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新婚時代の想い出
17 酒を飲まされる
しおりを挟む音楽大学合唱団の指導が終わった。
今日は俺が担当した。結婚した『ちえみ』の父親である篠原先生が正指揮者である、合唱団だ。大学教授の篠原先生は俺の師匠であり、義理の父となった。
そのうち、団の指導者を俺に交替すると言ってくれた。何年後でも構わない。師匠に信頼されることはこの上ない喜びだ。
見学に来ていた藤原かおりは、多彩な音色を奏でるピアニストだ。新年度からこの合唱団の伴奏ピアニストとなる。その丁寧な音づかいに、団員の美意識は更に高まるだろう。俺の大学時代の同期の、槇のパートナーでもある。合唱団の方向性、団員のより良い生かし方など、藤原にも共有してもらいたい。藤原の意見も聞きたい。
俺は練習後、藤原に『真面目モード』で声をかけた。
「今週の金曜の夜、空いてる?誘いたい演奏会があるのと、相談というか、今後の合唱団のことで話がある」
藤原は、その場で手帳を広げた。無防備で、こちらにも丸見えだ。何か書いてある。文字までは読まないが、見える。『夜レストラン』か。槇の予定だな。
「はい。よろしくお願い致します」
二人で出掛けることに躊躇なし、か。まぁ、仕事だしな。
「待ち合わせと時間はメールする」
「はい」
誘った演奏会は、声楽の演奏会だ。篠原先生が行きたくない……もとい、都合のつかない場合でも俺が代理で行くことで顔が立つ。はっきり言って義理で行かなければならない演奏会がたくさんある。日が良ければ重なる重なる。『踏み絵』か!と言いたくなる程だ。偉くなると大変そうだが、俺はまだまだ何か言える立場ではない。篠原先生は日本の声楽界でも、音楽大学の教授としても成功している。世界のバリトンとまでいかなくても、俺は篠原先生くらいになりたい。
金曜日。
藤原を誘ったのは、篠原先生の知人の声楽家の弟子の演奏会だ。まぁ普通に良かった。だが、「普通」だ。まだ若く、情熱とか色気とか、客を強烈に惹き付ける個性とか……海外に比べたら全く物足りない。真面目でいい子ばかりの日本は土壌が違うか。槇も優等生だ。日本の音楽界で生きていくなら上等だが。『恵まれた環境で育った凡人だ』と自分で言っていたが、自慢でも謙遜でもない。己をよく判っている。しかし、藤原はとても良いものを持っている。槇の人生の全てを彼女に注ぎ込んで育てたのだろう。俺的には、理想的な師弟関係だ。大人しくてあまり口を開かないが、槇と一緒だと表情が緩んで、可愛い顔をする。
俺の妻のちえみも可愛いが、技術的にも個性的にも、どうにも薄い。ピアノ科に行ける程ピアノは弾けないし、プリマドンナになるような個性のある女でもない。音楽に理解のある家庭で、合唱が好きで声楽に行っただけだ。師匠の奥様同様、人付き合いが上手く、可愛い妻だ。
「今日は付き合ってくれて有り難う。どうだった?」
俺は藤原に聞いた。
「こちらこそ、ありがとうございます。声楽の演奏会はあまり行ったことがなくて。……素敵な声でした」
にこっと笑った。俺にも少し慣れてきたようだ。
「ちょっと飲みに行こうか。……今まで演奏会は何が多かった?やっぱりピアノ?」
「はい。慎一さんのお母様が出演される室内楽やピアノのリサイタルは小さい頃から聴かせていただきました。聴きに行ったのはオーケストラが多かったです」
「そうか……オケが多いの、納得」
「そうですか?」
「音色が多彩だから。ピアノ弾きで、なかなかここまでの人はいないよ」
「……慎一さんのおかげです」
「ふうん?……飲める?」
「はい」
俺は藤原にメニューを渡した。カクテルが出てくる、カジュアルな店だ。槇がBGMピアニストとして演奏しているような高級フレンチではない。店内はそこそこ賑やかだ。急かすつもりはないが、藤原はメニューを見て目をキョロキョロさせている。
「どんなのがいいの?」
「甘くない飲み物がいいです」
俺はウェイターを呼んで告げた。
「チャイナ・ブルーと、アラウンド・ザ・ワールドを」
運ばれてきた飲み物に、藤原は驚いていた。
「綺麗な色……青い飲み物なんて初めて。そちらも緑色、綺麗……」
「両方試してみて。好きな方をどうぞ。そっちはライチとグレープフルーツだ」
