10 / 38
初恋の部・冬真
儚い時間2
しおりを挟む
「離れて」
俺を突き放そうとする手に、力が入る寸前。
近くで鳴った雷に、アイリーンは両耳を押さえて身を縮めた。
怯えているその身体に腕を回す。
俺の知っている腰の軽いフワフワした女たちとは違って、アイリーンは鍛えてるのか筋肉もついたしなやかな身体だった。
それでも腕の中にすっぽり収まるから、俺よりも小さかった。
護りたいとか、助けたいとか、俺の中で不思議な感情が膨れ上がる。
こんな想いがわいてきたのは、初めてのことだった。
雷が聞こえないように、何か話さなくては。
「ね、好きな男のタイプは?」
耳元でそっと話しかけると、身じろぎしながらもアイリーンは少し考えているようだった。
「と、特には……」
それどころではないのが本音なのか、雷をひどく気にして声が震えている。
「嘘。ジョニー・デップとか、ハリソン・フォードとか? ジャッキー・チェンのも楽しそうに見てたでしょ? 理想的、とか思ってない?」
からかうと、ああ、と声に張りが少し戻った。
「映画の俳優さんでしたら、ブルース・リーが一番。作品数は少ないですけど、格が違うし」
「あの人、ストイックな感じだし~なんか似合う。なら、榊みたいな頭脳系より、やっぱり体育会系が好きなんだ?」
あきらかにビックリして思い切り顔をあげたのがわかって、俺はアイリーンの髪に触れた。
量の多い髪はくせのないストレートで、肩甲骨の下まであるから長い。
「なんで榊さんが出てくるんですか?」
それは榊が来るたびにとても仲良さそうに話しているからだが、説明したくなかった。
だいたい、俺が聞いてはまずい内容になると、榊はアイリーンの言葉で話す。
俺にはまったく理解できない異国の言葉で、二人して穏やかに語りあっている。
アイリーンは何か深く考え込むことも多くて、とても重要な話だとわかるけれど。
どんなにねだっても内容は教えてくれないし、俺だけがいつも取り残されていた。
それにしてもムカつくな。
榊の名前が出た途端に、雷のことをアイリーンは忘れたみたいだ。
「さぁ……じゃ、初めてキスした相手は誰?」
ちょっとだけアイリーンは動きを止めた。
思い出したように、クスッと笑った。
「……近所のネコちゃん」
「ネコ?」
「トラ毛でフワフワした毛並みだったし……」
何か違っている。
俺が変だと驚いたら、アイリーンは懐いてくれるまでの駆け引きがすごく大変だったからと、もっともらしい言い訳をした。
俺の聞きたかった答えじゃなかったけど、アイリーンらしくてつい笑ってしまった。
ゴロゴロと雷が鳴り、ビクッとアイリーンは身をすくめた。
それでも、俺に寄り添っていた。
少しは安心したのか、冷えていた体温が戻ってきた。
こうして寄りそっているだけで気持ちいい。
朝まで抱きしめてあげると言いたかった。
だけど、そんなことを口にしてしまったら今すぐ逃げていきそうで、俺は言葉を飲み込んだ。
あと少し。
せめて雷が去るまででもいい。
このままでいたい。
「日本語、上手だし。どこで覚えたの?」
「日本で」
「初恋は?」
「…五歳の時、道場で会った中学生のお兄さん」
「髪の色は?」
「……ブルネット(黒髪)」
「瞳の色は?」
「濃いグレー」
話している間は気がまぎれると思ったのか、かつてないほど素直に答えてくれた。
それでも。
どこに住んでいるの?
何歳なの?
恋人は?
