君が奏でる部屋

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新婚時代の想い出

24 絵画を見つめる

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 翌日。
 美術館に連れて行った。パリには美術館がたくさんあり、とても数日間ではまわりきれない。僕はかおりが興味があるもの、見たいもの、したいことを優先させたかった。

「かおりはどこに行きたい?何が見たい?」

「……特に、どうしても行きたいところはないの。慎一さんが一緒にいてくれるなら、どこでもいい」

 かわいいことを言ってくれる。別行動なんて、する筈もない。

「一緒にいるよ。じゃあ、僕が行きたいところに連れて行くね」

 かおりは頷いた。


 オルセー美術館に連れて行った。僕はブグローとカバネルの『ヴィーナスの誕生』が見たかった。特にカバネルの『ヴィーナス』は、初めてかおりを抱いた時に思い出した。幼なじみでずっと近い存在ではあったが、結婚するまでキスだけしかしなかった。マリア様の学校に通うかおり、学校案内の冊子に掲載されている、制服姿でお祈りするかおりの写真が綺麗で、結婚するまで大切にしていた。

 いや、それは綺麗事だ。かおりは顔や態度に出てしまうから、僕が我慢しただけだ。学校では仲良しのお友達にも、陰では「幼稚部のマリア」という渾名で呼ばれていたらしい。誰かからこっそりと仕入れたその話に、笑ってしまったことを思い出す。




 絵画は、どれも美しかった。僕は音楽みたいに細かいことは何も言えない。かおりのママは絵を描く人で、かおりはそれを見て育っている。僕よりも鑑賞力があるだろう。

 僕は、かおりが気に入った作品をかおりのペースで好きなだけ眺めていられるように、後から付いていきながら、あることを思い出していた。





 かおりのパパとママは、上野の美術館で出逢ったと聞いた。それはかおりからではなく、かおりのパパからでもなく、僕の母親から聞いた。かおりのママと僕の母親は幼稚部から高等部まで同級生で、大学は別々だった。しかし、大学のキャンパスが近いこともあり、大学時代もずっと仲良くしていたらしい。

 かおりのパパとママはお互いに一人で、別々に美術館に来ていて、何か大きな、同じ作品を長い時間見ていたことを、お互いに気づいていたらしい。どんな作品を見ていたのかは二人しか知らない。その作品に、何か惹かれるものがお互いにあったのだろうか。感性が合う、とはそういうことなのだろうか。素敵な出逢いのエピソードだ。

 だが、僕の母親の話では、かおりのパパが先に美術館を出たという。かおりのママが美術館を出たのは暗くなる頃で、知らない男に怖い思いをさせられ、逃げてきたところをパパが助けてくれたという。何をされたのかは、パパも母親も聞いていないし知らないという。震えていて、パパは送って行きたかったが、パパも男だから怖いだろうと思い、電話で迎えに呼ばれたのが、僕の母親だった。

 かおりのママは話すのが苦手だったから、僕の母親が伝言係となって、仲を取り持っていたようだ。かおりのパパとママ、僕の母親と三人で何回か会ったそうだ。かおりのパパは、今思うと何もかもがスマートではなかったかもしれないが、それ故かおりのママにも僕の母親にもその都度優しく聞いてくれたと、僕に話してくれた。


 ここからは、誰もがはっきりとは僕に明かさなかったことだ。かおりのママは、怖い思いをしてから絵が描けなくなったということが、僕にもだんだんに判った。かおりは知らないことだろう。知らなくていい。かおりには決してそんな思いをしてほしくない。再び絵を描けるようになるまでに、どのようなきっかけがあったのかは知らない。どれだけの苦悩があったのかも……。それは、かおりが数年間弾かなかったことと根本……繊細で怖がりといったところが同じなのかどうかはわからない。そんなことを僕の両親やかおりのパパに聞いてみる勇気もない。しかし、かおりのパパが僕を男として信頼してくれていることは、子供心に意識していた。世話焼きの、ちょっと煩い母親がいるからか、誰かに頼られるのは嬉しかった。





 僕の両親は、かおりのパパの紹介で出逢ったと聞いた。知ったのは、僕が結婚して子供を授かった時だ。それまで、興味がなかったわけではない。聞けなかったのだ。

 僕は子供の頃から、周りのお友達と違って……祖父母との関わりが一切なかった。不思議に思ったが、両親には聞かなかった。子供ながらに、両親が話さないことは、即ち聞いてはいけないことだと判っていた。

