君が奏でる部屋

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新婚時代の想い出

25 僕の全てをあげる

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 結婚して数年経ってから、ようやく叶った新婚旅行だった。
 12日間のパリ滞在中、前半はリサイタルのための練習とレッスンだった。作曲家に縁のある地を訪れ、美術館にも行った。


 作曲家の家、墓地、美術館は、どれもたくさんある。パリだけに絞っても、廻りきれない程ガイドブックにある。パリの近くの美術館を巡り、水上バスでセーヌ川を下り、教会や公園を散歩した。演奏会にも行った。


 パリの中心部から少し離れたラヴェルの家にも行った。郊外の風景の中を、かおりと手を繋いで歩いた。僕はゆっくり歩いたつもりだが、たまに小走りについてくるかおりが、かわいくてかわいくてたまらなかった。
 『見晴らし台』と呼ばれる、そこから聴こえる鐘の音は、昔ラヴェルも聴いたのだと思うと、感慨深かった。
 ピアノを弾いてもいいと言われ、僕は『道化師の朝の歌』を、かおりは『水の戯れ』を弾いた。案内してくれたスタッフは、僕達の演奏にとても喜んでくれた。
 帰りも来た道をまた歩いた。疲れはしたが、満足感でいっぱいだった。あまり話さなかったが、繋いだ手が暖かくて、充分すぎるくらいだった。



 最終日だけ、奥様は別のホテルを予約してくれていた。僕でも名前を聞いたことのある有名なホテルだった。部屋からはエッフェル塔が見え、時間になるとイルミネーションを見ることができるという。毎時、数分間輝くフラッシュは綺麗だった。僕は、奥様に教えてもらった、最後の特別なフラッシュをかおりと一緒に見たかった。かおりは直ぐに眠くなるだろう。僕はかおりを疲れさせないように優しく抱きしめ、他愛のない話をしながら過ごした。ピアノもない、練習をしない日は、僕達には珍しい、特別な日々になった。


 最後の時間……最後のフラッシュは特別なものだと聞いていた。深夜一時のイルミネーションが始まる。僕の腕の中でうとうとしているかおりの頬を撫でて起こした。ライトアップが目映い。

「ぅわ!すごい綺麗……。本当だ。今までのと違う。かおり……」

 かおりは僕の腕の中で目を開けて、それを見ていた。

「かおり、愛してる」

 長い髪を撫でながら、パリの最後の夜を過ごした。







 翌日。

 パリ最終日。僕達は空港に向かう前にコンコルド広場に行った。噴水があった。その噴水を見つけた途端、かおりは僕の手を離して走って行った。手で水を掴むほど近くまで行って止まった。


「かおり?」


 かおりは水と空を見あげていた。



「これ……ママが描いたのはこれ」

「え?」


 何のことだ?


「ママが大学の時に描いた絵は、これのこと……。多分、水と光だけ取り出した……空の青と、水の透明感……」
「フランスのコンクールで入賞したっていう絵?」

「うん。大学に飾ってある方。……もうひとつ家にあるのも……モチーフは同じで……どちらかを練習にしたのか、対になってるか、きっと、夜の青……」
「かおり、向こうにも、もう一つ噴水がある筈だ」


 少し離れたところだが、僕が指した方向にかおりは走って行った。僕は追いかけた。

「やっぱりそう。こっちが、家にある方で、……あっちが、大学にある方」


 かおりは息を弾ませながら僕に言った。

 僕は、知らなかった。今初めて二人で発見した。大学に飾ってある絵も、家にある絵も、見たことがあった。音楽で言うと、即興演奏のような、模様のような、はっきりと形にならないものが描かれた、綺麗な絵だったのだ。何と言う偶然だろう。かおりが感じたことだ。きっとそうなのだろう。


「来てよかった。慎一さん、ありがとう。大好き」
「僕も、かおりと来られて良かった。僕も大好きだ」

「『水の戯れ』を弾きたい……」
「帰ったら聴かせて」

「空の青と、水の透明感。夜の青と、闇の透明感……私は、その絵みたいな、その絵が音だったら、慎一さんと教授の音色。慎一さんの透明感と、教授の、深い青……」

 かおりは譫言のように呟いた。わかる。まとまらないけれど、言いたいことはわかる。そう、昔。かおりにハンカチをもらったことがある。僕には綺麗な水色の、教授には濃紺色のハンカチだった。

 僕達は時間が許す限りその光を浴び、はじけるような水の動きを、心の中に大切にしまった。僕は、ドビュッシーの『水の反映』を弾きたくなった。かおりが僕の音に感じてくれる空色と、水の透明感を、より表現してみたい。




 シャルル・ド・ゴール空港を19時に発つ。
 
 14時には羽田空港に到着する。





 来てよかった。

 かおりが、まだまだ僕のことを思ってくれていることが、たまらなく愛しかった。


 二人で開いたリサイタルは、お世話になった奥様に、少しでも恩返しできただろうか。

 かおりがピアノを弾いてくれた音。
 連弾で僕の音色に溶け合わせ、一つになってくれた奇跡の瞬間、あの音楽、あの感動を、日本に帰っても僕は忘れないだろう。




 幼なじみで、生徒で、僕の妻になったかおりは、年齢よりも子供っぽくて、素直で純粋で直向きな女の子だった。時折、無自覚に大胆な言動をして、その度に僕を男にした。




 帰りの機内ではかおりの背中を座席につけ、額を押し、頭も座席につけ、頬を撫で、眠ったのを確認してから僕も眠ることにした。

 日本の航空会社だ。
 ようやく日本語が通じる。
 かおりのフランス語は綺麗だったな。

 僕は、隣で眠っている妻の唇にキスをした。



 同じ師から芸術を受け継いだ者同士。
 音色をも合わせられる、愛し合う相手。


 今度の共演では、僕がかおりの音色に溶け合わせよう。僕がかおりの音色を引き立てる音を奏でよう。

 かおりが僕にくれたように、僕がかおりの欲しい音を与えよう。

 その音色は、音楽への憧れ。
 追究していく過程は、時に困難が伴うだろう。

 これからどんな事があっても、世界が美しい音楽で溢れ、人々の心に安寧が永く続きますように。




 
















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