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新婚時代の想い出
10 新たな舞台へ
しおりを挟む「槇ぃ!プロポーズ上手くいったよ!ありがとう!」
松本から電話がかかってきた。僕は思わず耳から携帯電話を離した。絶対に電話の向こうで片手を挙げながらクルリと回ったに違いない。プロポーズが上手くいったか。よかった。僕は安心してそれを伝えることができた。
「……よかった。こちらこそ、かおりが世話になった。感謝するよ。また何かあったら声かけてやってほしい」
「そう、それなんだけど、師匠もちえみも生で聴きたいから伴奏者連れてきてって。槇も来てよ」
「わかった。先生の都合とご自宅の場所を連絡して。メールね。ありがとう」
すごい!『次』に繋がった。いくら良く弾けたとしても『次の依頼』があるかどうかは運もある。何があるかはわからなかったが、生で聴きたいというのは最高の誉め言葉だ。
そう、かおりの音は本当に綺麗だった。
電話の雰囲気を察知してにこにこして寄ってきたかおりに報告したら、嬉しそうにした。僕がプロポーズした時と変わらない。にこっと笑ったかおりが、かわいくてかわいくてたまらなかった。僕は思い出してかおりにキスをした。かおりは僕の腕の中で蕩けていった。
日程を調整後。
かおりを連れて、松本の師匠である篠原先生の御自宅に伺った。
「やあやあ、槇君!ピアニストは君の奥さんなんだってね。実に素晴らしい夫婦だ!さあ、入って入って!」
声楽の先生は、テンションが高い人が多い。今の台詞も両手を広げてよく通る声だった。吹き抜けの玄関から天井にかけてよく響き、まるでステージにいるようだった。ホールでも映えるだろう。松本が日常から全てをオペラ仕立てにするのも頷ける。ここに住めば、登場人物が増えて毎日オペラが出来そうだ。僕は笑いそうになった。かおりは大人になるにつれて少し話せるようになったが、小さい声は変わらない。かおりもここで暮らしたらさぞ……。
ピアノのあるレッスン室に行くと、松本とちえみさんが出迎えてくれた。セッティングされたオペラシーンに入り込んだかのような、濃いピンク色の、愛の雰囲気が出来上がっていた。こちらが気恥ずかしくなる程だ。すごいな…………。
「槇ぃ!来てくれてありがとう!」
やっぱりこのテンションか……。
長時間いたら暑苦しそうだ。
「発声もできてるみたいだね。すぐに歌える?」
「あぁ。かおりさん、よろしく」
「よろしくお願いします」
かおりはピアノの椅子に座って楽譜を広げた。僕は隣に座った。
松本はピアノの枠に手をかけて立ち、ゆっくりと前に出て『献呈』を歌った。スタジオで歌った時よりも更にのびのびとした、艶のある、いい声だった。
ちえみさんも、師匠の篠原先生も、奥様も幸せそうに聴いていた。
演奏後、篠原先生が言った。
「素晴らしい!松本、いいピアニストを見つけたな。槇君、奥さんを隠してちゃダメじゃないか!いや、実はね、今度、大学合唱団の伴奏ピアニストが結婚して引っ越すとかで、後任を探しているんだ。奥さんにお願い出来ないかと思ってね。忙しい?」
「それはそれは。かおり、どう?」
「ありがとうございます。是非弾かせて頂きたいです」
「そうか!よかった!正式な依頼はまた後できちんとするから。来年度からで、直ぐじゃなくて悪いけど、こんなに早くいいピアニストが見つかってよかった。次回にでも契約書を用意しておくよ。本番は二台ピアノで伴奏することもあるけど、槇君とお願いできるかな?」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
僕にも出番があるのか。二台ピアノの伴奏とは、いい作品に出会えそうで楽しみだ。
「今までのレパートリーはこんな感じ。これからのレパートリーはこっち。よかったら持っていってくれ」
篠原先生は、僕達の前に楽譜の束を置いた。
合唱ピアニストは毎週練習があることが多い。ソリストのようにいきなり曲を変更したり、いきなり調を変えることを求めたり、リハーサルと違うことを本番でやったりする臨機応変さを求められることもない。固定収入になる良い仕事だ。しかも、今回の依頼は母体が音楽大学だ。演奏会の機会も多く、団員も大所帯でファンも多い。丁寧に練習するかおりには良い仕事だ。よかったな。
それから篠原先生の奥様が夕食をふるまってくださり、皆で婚約パーティーのようだった。松本はちえみさんと見つめあっては微笑んで、演技ではなく幸せそうだった。
かおりが化粧室に行った後、ちえみさんに呼ばれていった。内緒話をしていたようだ。かおりは柔らかく微笑んで、頷いて返事をしていた。かおりがお姉さんのように見えた。いつも儚い少女のようだったかおりが……。
僕は幸せなお酒も入った。今日は電車で来ている。かおりと手をつないでご機嫌で帰った。
「かおり、ちえみさんと何を話していたの?」
「ちえみさんが、『女の愛と生涯』を松本さんに歌ってお返ししたいって。その伴奏を頼まれたの。松本さんにはまだ内緒って。近いうちにどこかで歌う機会をつくるって」
「すごい!シューマンか。教師であるお父さんに才能ある娘、弟子と娘の結婚……まさにシューマンとクララの関係だね。幸せそうだ。かおり、合唱団に新たな伴奏、素晴らしいね」
「うん、嬉しい」
「仕事だよ?わかる?」
僕は久しぶりに師としての顔を意識して見せた。
「はい」
かおりはきちんと返事をした。耳が良く、小さな頃から素直で、新しいことを習ったら工夫して練習する生徒だった。
またかおりと一緒にピアノを弾いていけることが、本当に嬉しかった。
「かおり、この前松本にもらった謝礼、本番用の衣装と靴を買う必要があるだろうから、取っておきなさい。代わりに、僕からお祝いにアクセサリーをプレゼントするよ」
「はい。……あれ?私が慎一さんにプレゼントする話は?」
「僕がプレゼントしたいんだ。かおりはちっとも欲しがらないから。そんなに幾つも買えないけど、たまには贈らせて?」
「……はい。ありがとうございます」
たくさんの伴奏譜を抱えて、かおりは幸せそうだった。僕が楽譜を買ってやった時みたいだ。
僕以外にも、誰かに必要とされる幸せを感じているだろう。しばらくピアノを休んでいたかおりも、もう練習する習慣がある。仕事として応える心構えもできてきた。様々な経験をして、それを表現することができる。
またかおりのピアノを聴ける日々が楽しみだった。
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