 男女のことを理解できる年齢になった僕は、本当にそのリサイタルで初めて出逢った事実を父親から聞いて知り、正直信じたくなかった。そのリサイタルのチラシとプログラムは、毎年の発表会のプログラムのファイルとは別に保管されていた。後で父親が見せてくれた。まだ若い母親のピアニストとしてのプロフィール写真に知らない名字。そして僕の誕生日……。それはもう、出逢った日に結ばれたとしか考えられなかった。

 否、両親がどんな経緯で結婚したのであれ、僕はこれ以上ないほどに愛されていたことは実感していた。僕が余計な質問をして、万が一でも、ほんの少しでも両親を困らせたくなかった。

 僕も男だからわかる。父親が、母親のことを気に入ったんだろう。父親が母親を見る目、母親の名前を愛しげに呼ぶ声色……しかし、どんなに甘く囁いていても、母親の……何とも色気のないサバサバした、にべもない対応……。まぁ、綺麗だけどな。



 僕の両親とかおりの両親の愛情で、僕達は大きくなった。かおりのママの存在は、僕には限りなく薄く感じてはいたが、大人になるにつれて、皆が彼女を大切にしていることがわかってきた。

 僕の母親と、幼稚部から一緒だったというかおりのママは、細々としたことを始め、皆が普通にできることがゆっくりだったか難しかったという。なんでもテキパキとこなす僕の母親が手伝いながら高等部まで続き、子育てすら得意な方が担当する、という結論にでもなったのだろうか。……しかし、僕とかおりがピアノよりも絵が好きだったら、二人とも藤原の家で過ごしたのだろう。そんなこともわかるようになった。

 僕達ピアニスト夫婦の息子が、何故かヴァイオリンを選んだように、僕達もそれぞれ自らピアノを選んだのだ。僕もきっと、無理矢理ピアノをやらされた訳ではない。初めて鍵盤に触った日なんて覚えていない。お腹の中から毎日毎日聴いていた筈だ。覚えているのは、かおりが産まれる前までに、大きな音符で書かれた子供用のテキストを、ゲームのように次々とこなしていった楽しさと、母親の喜ぶ顔だけだ。



 僕の母親は、かおりにピアノを教えなかった。僕の生徒として発表会に出してくれ、コンクールの申し込み用紙を書いてくれ、ドレスを誂えてくれた……そのくらいだ。かおりの家にはピアノもなく、楽譜もなかった。かおりのお父さんは、かおりのピアノに特別な関心はなく、笑顔で普通に生きていくことを望んでいたようだ。

 しかし、かおりのピアノは僕の想像以上に様々な形で評価された。10歳でコンクールに入賞、僕の師匠に気に入られたこと、グランプリ受賞、音楽大学附属教室の特待生。



 僕が、かおりとかおりのピアノを大切にしている気持ちを、事情を知らない人間には「何故そこまでするのか」と思われるだろう。
 しかし、誰に何を言われようとも、その価値観は僕にとって大切なもので、説明する必要性も感じなかった。僕がかおりを好きなこと、かおりを大切にしていることを、かおりのパパがわかってくれれば、それで充分だった。




 僕はそんなことを考えながら、カバネルの『ヴィーナスの誕生』を観ていた。僕の大切な妻を、誰にも邪魔されずに観ることができる幸せ。同時に、本当は誰にも見せたくない綺麗な妻の……そんな姿を、皆に見られているような、そんなエロチックな気持ちもあった。




 その場を離れてから、かおりが小さい声で僕に聞いた。

「ブグローとカバネルは、どっちが好きなの?」
「カバネル」

 僕は間髪いれずに答えた。

「どうして?」

 どうしてって……ブグローのヴィーナスは自分で立っているけれど、カバネルのヴィーナスは、僕が組み伏せたように見えるからだ。でも、そんな無邪気に聞かれても、正直には答えられない。ここでは。日本語なんて周りに気を遣うこともないのに。


「かおりに似ているから」

 僕はかぶりを振った。

「本当?そうかな?」

 珍しくかおりが疑った。本当のことを教えてやってもいい。


 だが、それはまた夜に……。

















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