「うん、いいよ」

真朱マロ

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第八話 「うん、いいよ」前編

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「うん、いいよ」

 打ち寄せる波のように、美奈の声を繰り返し思い出す。
 ふんわりとした笑顔とセットの、どこかもどかしい台詞だ。

 その言葉を聞けなくなって、何年たっただろう?

 別れがあまりに唐突だったせいか、美菜がいないことを自覚するまで時間がかかった。
 最悪だとしか思えないほど、頻繁に思い出すのだ。
 もともと特別な強い印象など持っていない子なのが災いしている。
 なにげなさが染み付いて、ふとした瞬間に記憶を揺さぶられてしまう。
 普段から身近にあることが思い出す原因なので、本当に性質が悪い。

 例えば。
 浜辺へ続く道を歩いてると、何度も話した他愛の無いお天気とか。
 喫茶店に入った時に香るコーヒーに、彼女の家でかわした何気ない会話とか。
 雑誌のデザート特集の記事に、嫌がりながら食べ続けた美菜のデザートの甘さとか。
 月が昇り始めた海岸に、二人で息をひそめて見つめた線香花火とか。

 他にもいろいろあるけれど。
 どれもこれも、日常のふとした瞬間に蘇ってくる。
 特別なイベントの中に美奈はいないのに、潮騒の音の中では息をするほど自然に美奈が笑っていた。

 こういうのを、引きずる、というのだろうか?
 けっこう、重症かもしれない。

 後悔って、本当にある。
 俺は美菜がいるだろう、海の果てに目をやる。
 真っ青な海が、太陽の日差しを受けてキラキラとまばゆいほど輝いていた。
 美菜の笑ってる顔みたいに、まぶしくてあったかい日差しだ。

 ちゃんと付き合ってるつもりだったのにな。
 大事にしているつもりだったけれど、ちゃんと大事にできていたか自信がない。
 思い返せば突然の別れの前触れはあったし、美奈の抱えてる事情に気がつける瞬間っていくらでもあった。

 本でも闘病生活の体験記や家族の手記を読んでいたり。
 ちょっとした空き時間に英会話のレッスン教材を広げていたり。
 海に出ても、この果てに知らない国があるんだねってつぶやいたり。
 気持ちを遠くに飛ばして、かすかに表情を翳らせていた。
 俺に向けて来るのはふんわりした笑顔だったけれど、あの一瞬一瞬の内心は不安なものだっただろう。

 もっと早く気付いてやればよかった。
 好きだって、何度も言ってやればよかった。
 もちろん、言われたのだって、別れたあの日だけなんだが。

 そういえば、手はよくつないだ記憶があるけど。
 キスもしていない。

 一回くらいキスしとけばよかった。
 一回くらい付け入る隙はいくらでもあったのに。

 なんて言ったら、もう! なんて可愛くすねるだろうか?
 つい想像して、苦笑するしかない。

 やっぱり重症だ。

 美菜は心底から薄情な奴で、俺だけでなく他の奴にも住所や連絡先を残さなかった。
 まったく、潔いのだか、思い切りがいいんだか。
 気持ちが残ると振り返るばかりで動けなくなるから……なんて女子には言っていたらしいけれど、予告のない旅立ちは想像以上に計画的で、実に男前な行動をしている。
 のんびりとして何も考えていないようなおっとり感は、仮の姿に違いない。
 本当に繋がる物を何も残さず、綺麗に切り捨てて飛び立ってしまった。

 まったく。
 どこまで俺のことをわかってないんだろう?
 よけいに忘れられないだろうが。
 あんまり鮮やかに消えたものだから、別れた実感がない。

 記憶の中の美菜は、いつでもふんわりと陽だまりみたいな笑顔でいる。
 それがあんまりあどけなくて、可愛らしいばかりだから。
 悪態をついてしまうほど、俺の中で彼女は生きていた。

 俺は大学に通っているが、そろそろ就職活動も視野に入れなくてはいけない。
 需要と供給が合っていないのだと、進路指導員が訳知り顔で話していた。
 就職率の悪さを聞いて、つい遠くを見てしまった。
 俺は見た目で敬遠されることが多いので、面接が一番の難題だろう。

 前途多難だ。
 将来に夢も希望もなくなる、なんてぼやいても仕方ないんだが。
 それでも時間があれば、相変わらず浜辺で波に乗っていた。

 気分転換になるし、やっぱり海が好きなのだ。
 何も考えずに風を切る瞬間に感じるのは、海鳥になったような爽快感。
 大きくうねり白くはじける波頭をとらえ、駆け抜ける風でいる。

 俺はこの瞬間だけ、美菜を忘れた。

 青い空はどこまでも澄みきって、海が輝いている。
 波もいい感じで、最高の状態だ。
 風が光るってこんな状態のことだろう。

 今日もひとしきり楽しんだ後、俺は浜辺に座って少し休んでいた。
 このまま上がろうか、もう一度ぐらい海に入ろうかと悩んでいた時。
 不意に、携帯が鳴った。

 誰だ? と純粋に疑問に思った。
 こんな時間にかけて来る知り合いに、心当たりがない。
 海にいるとみんな知っているから、メールしか入らないのだ。
 親ですら「役に立たない!」と怒るくらい、通話連絡をあきらめているのに。

「もしもし」
 いぶかしがりながら出ると、かすかな沈黙が届いた。
「もしもし? 間違いなら切るぞ」
 少し待っても何も言わないので、じれて通話を終わらせそうとした時。

「隼人君」

 懐かしい声が、鼓膜を震わせた。
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