君が奏でる部屋

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74 君が誕生した日

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 年明けの、まだまだ寒い日。
 ある日曜日のお昼過ぎあたりから、かおりが病院に行きたいと言った。

 僕はかおりがまとめた『出産セット』の大きなバッグを積んで、かおりを車で連れて行った。かおりは終始ご機嫌で、車の中で歌っていた。チャイコフスキーの『アンダンテ・カンタービレ』だ。この曲は、僕も好きだ。僕が弾いたコンチェルトも、チャイコフスキーだった。僕は低音のメロディーを重ねて歌った。かおりは痛いようには見えなかったし、これから出産するとは思えなかった。

 かおりは病院に着いてから、慎一さんまたね、とにこっと笑って僕に手を振って、陣痛室に入っていった。これから本当に出産するなんて、信じられなかった。

 それから僕たちは別々だった。


 僕は産婦人科病棟の待合室にいた。僕に出来ることは何もないし、何も持ってきていないし、何もする気が起きなくて、椅子に座っていた。
「今日はお産が重なるから忙しくなるわね」
 通りかかる看護師さん同士が話していたのが聞こえた。待合室には、僕の他に同じように何もしていない男性が二人いて、後からもう一人加わった。今日、この病院から四人の赤ちゃんが産まれるのだろうか。


 しばらくたってから、看護師さんが僕のところに報告しに来てくれた。僕が待合室に案内された直後から、かおりは陣痛が強くなったそうだ。また報告しに来ますと伝えて、看護師さんは戻っていった。


 丁度よい時に病院に連れて来ることができたのかもしれない。僕は、かおりが痛そうにしていたり、苦しそうにしていたら、おろおろしてしまっただろう。情けないな。

 途中で看護師さんから連絡を受けて、外に出た男性もいた。

 一度、もう少し時間がかかるかもしれないと言って、看護師さんが車椅子に乗せて女性を待合室の前に連れて来た。待合室にいた僕たちの、誰に言われたのかわからなかった。この病棟で統一されているらしいパジャマを着ていて、下を向いてぐったりしていた。顔に髪がかかっていて表情も見えなかったし、かおりだとは思わなかった。

「藤原さん、まだですが、辛いみたいなので少し一緒にいてあげてください」

 驚いて、すぐに声もかけられなかった。

 かおりが母親学級というクラスからもらってきた冊子を見ると、痛い時と痛くない時の波があって、その間隔が短くなると出産が近い、という程度の認識だった。

 車の中でチャイコフスキーを歌っていたかおり、陣痛室に入る時に笑顔で手を振っていたかおりとは別人のような表情をしていた。痛い時と痛くない時の差は、ほんの少し表情が和らいだ瞬間でわかり、僕に対して笑顔を見せる余裕なんて、当然ない様子だった。


「かおり、大丈夫?かおり、痛い?」
「……ごめんなさい……こたえられない……」

 かおりは力無く、それでも短く、絞り出すようにそれだけ言った。自分の無力さに、何も言えなかった。僕はかおりの手を握った。少し時間が経過した後、ものすごく強い力で僕の手を握り返してきた。かおりは声も出さず、目を瞑って、ただ僕の手を握っていた。少し時間が経過すると、力が抜けてぐったりとした。

 かおりが目を開けた一瞬に、僕たちは目を合わせた。
 お互いに何も言わなかった。
 僕は何も言えなかったし、何も出来なかった。

 その痛みの繰り返しは、何回も続かないうちに、その後僕たちを一緒にいることを叶わなくさせた。かおりは、何度めかの痛みの後、僕ではなく看護師さんに目で何かを伝えた。

「戻りましょう!急いで!」
 看護師さんは冷静だった。

 かおりは、僕の手をきゅっと握って、また再びだらりと力が抜けて、ぐったりして、運ばれていった。

 生理痛の時も痛そうで、苦しそうだったかおり。それ以来、僕はそれを見たくなかった気持ちが確かにあった。その後、赤ちゃんが欲しいというかおりの真剣な気持ちを聞いて、避妊せずに抱いたら、かおりは妊娠した。妊娠期間は悪阻もなく順調で、しばらく具合の悪いかおりを見なかったばかりに、僕は辛かった。いや、そんなことは言えない。僕は何も出来ない。でも、何も出来ないことも辛かった。僕が一体何をしてやれるのか。あれだけ苦しそうなかおりを見て、赤ちゃんが産まれることを楽しみとは、とても言えなかった。かおりが無事でいてくれればと、手を合わせ、それだけを願った。十字を切ることも出来なかった。



 時計を見ると、翌日になっていた。かおりが最後に僕の手を握ってくれたのは、何時だったのだろうか。

 病院に着いてから18時間くらいかかった頃だろうか。

「産まれました!」
 そう言って、待合室に看護師さんが笑顔でやって来た。待合室には男性が数人いた。僕たちは何となく、誰が?という感じで、でも誰も何も言わなかった。