なんて、俺が本当に知りたいことは一切教えてくれなかった。
「ねぇ? BLUEの「青い鳥」が着メロだし、日本で暮らしているの?」
突っ込んでも、ただクスリと笑って流された。
彼女は答えなかった。
怖がっているよりずっといいけれど、本当に知りたいことがわからないからもどかしい。
彼女の背格好は、抱きしめればなんとなくわかる。
だけど、もっと確かな姿を知りたかった。
右手を伸ばして、指先でアイリーンの顔をさぐった。
すべすべした肌は気持ちいいけれど、怖くて泣いているのか頬が少し濡れていた。
俺は指先を滑らせて、目や鼻や口を何度も確かめる。
少しでも彼女の顔を知りたいと、ゆっくりと輪郭をなぞった。
「あの……何を……?」
アイリーンはなんだか戸惑っている。
「うん、どんな顔してるのかな~って、妄想中。わりと顔が小さくて、眉、濃いめ? やっぱり、鼻、高いかな~? 目は普通ぐらい? 二重?」
触れた感覚だけを頼りに必死で想像していたら、アイリーンは嫌がった。
「や、そんなの……」
逃げようとするのを、俺は捕まえた。
ギュッと抱いて、片手で遠慮なく顔に触れた。
教えてくれないんだから、妄想ぐらいさせてほしい。
だって、見えなくてもアイリーンは本当に綺麗だから。
「唇、厚めだね。セクシーなのかな?」
忘れて、とかすれた声。
「今は夢の時間で、私はすぐにいなくなるのに」
不意打ちに、想像以上のダメージがあった。
それは、目をそらしていた現実。
ハンマーで殴られたようにショックだった。
アイリーンがずっと震えているのは、雷のせいだけではないのかもしれない。
記憶も、思い出も、この奇妙な同居生活を振り返るために必要なものを、全て拒んでいた。
この部屋ですごした確かな証を、彼女はただの夢に変えて、俺に何一つ残す気がないのだ。
ほんの数日の間に俺の心の隙間は、アイリーンの存在ですっかり埋まっていたのに。
彼女に出会う前の生活が、脳裏に浮かんだ。
ゾッとした。
また、あの乾いた毎日が繰り返されるのだ。
この短い、夏の暮らしなどすぐに消えてしまう。
こんなふうに、誰かがいなくなるのを恐ろしいと感じたのは、初めてかもしれない。
他人の愛し方なんて知らない。
だけど、このまま忘れたくない。
それ以上に、俺を覚えていてほしい。
他の誰でもなく、アイリーンが欲しかった。
この時の俺は、我儘で自分勝手な子供でしかなくて……大事にしたい人の気持ちを思いやって、大切にする方法を何も知らなかった。
腕の中に抱きこんで、クン、と髪の匂いを嗅ぐと、アイリーンは驚いたように抵抗する。
一気にドクドクと心臓が脈打ち突き放そうとする手をつかんで、その上にのしかかった。
「やだ。はなして、冬真君」
うろたえているのか、身をすくませている。
彼女の両腕を俺は片手で抑えた。
首筋から肩へ、それから肘へと指先を滑らせて、自由な手で、そっと柔らかな肌に触れる。
ジタバタしているようでも儚い抵抗すぎて、それが可愛かった。
逃げる方法なんて、いくらでもあるのに。
俺の事を本気で殴る蹴るもしない。
ささやかな拒絶だし、触れた肌に熱がこもっている。
アイリーンが何を思っているのかなんて、まったくわからなかった。
ただ、怯えながらも、俺の腕の中にいた。
それが、愛しかった。
不意に欲を持った俺の動きに、どう反応していいのか、アイリーンはわからないようだった。
かすれた声で淡い拒絶を口にしながら、彼女の心臓が壊れそうにはねていた。
少しでも知ろうと服をはぎとりながら身体を確かめると、そのたびにビクッと小動物のように震えた。
なめらかな肌の質感は、きめが細やかだった。
見えないことなんてどうでもいいぐらい、アイリーンはしなやかで綺麗だった。
確かめるように手を滑らせると、身体をこわばらせながら、彼女は戸惑っている。
ああ、この感じ、慣れてない……?
