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77 君が奏でる部屋
しおりを挟む部屋を片付けていたら、懐かしいものが出てきた。写真集だ。かおりの宝物箱にも一冊あるが、在庫がここにもいくつかあった。もう随分前のことのようだ。学生だったし、あまり予算を掛けることが出来なかったが、カメラマンが良いものをたくさん残してくれた。懐かしくて、片付けの手を止めてページをめくった。
どのページにも僕がいて、何だか変な感じだ。撮影には大学にも許可をもらったから、あの頃の大学の写真は嬉しかった。まるで、僕だけの卒業アルバムみたいだ。
ホールで演奏している姿、ステージ袖で目を閉じる姿、胸の前で十字を切る瞬間……。
練習室で高橋と真剣に2台ピアノを弾く僕たち、かと思うと、僕が失敗して笑っている顔、高橋が不満そうにしている顔、そして二人で笑っている顔……。
学食でメニューを選んでいるところ、友人たちと譜面を広げて談笑しながらテーブルを囲んでいるところ……。
学内のロビーで掲示板を見ているところ、事務室の先生方とやり取りしているところ……。
本にするには写真が足りなくて、インタビューが掲載された。学生時代の内容なので、22才となっている。自分で読むのは恥ずかしいから、もう二度と見ないかも。
自分のことを聞かれて答えるのは慣れなくて、相手が困ったかもしれない。しかし、カメラマンもインタビュアーの仕事も、僕が本番のピアノに向かうことと同じなのだということが伝わってきた。
以下抜粋する。
『槇 慎一への質問 22才の彼の素顔は?』
好きな作曲家は?……三人挙げるとしたら、バッハ、ベートーヴェン、リスト。
好きな曲は?……ありすぎて答えるのは難しいな。ベートーヴェンの後期のソナタのフーガとか。
好きなピアニストは?……教授です。他にもたくさんの素晴らしいピアニストはいらっしゃいます。小学生の頃から教えていただいて、本番の教授はもちろん、レッスンで弾いてくださるフレーズ、生徒を引き上げる手腕、長い目で見て下さったこと、練習中の教授の姿は、一番身近で一番尊敬するピアニストです。
家族は?……商社勤務の父親と、ピアニストで音大講師の母親と僕。
好きなピアノのメーカーは?……何でも。同じメーカーでもピアノは1台1台違う。本番でピアノを選べるようなことはないから、リハーサルで特徴や状態を見て、自分がやりたいことを楽器に引き上げてもらえるよう、弾きこんでいきます。
家のピアノは?……3台ある。母親のレッスン室に2台、リビングに1台。もうすぐ引っ越すけど、そこには2台ある。僕は買ったことがないし、僕が選んだわけじゃないからノーコメント。
ピアノはお母様の影響で?厳しかった?子供の頃のピアノから進路を決めるまで、いかがでしたか?……ピアノはまぁ、当たり前にある環境だったから最初はやらされたかもしれないけど、僕も好きだった。自分でも覚えているから恥ずかしいんだけど、5歳まではめちゃくちゃに弾いていた。5歳で『丁寧』がわかるようになってからは母親も僕の自主性に任せてくれた。そんなに練習しなくても、やるべき時に真剣に取り組んでいたから叱られるようなことは全くなかった。……自分の意思で音楽を真剣に考えるようになったのは中学の時。僕の生徒をも大切にしてくださり、自分の足りないものに気づかせてくれた教授のおかげです。
恩師の言葉で心に残っている言葉は?……音楽性を高めることに関して妥協なく、厳しくて、直接誉められるようなことはなかったのですが、コンクールの点数と講評では、宝物にしたい程の暖かいメッセージをいただきました。本番で成功させること、結果を出すことへの厳しさは、常に意識させられていました。「もっといい男になれ」とも言われていました。最後に言われた言葉が「いい男になった。これからもうまくやれよ」でした。まさかそれが最後の言葉になるとは思いませんでした。僕は何も返せていないのに……。これ以上は……すみません。……あ、僕の卒業試験のライブ録音をしたCDとDVDに「ハラショー!」という教授の言葉が入っています。今後自信をなくした時に、あの時の精一杯の自分に会いに行って、教授の声を聞こうかなと、心の支えにしています。
本番前に必ずすることは?……ステージ袖で真っ直ぐに立って、目を閉じて、気持ちを整えます。十字を切ることも。僕は宗教はありませんが、母親が日常的にしていたのを見て、敬虔な気持ちで音楽に対してそうしています。常に、弾けることに感謝して。
コーヒー派?紅茶派?……両方好きだけど自分で入れるのはコーヒーが多い。
好きな食べ物は?……野菜かな。
好きなアイテムは?……トレンチコート。あとはハンカチはいつも持っています。
運転しますか?好きな車は?……学生時代に免許を取りました。時間を効率的に使いたい時、プライベートに使います。父親の車ですし、右ハンドルであれば、特に拘りはありません。
そのルックスにその長身!さぞモテるでしょうね?と大学の女子学生にインタビューしてみました。槇君のことを知らない女子学生は一人もいませんでした。槇君の印象は、同級生の男子か後輩の男子とご飯を食べることが多く、一人でいても練習していたり勉強していたりで、とりつく島がないと。冷たい、真面目、笑わない、彼女にどんな対応するのか読めない、恋愛対象は男か女か不明、などなど大変たくさんのコメントが寄せられました。その他、ピアノが上手い、洋服がいちいちお洒落、いつも質のいいものを着ている、お金持ち、お母様も同じ大学の美人講師と、槇君に憧れているという学生さんがたくさんいらっしゃいました。モテる要素がいっぱいの硬派な槇君、もう一人、学内で人気の軟派な高橋君からもメッセージを頂きました!
