかできない。
 美菜は俺の沈黙をどう取ったのか、ごめんなさいと言ってうつむいた。

「ごめんなさい。最初から、ずっとここにはいられないって、わかっていたのに」

 ぽろぽろと、美菜の瞳から涙がこぼれ出す。
 身長差があるから見えるのはつむじばかりだけれど、つないだ手の上にポトポトと落ちてくる涙はほのかに暖かくて、ただ胸が痛かった。

「ごめんなさい。隼人君といるのが楽しくて、ずっとこうならいいなぁなんて思って、言葉にすると終わってしまう気がして……どうしても言えなかった」

 本当のさよならまでは、一緒にいたかったから。
 もしかしたら、本当にずっと一緒にいられるかもしれないと、夢見てしまったから。

 何も言えなくて、ごめんなさい。
 細い声が、とぎれとぎれに痛い想いを伝えてくる。

「ばかやろう」

 俺は美菜の手を引くと、そのまま抱き締めた。
 小さくて、なんて頼りないんだろう。

 いなくなるとわかっていても、そこで終わりなんて言えるものか。
 むしろ、いつかいなくなる日がくると知っていたなら。

 当たり前の学校でのやり取りだって。
 放課後に海へ出た時だって。
 日が暮れて家に帰る前の、短いコーヒータイムだって。

 もっともっと、大切にすごしたのに。
 ちゃんと好きだって、伝え続けたのに。
 もう嫌だ、恥ずかしいからやめてって逃げだしたって、追いかけてつかまえて「好きだ」ってハッキリ言い続けたのに。

 そんな当たり前のことすら、してやれなかった。

 そんなことを思いながらも、うまく言えなくて。
 俺はただ、美菜を抱きしめることしかできなかった。
 性質の悪い冗談なんて美菜は言わないから、このまま本当にサヨナラするしかないんだと、ただそう思うしかない。

「言うのが遅いんだよ」

 だから、あの夏の日に線香花火を綺麗だと言ったのか?
 輝いて見えても、宇宙の果てで死んでいるかもしれない星が嫌いなのか?
 命が消えることと、印象が重なる存在だから。

 目をそらせずに、心惹かれて。
 だけど、嫌いだとしか思えなくて。

 一人で耐えがたくなり、俺を誘ったんだろうか?
 小さくて、冷たくて、震えるばかりの美菜は、俺の胸の中で声を殺して泣いていた。

「終わりたくないよ」

 ああ、もう。
 そんなに泣くぐらいなら、どこにも行くな。

「簡単に終わるか」
 帰ってこい、と耳元でささやいたけど。

 美菜は、初めて。
「うん、いいよ」と言わなかった。
 それどころか、聞き慣れない台詞を吐いた。

「お願いだから、待たないで」

 畜生、と心の中でののしるしかない。
 お願いときた。

 いつもなら速攻で「うん、いいよ」なんて答えてもどかしいのに。
 こんな時は、まともに考えた返事をしやがって。

 ずっとこうなることが分かっていたから、頭の中で予行演習していたみたいな、決定事項に似た答え方だった。
 それがとてつもなく悔しかった。

「うるせ。俺の勝手だ」
「勝手じゃないよ。私からのお願いだよ」

 絶対に待たないで。
 そんなふうに突き放しながら。

 ずっとそのままの隼人君でいて、なんて。
 どれだけ我儘なんだと、あきれるしかない。

「バカ。お前がいないのに、このままの俺でいられる訳ないだろうが」
 勝手なこと言うな、と付け足すと、美菜は小さく笑った。
 そんなことないよ、と震える声で。

「隼人君より優しい人はいないもの。だから大丈夫、平気だよ」

 きっと私よりも大事にしてくれる女の子が現れるの。
 新しい人と出会って、たくさん笑って、幸せになって。
 俺にすがりついたまま、美菜は消えそうな声でそう言った。

 大丈夫、平気だよ。

 これも「うん、いいよ」と等しく、彼女の口癖だ。
 こんな時にまで、その台詞かよ。

 もどかしいけど、ふわりと安堵する声だ。
 なのに、もうこうやって近くで気軽に聞けなくなる。

「ばかやろう、大丈夫なもんか」 

 本当に、頭が混乱して、大丈夫なんかではない。
 美菜、と呼びかけて、きつく抱き締める。

「好きだって、今しか言えない」

 そう、今しか言えない。
 悔しくて、苦しくて。
 やっとしぼりだした言葉に、美菜の悲しい声が重なる。

「隼人君、大好き」

 なんで、今だけなんだ?
 もっと、たくさん言えばよかった。
 もっと、たくさん聞きたかった。

 それでも。
 伝えることができるのは、今この瞬間だけ。

「もう行かなきゃ」とつぶやいて、美菜はそっと顔を上げた。
 タクシーが喫茶店の前で待っていた。

 美菜の祖父母が大きな荷物を手にして、俺に頭を下げた。
 俺も会釈を返し、本当に時間がないことを知った。

 このまま空港に直行するらしい。
 いくら決心が揺らぐといけないからって、全部の段取りを済ませてから俺を呼び出すなんて。
 美菜らしいと言うべきか、らしくないと言うべきかわからないけれど。

 俺にできる事は一つだけ。
 当たり前の顔をして、見送ってやるだけだ。

「ちゃんと笑って行けるか?」
 うん、と美菜はうなずいた。
「大丈夫、平気だよ」

 美菜はそう言って、いつものように笑ってくれた。
 ふんわりとしてやわらかな、俺の好きな笑顔だった。

 一歩、美奈が後ろに下がる。
 抱きしめていた体温が、風に流れた。

 やわらかくて甘い髪の匂いが、潮の香りに消える。
 近くにあった美菜の全てが、遠くなっていく。

 もう一歩、美奈と同時に、俺も後ろに。
 つないでいた指先が、そっと離れた。

 俺を見つめたまま。
 唇が小さく「さよなら」と動いたけれど。

 美菜の最後の別れの言葉は。
 激しく打ち寄せる潮騒にかき消され、俺には届かなかった。
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