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新婚時代の想い出
19 不安を取り除く
しおりを挟む目が覚めたら、見慣れない部屋に私一人だった。
ここはどこだっけ、どうして……。
慎一さんは……。
「かおり、起きた?」
部屋のドアを開いて、慎一さんが入ってきた。それでも、私はすぐにわからなかった。
「かおり?パリにいるんだよ?覚えてる?」
あ……そうか。でも、いつ寝たのか覚えていない。
「かおり、大丈夫?」
慎一さんが近くに来て私の顔を覗きこんだ。
「朝食ができたから着替えておいで」
頬を優しく撫でてくれた。
その手が、大好き。
私はパジャマを忘れたから、慎一さんの服を着ていたことを思い出した。大きすぎる。私は返事をして着替えた。
リビングに行くと、慎一さんと奥様が楽しそうに朝食の支度をしていた。
「カオリ、オハヨウ!」
奥様が抱きしめてくださった。懐かしい。
朝食を食べていても、なんだか現実感がわかなかった。
「かおり、どうした?食欲ない?お腹すいてるだろう?」
うん。お腹はすいている。でも、何だろう……。慎一さんが心配してる。何を?そんなに心配してもらうことじゃない……ような。
「うん、お腹すいてた。大丈夫」
私は笑顔をつくって出されたものを食べた。でも、あまり味がわからなかった。コンクール前に毎日レッスンしてもらった時、毎日食べさせてもらった、食べ慣れた奥様のお料理なのに。覚えてる、でも……なんだろう。
「少し散歩に出よう。暖かくしておいで」
慎一さんが誘ってくれた。
外は寒かった。空気が冷たくて、でも、いやじゃなかった。歩いても歩いても、探しているものはなかった。……何を探していたのだろう。慎一さんも、特にあてがある訳ではないみたい。
「そろそろ引き返そうか。かおり?元気ない?どうした?」
私は、慎一さんが聞きたいことには答えられなかった。
「ううん、帰ったら練習する」
奥様の家に帰ってから『水の戯れ』を弾いてみた。ほんの少し弾いただけで、私は弾くのを止めた。ダメだ。今は弾けない。
「ごめんなさい。慎一さん、先に練習してください」
「……わかった」
慎一さんは何も言わなかった。おこられなかった。本当は何か言いたかった筈。ごめんなさい。私は寝室に戻って、ベッドに座った。
慎一さんが練習している音が聞こえる。教授の音色が見えるような気がするし、教授の音楽が生きているみたい。なのに…………。
ない。ないんだ。いないんだ。
私が心のどこかで探していたのは、教授だ。私がステージで演奏している時に、客席で聴きながら亡くなったと聞かされた。急なことだったし、お別れもできなかった。もし、私が外国に行く機会があったら、それは留学なんだと思っていた。私の希望ではなく、皆がそう期待……応援……してくれたことを知っている。でも、外国に来ても教授はいない。ここにもいないんだ。
心がぽっかりと空いて、どうしたらいいかわからなかった。あと数日で演奏会がある。戻さなきゃ。どうやって立て直すんだっけ……。自分を立て直す方法……。大丈夫、確か……。思い出さなきゃ……。
「カオリ?」
奥様が入ってきて、横に座った。
「ワタシを見ると、彼を思い出すんでしょう?」
私は何も答えられなかった。そうだ。教授と奥様は仲が良くて、いつも近くにいた。ずっと忘れて……考えないように蓋をしていたけれど、今、奥様だけしかいないことに、私はどうしようもなく寂しかった。奥様が抱きしめてくださった。
「シンイチが話してくれた。あの後……、彼が亡くなってから、カオリはずっと元気がなかった。しばらくピアノを弾かなかった。男の子が産まれた。カオリと同じような才能のある子供。カオリが今、ようやく演奏活動ができるようになったからパリに来た。カオリ、彼を想ってくれて、ありがとう。でも、ワタシタチは、彼がいなくても、まだ生きていくのよ。ワタシタチには音楽があるでしょう?」
奥様は、優しいフランス語でそう話した。
どれくらいたっただろう。慎一さんが『鏡』をざっと通して、少し弾き直しているのが聴こえる。もう、終曲だ。
音が止んで、部屋のドアが開いた。
「シンイチ、いいラヴェルだった」
「奥様、ありがとうございます」
今度は慎一さんが私の横に座った。きっと心配してる。私は、あわてて言った。
「待って、わかってる。自分を立て直すから、ごめんなさい、待って……」
「かおり、僕がいる時は僕に頼っていいんだ。一人で塞いでしまわないで。もっと僕に甘えて」
慎一さんは、そう言ってきつく抱きしめてくれた。ぎゅっとされるのは安心する。安心すると、私はまた眠りの中に入っていくのがわかった。眠れる。うっすらとした記憶の中で、慎一さんが寝かせてくれて、唇と頬に優しくキスをしてくれたのがわかった。
そう。自分で自分を立て直す方法……立ち直るのに一番効果的なのは眠ること。時間はかかるけど、次に起きた時にはすんなり弾ける筈。今は眠って……今度起きた時は、きっと……大丈夫。
また、「甘えて」って言われた。何回目だろう。できなくて、ごめんなさい。慎一さんが、私にあんなに強く言う「甘えて」が、まだわからなくて、ごめんなさい。
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