今まで付き合ってきた女たちとは反応がまるで違うので、その理由に想像がついて俺は舞い上がりそうだった。
「初めてなんだ?」
確かめる俺があんまり嬉しそうだったからか、アイリーンは答えなかった。
膝を割ってすべりこむ。
「……お願い、やめて……」
初めて聞く、切羽詰まった声。
「ね、どこにもいかないでよ。俺、アイリーンがいたら、生きていけそうな気がする」
側にいてほしいと、切に願った。
こんな懇願を誰かにするのは、俺は生れて初めてかもしれない。
だって、彼女は俺の特別だから。
だけど、アイリーンの答えは決まっていた。
「……もともと住む場所も違うでしょう? 冬真君は私のことなんて、すぐに忘れるから」
アイリーンは泣いていた。
その涙の意味が全然わからなくて、俺はただ、手のひらでそっとぬぐった。
「忘れるから、何? そんなこと、関係ないよ」
答えはなかった。
だけど、俺は彼女の特別になりたかった。
ささやかすぎる抵抗など無視して、俺はアイリーンの奥深くまで沈み込む。
時間を忘れて、夢中で抱いた。
こんなふうに求めるのは、生れて初めてだった。
優しくしたかったけれど余裕がなくて、気持ちが浮き立ってしまい声がかすれた。
必死で彼女に懇願する。
ただ俺の側にいてほしいと、あふれるこの気持ちが伝わればいいと、ひたすら願った。
欲しい物があればなんでも用意するから、どこにも行かないでほしかった。
甘く濡れた音が続く中で、アイリーンから小さな声がこぼれおちた。
「私のこと、好きでもないのに……」
責めるような、すがるような、不思議な響き。
「好きだよ。他には何もいらないんだ」
指先で触れた唇が、嘘つき、と声にならない言葉を紡いだ。
好きだから、と俺はささやいた。
答えはなくて「冬真君」とだけ彼女は繰り返す。
好きだとあふれそうな、濡れた声で。
何度も何度も、俺の名を呼んでいる。
耳だけでなく、身体で、俺はその声を感じていた。
アイリーンの手はずっと、俺の肩を抱いていた。
そっとすがるように、俺を受け止めていた。
重なった鼓動に、確かな気持ちがあった。
幾度か昇り詰めて、それでも放したくなくて、もう許してと哀願するのも無視して抱き続けた。
ただ、俺の側に繋ぎとめたかった。
このまま時が止まればいいのに。
だけど。
指先をからめても、身体はつながっても、想いもあるのに、アイリーンはどこか遠くにいた。
好きだと俺が繰り返すたびに、もろく砕けたガラス細工のような嗚咽を飲み込んでいた。
どうすれば、彼女に近づけるのだろう?
「アイリーン、これで俺を忘れないよね?」
抱きしめて、耳元でささやく。
アイリーンはかぶりを振った。
そのたびに涙が、俺の胸をぬらす。
「俺のことだけ好きになってよ。約束する。遠く離れても、絶対に探し出すから」
縋り付き、暗闇の中、確かにとけあったのに。
最後まで、彼女はうなずかなかった。
俺を突き放そうとする手に、力が入る寸前。
近くで鳴った雷に、アイリーンは両耳を押さえて身を縮めた。
怯えているその身体に腕を回す。
俺の知っている腰の軽いフワフワした女たちとは違って、アイリーンは鍛えてるのか筋肉もついたしなやかな身体だった。
それでも腕の中にすっぽり収まるから、俺よりも小さかった。
護りたいとか、助けたいとか、俺の中で不思議な感情が膨れ上がる。
こんな想いがわいてきたのは、初めてのことだった。
雷が聞こえないように、何か話さなくては。
「ね、好きな男のタイプは?」
耳元でそっと話しかけると、身じろぎしながらもアイリーンは少し考えているようだった。
「と、特には……」
それどころではないのが本音なのか、雷をひどく気にして声が震えている。
「嘘。ジョニー・デップとか、ハリソン・フォードとか? ジャッキー・チェンのも楽しそうに見てたでしょ? 理想的、とか思ってない?」
からかうと、ああ、と声に張りが少し戻った。
「映画の俳優さんでしたら、ブルース・リーが一番。作品数は少ないですけど、格が違うし」
「あの人、ストイックな感じだし~なんか似合う。なら、榊みたいな頭脳系より、やっぱり体育会系が好きなんだ?」
あきらかにビックリして思い切り顔をあげたのがわかって、俺はアイリーンの髪に触れた。
量の多い髪はくせのないストレートで、肩甲骨の下まであるから長い。
「なんで榊さんが出てくるんですか?」
それは榊が来るたびにとても仲良さそうに話しているからだが、説明したくなかった。
だいたい、俺が聞いてはまずい内容になると、榊はアイリーンの言葉で話す。
俺にはまったく理解できない異国の言葉で、二人して穏やかに語りあっている。
アイリーンは何か深く考え込むことも多くて、とても重要な話だとわかるけれど。
どんなにねだっても内容は教えてくれないし、俺だけがいつも取り残されていた。
それにしてもムカつくな。
榊の名前が出た途端に、雷のことをアイリーンは忘れたみたいだ。
「さぁ……じゃ、初めてキスした相手は誰?」
ちょっとだけアイリーンは動きを止めた。
思い出したように、クスッと笑った。