槇先輩、素敵な写真集の完成、おめでとうございます。先輩が卒業試験でショパンエチュード全曲を演奏されたので、自分はその偉業を上回るものを為し遂げることができるのか、来年の課題にしたいと思います。
槇先輩の女性関係?そうですね、僕は少し知っているつもりです。普段は良き先輩、良きピアニストとして接してくださいますが、そこはやはり、一人の……ただの男ですね。格好つけたいこともあるだろうに、飾らない先輩のこと、僕は大好きです。これからもずっと、応援しています。以上、高橋慎二。
高橋君から、意味深なメッセージを頂戴しました。
それでは槇君、最後にファンの皆様にメッセージを。
僕は、環境に恵まれていただけの凡人です。
これからも、作曲家の想いを音色で説得できる表現力を磨いていきたい。今後の課題です。それでも、天才ではなく普通の人間が努力してできること、自分が得たもので音楽の素晴らしさ、ピアノの美しさを伝えたいと思っています。伝える人がいなければ伝わらないから。
目標は、文化の継承です。……できるだけ多くの人に伝えたいし、多くの人に伝わるのも嬉しいけれど、まずは身近な人や、愛する人に、一番大切なことが伝わればと思っています。
それから、過去に行って、過去の自分に「大丈夫だよ」と言ってあげられる自分になりたいです。
最後のページは、大学のレッスン室で、僕が教授にレッスンを受けている写真だった。
そう、この日が最後のレッスンだったんだ。教授が僕を見る、厳しくも暖かい眼差し、究極の美しさへと誘う手……。教授、僕とかおりに、たくさんの愛を、ありがとうございました。
僕は静かに本を閉じた。
ピアノの音が止んだ。
仁が走ってきた。
小さいヴァイオリンを持っている。
「パパっ!」
「仁、楽器を持って走ったらダメだよ」
「できたよ!きいて!」
「走ったらダメだって言ったパパの言葉は聞こえたか?」
「はーい!だから、きいてくれる?」
「ザイツのカデンツァか?聴かせてごらん」
もうすぐ、僕の母親の発表会で弾く、ザイツ作曲ヴァイオリンコンチェルト1番。1楽章の中間部にカデンツァがある。
伴奏のない、ヴァイオリンの独奏部分。技巧的だったり、歌わせたり、演奏者の力量が試されるところだ。この曲のカデンツァは、なめらかなアルペジオで演奏する。アルペジオ一つ一つの音を正確な音程で弾くことだけでも難しいが、それをなめらかにつなげて、歌わせて演奏する。
仁は、ここの部分をずっと練習していて、できたばかりで嬉しいのだろう。
慎重にテヌートをかけ、一つ一つ大切に、それでいて駆け上がるような上行形を成功させた。伸びやかな最高音のヴィブラート、下行形はゆっくりとスラー、スタッカート、スラー、そしてフェルマータ。ヴィブラートしたまま、ゆっくりと弓を止めた。そして次の小節の頭の開放弦の重音の響きをぴったりとつかんだ。
「素晴らしい!よく頑張ったね!」
「ありがとうパパ!」
「ママにもありがとうをしておいで」
「はーい!」
仁はやっぱり走っていった。向こうから声が聞こえる。
「ママ!ありがとう!」
「仁、走ったらダメって、パパにも言われたでしょう?壊れてもママには直せないわよ?」
かおりが直したら大変なことになる。僕は思わず口を出した。
「仁、ヴァイオリンが壊れたら、大学の楽器店の隣の工房にママを連れていくんだ、覚えておいて」
「はーい!」
「最後に通して、練習をおしまいにしましょうか」
かおりの伴奏で、二人で最初から演奏する音が聴こえた。かおりの得意なオーケストラの音だ。
僕はそれを聴きながら、作っておいた夕食を温め直した。
かおりと君のいるこの部屋が、僕は大好きだ。
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