君が奏でる部屋

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新婚時代の想い出

11 一緒にパリへ行こう

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 かおりが頼まれた、シューマン作曲の『女の愛と生涯』は、ちえみさんが披露宴で歌うことになった。松本は『献呈』も歌う。


 シューマンの『女の愛と生涯』は、歌詞を読んでも音楽を聴いても愛に溢れていて、女性の愛し方に尊敬の念を抱く。それを曲に表したシューマンの感性も素晴らしい。男の僕から見ても、女性の懐の広さを感じる。
 女性は母親になる過程があるからだろうか。かおりはまだまだ少女のようではあるけれど、やはり僕への気持ちにそういうものを感じる。自惚れているだろうか……。僕の方が嫉妬したり拗ねたり、単純だと思うこともある。多分、かおりはたくさん我慢していることがあるだろう。


 披露宴では、大学合唱団から数人だけのアンサンブルでお祝いの演奏もあるらしい。短い曲を一曲、現在のピアニストが伴奏し、かおりが譜めくりをすることになった。

 楽器や器楽曲の美しさはもちろんわかっているつもりだが、人間の声の美しさ、合唱、とりわけ声楽の少人数のアンサンブルは素晴らしい。僕は質の良い声を近くで聴く機会が増えて、心が豊かになるようだった。





 結婚式は、ちえみさんの楚々とした雰囲気に、純白のウェディングドレスが綺麗に映えていた。松本の芝居がかった態度にも、本物の自信が加わったようだった。松本のヘタレな一面を知っている僕は、松本の弱々しさを感じさせない堂々とした態度に拍手を送った。


 かおりも新しい知り合いが増えて、少し大きな声で挨拶ができるようになったみたいだ。来年度からは合唱ピアニストか。僕と同じように、年間を通して拘束されるようになる。

 そうだ、その前に……。




「かおり、今からデートしよう」

 披露宴の後、かおりをホテルの庭園に誘った。


 夜の庭園は、仄かなライトアップが綺麗だった。人もあまりいない。まろやかなクリーム色のドレスを着た、まだ若くて綺麗なかおり。今日の伴奏も美しい音色だった。僕はそんなかおりが誇らしく、たくさんの人に聴いてもらえて嬉しかった。僕は普段から練習を聴かせてもらえる。かおりが練習に向かう、ひたむきな姿も好きだ。


 庭園の花壇の広い場所に出た。

「かおり、新婚旅行に行こう」

 僕は思い切って伝えた。

 それは、昨日まで考えていなかった。いや、本当は今までにも考えたかった。しかし、ピアニストとして僕自身の仕事を軌道に乗せること、練習が欠かせない、まともな休日もない音楽業界特有の不規則な僕の仕事。かおりの生活になるべくストレスを少なくするように気をつけてきた。

 合唱ピアニストの仕事が始まったら、かおりはかおりで忙しくなる。僕は仕事に融通を利かせることもできるようになった。大学のレッスンは動かせないが、少しだけなくなる受験期間中に、まだ実現させていなかった新婚旅行に行こうと思いついたのだ。


 僕は、かおりにそれを説明した。

「かおり、どう?」
「はい」

「パスポートを準備しよう」
「パスポート?」

「フランスはどう?教授の奥様に会いに行こう」


 かおりは、手に持っていた引き出物を落としてしまった。割れる物はなかっただろうか。僕は拾って中を確認し、自分の荷物と一緒にした。




 かおりはおそるおそる口を開いた。

「慎一さん、嬉しい。ありがとう。でも、それって……いくらくらいするの?」

 ありがとうで終わるかと思ったのに。お嬢様育ちで買い物すらしたことがなかったかおりも、僕の収入で生活していくうちに、物事の値段を気にするようになったか。


 僕たちはふんだんに音楽に囲まれ、一見贅沢な生活をしているが、大学の教員住宅で相場よりも格安で暮らしているし、生活は質素で何の贅沢もしていない。もう結婚して数年たつ。多少は貯蓄と言えるものもある。


「心配いらないよ。奥様に連絡してみよう。それより、向こうで奥様に何を聴かせるか考えておいて。新婚旅行、遅くなってごめん。まだ新婚の気分で僕についてきてくれる?」
「うん、嬉しい。リサイタルできるくらい、準備する」

「いい答えだ。流石、僕の妻。時間がある今のうちに、僕がレストランで演奏するのを聴きにおいで。もう、一人で食事できるだろう」
「はい」


 新しい目標に加え、新しい楽しみができた。かおりと、ずっと一緒にいられるなんて、本当に楽しみだ。準備すらも。前倒しで譜読みさせることも……かおりには言わなくても大丈夫だな。もう一人で出来る。僕はそのように育てた。


 僕も新しいレパートリーを増やして、このレストランのピアニストになくてはならない人になろう。





 かおりの弾いた『女の愛と生涯』。
 かおりは五曲めの最後の部分が好きだと、僕に言った。

『私の太陽よ、あなたは私を照らしてくれるでしょうか。私の思いをこらして私を慎ましい気持ちで、私を、私の主人の前にひざまずかせて下さい』


 僕は、四曲めの最後の部分が好きだと、かおりに言った。
『お前、私の指輪よ、私はお前を敬虔な気持ちで唇におしあてよう。お前を敬虔な気持ちでこの私の胸に』



 かおりはそれを聞いてにこっとした。

 夜の庭園の花壇の前で、僕たちはまるでプロポーズをしたばかりの二人のようになって、静かにキスをした。


















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