「藤原さん、こちらへどうぞ」
 あ、僕のことだ。
 僕は立ち上がって、足の動かし方を忘れてしまったかのように、ぎこちなくついていった。

「藤原さん、よく頑張りました。母子共に大丈夫です。かおりさんは疲れていますから、話しかけずに顔を見る程度にしてあげてください。当病院は個室の面会時間は決まっていませんが、出来るだけ一人ずつにしてあげてください」
と言われた。

 かおりには個室を希望しておいた。かおりの名前が書かれた部屋に案内された。朝だからか、とても静かで、かおりは眠っているように見えた。お気に入りの、ブルーのマタニティパジャマを着ていた。

 音も光もない部屋で、僕はかおりの頬を撫でた。かおりはあたたかかった。別れた時の痛そうな顔ではなく、いつものかおりの寝顔と同じだった。夢みたいだ。

 かおりの手を握った。握り返してはこなかったが、手はあたたかかった。


 ありがとう。
 声に出したつもりが声にならなかったけれど、僕はそう言って頬にキスをした。

 かおりも何か言いかけたのかもしれない。少し唇が動いて、微笑んだように見えた。よかった。僕は、もう一度頬にキスをした。

 横に赤ちゃんのベッドがあった。保育器ではない。かおりと赤ちゃんを同時に見ることができて、心の底から安心した。





 この時、ようやく、君に出逢えた。



 ブラインドの隙間から、朝日が少しずつ入ってきた。

 君を、こわごわ抱いた。産まれたばかりのかおりを抱っこした時と同じ、懐かしい重さ、懐かしい感触だった。おとなしくて、手だけが動いている。顔は僕に似ているみたいだ。ちょっと何か声を出した?顔を近づけたら手が動いて、僕の顔をかすめた。くすぐったい。僕は、自分が久しぶりに笑顔になったのを自覚した。


 感慨もひとしおで、嬉しかった。



 帰りたくなくなったが、今日は月曜日。午後からレッスンがある。仕事は出来るだけ休みたくない。少し寝てからレッスンして、終わったらまた来よう。

「また来るからね」
 僕は、君をベビーベッドに寝かせて、かおりにもう一度キスして、病室を後にした。

 夢で見た総合病院だった。新生児集中治療室の前を通ってみた。知らない場所の筈なのに、僕はそこを知っていた。

 ベビーベッドは二つあって、『ボクのママは◯◯◯◯◯』、『ワタシのママは◯◯◯◯◯』と、知らない人の名前が書かれたプレートが見えた。あれから何度となくあの夢を思い出し、かおりを失うことが、怖くてたまらなかった。

 さっきキスした頬はあたたかかった。握った手も、やわらかかった。かおりが微笑んだのもわかった。抱っこした赤ちゃんも、軽かったけれどその頭の重さを確かに感じた。大丈夫、夢じゃない。

 病院から徒歩で移動できる大学と家。今日はかおりを連れてきたから車がある。運転はやめておいた。車を病院に停めたまま歩いて帰宅して、数時間眠った。かおりも眠っているだろうか。

 午後からレッスンをして、夕方そのまま歩いて病院に行った。かおりの部屋から、僕の母親が出て来た。
「無事でよかったわ。何かあったらいつでも言ってね」 
「はい」


 病室は暗くしてあった。


「かおり、大丈夫?」
「うん」

「電気はつけなくていい?」 
「うん。……このままがいい」

 かおりと話ができて、僕は嬉しかった。

「ちゃんと眠れた?」
「うん。起きたらお母さんがいてくれた」

「食事は?食べられた?」
「うん。全部食べた」

「本当に?偉い!」
「ふふっ。家より味が濃かった。そうしたら、そんなこと言われたのは初めてだって、お医者様が驚いていた」

「僕も、今はそう思うだろうな」
「赤ちゃんを抱っこしたい」

 かおりはまだ動けない。僕は君を抱き上げて、かおりに抱かせた。

 優しい眼差しで赤ちゃんを見るかおりが美しくて、携帯のカメラに収めた。


「あのさ、名前。じん、はどうかな?漢字は『仁』」
「うん。素敵。ありがとう」


 それから僕は、君を抱いたかおりごと、優しく抱きしめた。僕は、仁と三人で写るように写真を撮った。

 かおりが君を欲しがらなかったら、僕は、まだこの幸せを知らなかったんだ。

 僕は今、何よりも幸せだと思った。


 君が、どんな風に愛されて誕生したか、これからの君の誕生日毎に、その時々の君にわかる言葉で話して聞かせたい。僕が両親にそうしてもらったように。


 そしていつか、僕たちのこの物語を伝えたい。













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