「……近所のネコちゃん」
「ネコ?」
「トラ毛でフワフワした毛並みだったし……」
何か違っている。
俺が変だと驚いたら、アイリーンは懐いてくれるまでの駆け引きがすごく大変だったからと、もっともらしい言い訳をした。
俺の聞きたかった答えじゃなかったけど、アイリーンらしくてつい笑ってしまった。
ゴロゴロと雷が鳴り、ビクッとアイリーンは身をすくめた。
それでも、俺に寄り添っていた。
少しは安心したのか、冷えていた体温が戻ってきた。
こうして寄りそっているだけで気持ちいい。
朝まで抱きしめてあげると言いたかった。
だけど、そんなことを口にしてしまったら今すぐ逃げていきそうで、俺は言葉を飲み込んだ。
あと少し。
せめて雷が去るまででもいい。
このままでいたい。
「日本語、上手だし。どこで覚えたの?」
「日本で」
「初恋は?」
「…五歳の時、道場で会った中学生のお兄さん」
「髪の色は?」
「……ブルネット(黒髪)」
「瞳の色は?」
「濃いグレー」
話している間は気がまぎれると思ったのか、かつてないほど素直に答えてくれた。
それでも。
どこに住んでいるの?
何歳なの?
恋人は?
なんて、俺が本当に知りたいことは一切教えてくれなかった。
「ねぇ? BLUEの「青い鳥」が着メロだし、日本で暮らしているの?」
突っ込んでも、ただクスリと笑って流された。
彼女は答えなかった。
怖がっているよりずっといいけれど、本当に知りたいことがわからないからもどかしい。
彼女の背格好は、抱きしめればなんとなくわかる。
だけど、もっと確かな姿を知りたかった。
右手を伸ばして、指先でアイリーンの顔をさぐった。
すべすべした肌は気持ちいいけれど、怖くて泣いているのか頬が少し濡れていた。
俺は指先を滑らせて、目や鼻や口を何度も確かめる。
少しでも彼女の顔を知りたいと、ゆっくりと輪郭をなぞった。
「あの……何を……?」
アイリーンはなんだか戸惑っている。
「うん、どんな顔してるのかな~って、妄想中。わりと顔が小さくて、眉、濃いめ? やっぱり、鼻、高いかな~? 目は普通ぐらい? 二重?」
触れた感覚だけを頼りに必死で想像していたら、アイリーンは嫌がった。
「や、そんなの……」
逃げようとするのを、俺は捕まえた。
ギュッと抱いて、片手で遠慮なく顔に触れた。
教えてくれないんだから、妄想ぐらいさせてほしい。
だって、見えなくてもアイリーンは本当に綺麗だから。
「唇、厚めだね。セクシーなのかな?」
忘れて、とかすれた声。
「今は夢の時間で、私はすぐにいなくなるのに」
不意打ちに、想像以上のダメージがあった。
それは、目をそらしていた現実。
ハンマーで殴られたようにショックだった。
アイリーンがずっと震えているのは、雷のせいだけではないのかもしれない。
記憶も、思い出も、この奇妙な同居生活を振り返るために必要なものを、全て拒んでいた。
この部屋ですごした確かな証を、彼女はただの夢に変えて、俺に何一つ残す気がないのだ。
ほんの数日の間に俺の心の隙間は、アイリーンの存在ですっかり埋まっていたのに。
彼女に出会う前の生活が、脳裏に浮かんだ。
ゾッとした。
また、あの乾いた毎日が繰り返されるのだ。
この短い、夏の暮らしなどすぐに消えてしまう。
こんなふうに、誰かがいなくなるのを恐ろしいと感じたのは、初めてかもしれない。
他人の愛し方なんて知らない。
だけど、このまま忘れたくない。
それ以上に、俺を覚えていてほしい。
他の誰でもなく、アイリーンが欲しかった。
この時の俺は、我儘で自分勝手な子供でしかなくて……大事にしたい人の気持ちを思いやって、大切にする方法を何も知らなかった。
腕の中に抱きこんで、クン、と髪の匂いを嗅ぐと、アイリーンは驚いたように抵抗する。
一気にドクドクと心臓が脈打ち突き放そうとする手をつかんで、その上にのしかかった。
「やだ。はなして、冬真君」
うろたえているのか、身をすくませている。
彼女の両腕を俺は片手で抑えた。
首筋から肩へ、それから肘へと指先を滑らせて、自由な手で、そっと柔らかな肌に触れる。
ジタバタしているようでも儚い抵抗すぎて、それが可愛かった。
逃げる方法なんて、いくらでもあるのに。
俺の事を本気で殴る蹴るもしない。
ささやかな拒絶だし、触れた肌に熱がこもっている。
アイリーンが何を思っているのかなんて、まったくわからなかった。
ただ、怯えながらも、俺の腕の中にいた。
それが、愛しかった。
不意に欲を持った俺の動きに、どう反応していいのか、アイリーンはわからないようだった。
かすれた声で淡い拒絶を口にしながら、彼女の心臓が壊れそうにはねていた。
少しでも知ろうと服をはぎとりながら身体を確かめると、そのたびにビクッと小動物のように震えた。
なめらかな肌の質感は、きめが細やかだった。
見えないことなんてどうでもいいぐらい、アイリーンはしなやかで綺麗だった。
確かめるように手を滑らせると、身体をこわばらせながら、彼女は戸惑っている。
ああ、この感じ、慣れてない……?