藤原は暫く物珍しそうにうっとりと眺めてからそうっと口にした。ふうん?……結構色っぽく見えるな。
「槇とはどんなの飲むの?」
「慎一さんはコーヒーを入れてくれます。私が入れる時は紅茶にすることもあります。お外ではリンゴジュースとか」
え……もしかして、俺は知らない世界のものを飲ませてしまったか……。まぁ、俺は藤原に邪な気持ちはない。槇のパートナーだし、合唱団の今後について話したいだけだ。仕事上、音楽上のパートナーになってもらいたい。残念だがそれはちえみではない。ちえみは団員と仲良くしていてくれる。それも大切な仕事だ。
「こっちも試してみて?まだ付けてないから」
「……ありがとうございます」
「強いの?」
少し飲んでから、表情をしかめた。これはそっちよりは辛口だ。……平気そうだな。しかし返事はない。
「顔は赤くならないタイプ?」
「……慎一さんには赤くなるって、言われます」
「ふうん?大丈夫そうかな?じゃ、仕事の話ね」
俺は藤原に合唱団の次の曲のこと、団員のパートのバランスなど、俺の考えを話した。
「藤原はどう思う?」
「はい。曲は……前回のラテン語のものもよかったと思います。無伴奏だと不安定になりやすい方が数名いらっしゃるのでしょうか、響きに僅かな濁りを感じましたので……バランスを調整するか、少人数でのアンサンブルにすれば問題ないかと。……演奏会を増やすなら、聴きにいらっしゃるお客様にもわかりやすくて、完成度を上げるレパートリーを増やしておくといいのかなと思いました。私のような慣れない人にも美しさだけで楽しめるような……」
「やはり耳がいいな。冷静だし、客観的な意見、助かるよ。今は篠原先生だけど、多分近いうちに俺と藤原に任せたいと言ってる。俺が無茶苦茶言ったら意見して」
「意見だなんて……」
「いや、今みたいに思ったこと言ってくれ。遠慮しなくていいから。そういう関係でいたい」
藤原は眠そうだった。さっきまでしゃべってただろ?
「大丈夫?後で送るけど。今日、槇は?」
「慎一さんは今日、レストランでお仕事です。あ、……電話してもいいですか?」
「どうぞ」
藤原は携帯を取り出した。通話相手の名前に『槇』という文字が見えた。
「かおりです。今、新宿に来ていて……一緒に帰れますか?……ここはどこですか?」
突然、俺の方を向いた。おいおい、危ないな。
「新宿の◯◯◯◯のティーラウンジだ」
藤原は、俺の言った場所を相手に告げた。切った途端に急激に眠気が襲ったみたいだ。槇が迎えに来るのか……。ちょっとヤバいか?これ…………。
「かおり?」
30分程、もっと短い時間だったかもしれない。
「あぁ、槇……槇?」
藤原に声をかけたのは、明らかに仕立ての良いスーツを着ている、仕事帰りのサラリーマンだった。槇に似ているが、槇ではない?
「慎一の父親だ。君は?」
「松本と言います。槇とは大学の同期で、藤原さんとは仕事仲間です」
「成る程ね。この状況、かおりは慎一に説明できるのか?」
「すみません。後で俺から槇に話します」
「そうしてくれ。今日は俺が送っていくから。かおり、立てるか?」
かおりは素直に従った。随分慣れているみたいだった。藤原も、槇の父親に頬をつけて……槇と間違えているのか?いや、似ているけれども……。
「藤原、今日は有り難う。また宜しくな」
藤原は、槇の父親に支えられながらも俺に挨拶をした。
「ありがとうございました。失礼致します」
舌が回っていなかった。
俺は二人を見送ってから槇に電話をした。今はまだ仕事中だろうが、着信の履歴が残ればいい。
後で槇から電話が来た。俺はかいつまんで事の顛末を話した。
「……という訳で、父上がお連れした。悪かったな。酒は初めてだったのか?」
「あぁ、まだ飲ませたことはなかった。……さっき父親から連絡もらった。僕の実家に行ってる。お陰様で、来月新婚旅行に行くし、ワインとか飲ませてみることにするよ。報告、了解した」
「槇……穏やかじゃないだろうに」
「まあな。でも、松本でよかったよ」
「それはどうも」
槇も、槇の父上も、いい男だ。
支えられている女も、いい女だ。
酒の味を覚えさせるのはこれからか。
楽しそうだな。
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