今まで付き合ってきた女たちとは反応がまるで違うので、その理由に想像がついて俺は舞い上がりそうだった。
「初めてなんだ?」
確かめる俺があんまり嬉しそうだったからか、アイリーンは答えなかった。
膝を割ってすべりこむ。
「……お願い、やめて……」
初めて聞く、切羽詰まった声。
「ね、どこにもいかないでよ。俺、アイリーンがいたら、生きていけそうな気がする」
側にいてほしいと、切に願った。
こんな懇願を誰かにするのは、俺は生れて初めてかもしれない。
だって、彼女は俺の特別だから。
だけど、アイリーンの答えは決まっていた。
「……もともと住む場所も違うでしょう? 冬真君は私のことなんて、すぐに忘れるから」
アイリーンは泣いていた。
その涙の意味が全然わからなくて、俺はただ、手のひらでそっとぬぐった。
「忘れるから、何? そんなこと、関係ないよ」
答えはなかった。
だけど、俺は彼女の特別になりたかった。
ささやかすぎる抵抗など無視して、俺はアイリーンの奥深くまで沈み込む。
時間を忘れて、夢中で抱いた。
こんなふうに求めるのは、生れて初めてだった。
優しくしたかったけれど余裕がなくて、気持ちが浮き立ってしまい声がかすれた。
必死で彼女に懇願する。
ただ俺の側にいてほしいと、あふれるこの気持ちが伝わればいいと、ひたすら願った。
欲しい物があればなんでも用意するから、どこにも行かないでほしかった。
甘く濡れた音が続く中で、アイリーンから小さな声がこぼれおちた。
「私のこと、好きでもないのに……」
責めるような、すがるような、不思議な響き。
「好きだよ。他には何もいらないんだ」
指先で触れた唇が、嘘つき、と声にならない言葉を紡いだ。
好きだから、と俺はささやいた。
答えはなくて「冬真君」とだけ彼女は繰り返す。
好きだとあふれそうな、濡れた声で。
何度も何度も、俺の名を呼んでいる。
耳だけでなく、身体で、俺はその声を感じていた。
アイリーンの手はずっと、俺の肩を抱いていた。
そっとすがるように、俺を受け止めていた。
重なった鼓動に、確かな気持ちがあった。
幾度か昇り詰めて、それでも放したくなくて、もう許してと哀願するのも無視して抱き続けた。
ただ、俺の側に繋ぎとめたかった。
このまま時が止まればいいのに。
だけど。
指先をからめても、身体はつながっても、想いもあるのに、アイリーンはどこか遠くにいた。
好きだと俺が繰り返すたびに、もろく砕けたガラス細工のような嗚咽を飲み込んでいた。
どうすれば、彼女に近づけるのだろう?
「アイリーン、これで俺を忘れないよね?」
抱きしめて、耳元でささやく。
アイリーンはかぶりを振った。
そのたびに涙が、俺の胸をぬらす。
「俺のことだけ好きになってよ。約束する。遠く離れても、絶対に探し出すから」
縋り付き、暗闇の中、確かにとけあったのに。
最後まで、彼女はうなずかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる